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メモ:コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない

「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきたのではないだろうか?」というようなことを三輪さんとのトークで言った.行為の複雑化と思考との関係.思考をコンピュータに担ってもらう,演算部分だけでもやってもらうとしたら,身体は複雑な行為をしなくてもいいのではないだろうか.複雑な行為をすることがヒトのヒトらしさではないことに,コンピュータは気づかせてくれたのではないだろうか. 千葉雅也さんの『 動きすぎてはいけない 』を読む.タイトルと「中途半端さ」の哲学というところに惹かれた. タイトルの言葉からヒトとコンピュータとの関係を考えた. コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない.動きすぎるとコンピュータになってしまう.いや,コンピュータのような論理演算を身体にインストールされる/してしまう.そうしたら,もうヒトではない.ヒトがヒトでありつつも,コンピュータをうまく組み入れていくためには,ヒトは動きすぎてはいけない.マウスで操作するくらいが丁度いいのかもしれない.ジェスチャーは動きすぎているのかもしれない.それは一見ヒトの自由をコンピュータに組み込んでいるようであるが,それはコンピュータがヒトの自由を利用しているにすぎないのかもしれない. 「考え」というか「演算」はコンピュータにやってもらおう.それでいい.思考の外在化を押し進める.そのためには身体を動かしすぎてはいけない.演算を完璧に組み込まれた身体はマシーンとなる.それではいけない(ような気がする).「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきた」と考えるならば,コンピュータを手に入れて演算を引き受けてもらうことで,ヒトは複雑な行為を行わなくてよくなるはずである.より単純な行為を行うなかで,単純だからといって動きすぎてはいけない.単純でいて,動きすぎない行為をしていく身体をコンピュータによる演算の外在化とともに考えていく必要がある.

三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(4)と告知_身体とオリジナル/リミックス

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三輪さんとのトークが近づいてきた.「コンピュータがもたらした世界」というタイトルのもと考えをまとめようとしているのだが,どううまくまとまらない.身体とコンピュータ,身体と演算,身体とテクノロジー.音楽とオリジナル,アルゴリズムとオリジナル,三輪作品におけるオリジナル.音楽だからリミックスといったほうがいいのかもしれない.三輪さんがリミックスされる可能性.あるいは,ブラッド・トルメルが言う起源・オリジナルを失うことを良しとするプログレッシブ・バージョニングが三輪作品に適用される可能性. 身体 三輪さんの作品における身体は極めてシンプルな行為を行っている.コンピュータが登場するまで身体は複雑な動きを行うように訓練されてきた.しかし,コンピュータとともにある身体は,ボタンを押すというシンプルな行為のみを要請される.その要請はカメラが出てきた時から行われてきた.ヒトがボタンを押し,コンピュータが演算する.この「最小の行為と組み合わされた演算」によって複雑な情報がつくられる.普段,コンピュータを使っているときは「演算」はヒトの外部にあるコンピュータに委託されている.けれど,三輪作品ではヒトが「演算」を行わなければならない.行為自体はシンプルかもしれないが,そこで同時に演算が行われている.しかし,それは外から見たときには,その行為が演算でその都度決定されているものなのか,あるシーケンスが予め決まってそれに沿って行われているのかが,わからない.三輪さんの作品の意図を知っている人は演奏を「演算」の結果として聴くだろうが,そうでない人はどうだろうか.さらに,演奏者が熟練者であり,演奏がスムーズに移行していけばいくほど,三輪さんの作品意図を知っていても,そこに「演算」を聴くことは少なくなっていくのではないだろうか.アルゴリズムによって規定された行為を自ら演算して次々に行っていく身体は,その行為自体はシンプルかもしれないが,これまでの演算なしで行為していた身体とは別のものに変化している.しかし,ヒトは演算とともにある世界で生活をしていながら,演算をコンピュータという外部に委託しているので,多くのヒトには演算そのものを看取する能力がまだほどんどないと考えられる. オリジナル/リミックス 三輪作品のリミックスというのはどういうものになるのであろうか.アルゴリズムが決まっていて,そ

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_16

記事を書きました→ デジタルアートのオークションPaddles On!が開催中 この記事に入れると長くなりそうだったので入れなかったのが「インターネットヤミ市」と「Paddles On!」との対比.この対比からは英語圏と日本におけるアートをめぐるインターネット・リアリティのちがいが見えてくるのではなないかと考えています.インターネットヤミ市についてはつい先日,ドキュメンタリー映像がYouTubeにアップされています. [ヤミ市や開催団体であるIDPWについての雰囲気を伝えるギズモードの記事→ 「インターネットヤミ市」や「どうでもいいねボタン」を生んだ秘密結社IDPWドキュメンタリーフィルム公開(動画) ] デジタルアートやネットアートを扱ったオークション「Paddles On!」に関する記事を読んでいくと,ネットアートという「変わり者」が現代美術界というビックリーグへ参入しだしたという流れがあります.アーティストであり批評家としても鋭いテキストを書いているブラッド・トルメルはTumblrなどで活動しているアーティストの集団を「マイナーリーグ」と呼んでいました.彼ら・彼女らが「アートワールド」の一軍に昇格できるかどうかの試金石が今回のオークションになりそうです. 対して,日本ではインターネットの初期から活動しているエキソニモも参加しているIDPWが,ネットに関する面白いものをアンダーグラウンドに集めて「インターネットヤミ市」を開催しました.そこにはインターネットはアンダーグラウンドな場所で自由だったけれども,近頃,その自由がなくなってきているよねという意識があって,だったら,さらなるアンダーグラウンドとして「現実の地下」的な場所に行こうという流れがあります. 英語圏には「アートワールド」がしっかりと存在しているので,ネットアートの人たちはそこにどう入り込むか,あるいは逆にアートワールドも虎視眈々と「次の」作家を探しているので,今回のように双方の思惑が一致することもあるわけです.そのなかで「データ」といういくらでもコピーできるものに どのような価値づけができるのか,ということをアーティストとオークション会社がそれぞれの立場で挑もうとしていると思われます.今回のオークションにおいては,あとはコレクターがどのような判断を下すのか

三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(3)_ヒトとコンピュータとの共進化

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三輪さんとのトークとのために自分の立ち位置を確認する必要があるのではないかと思いつつ,なかなかできないでいるのでとりあえずのメモを書く. インターフェイス研究で知ったエンゲルバートのヒトとコンピュータとの「共進化」というのが,僕の基本的的スタンスを決定している.コンピュータという「種」が出てきたことによって,人間が「ヒト」という生物種として進化する可能性がでてきた.もちろんコンピュータがなくても進化するものだけれど,「知的」というか「論理」を扱うもうひとつの種が出てきたことで,それまで唯一の種であったヒトにこれまでとは異なる進化の可能性がでてきたということ. ヒトがコンピュータをつくったと考えるのが普通だが,コンピュータがヒトに自らをつくり出させたと考えても面白いのではないかと思う.現時点ではヒトがコンピュータをつくったということになっているけれども,1000年後には立場が逆になっているのかもしれない.コンピュータがつくられるためにヒトが存在したというふうに. 生物種の「ヒト」ということになると,今朝,エキソニモのセンボーさんが「理解できないほど複雑すぎるものは生物と呼んでいい」という感じのツイートしていて,なるほどと思った.コンピュータが複雑になればなるほどそれは「生物」と見なされる.生物種となったヒトとコンピュータとは共進化していく.インターネットも生態系と呼ばれているから,ここにも生物が生まれている. 昔、EXONEMONSTERとかAnimal Festivalとか作品とかバンドやってた時に考えてたのが、とにかく理解できないくらいに複雑にしていくと、それはもはや生物と同じことなんじゃないかということで。生物と非生物を分けるのは、理解できるか出来ないか、みたいな — センボー (@1000b) October 5, 2013 ICCでEXONEMONSTERを見せてた時に、初めて鈴木健さんと会って、打ち上げでそういう話をして盛り上がった記憶がある。理解できないくらい複雑だったらそれは生物と呼んでもいいって切り口はちょっと面白い。初音ミクとかも、もはや全体像が把握出来なくらい複雑で、それが生物 — センボー (@1000b) October 5, 2013 トークのタイトルにもなっている「コンピュータがもたらした世界」とは,ヒト