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光の「廊下」:ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学

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十和田市現代美術館 で「ラファエル・ローゼンダール 寛容の美学」展を見た.今回, ラファエル・ローゼンダール は作品で「廊下」をつくろうとしたような気がする.今回のメインの展示と言えるローゼンダールの110個以上あるウェブサイトから16個選び,2分ずつにまとめた計32分の映像作品《Looking at Something (selected Websites)》は,展示室の2つの壁面に4つずつ縦長に映像を投影していた.8個の同じ映像の中央を歩いているときに,ローゼンダールは映像の「廊下」をつくろうとしたのではないかと思った(展示の画像はローゼンダールのサイトが見やすい→ Generosity at Towada Art Center Japan ).それは,十和田市現代美術館自体が展示室を「廊下」で結ぶ構造になっていることから着想を得たのだろう. 十和田市現代美術館の建築も,この考えを表しているように見えます.たくさんの展示室が廊下でつながったこの建築で,来館者が明るい廊下を渡って,部屋から部屋へと移動していくとき,脳や思考の違う部分同士が接続しあい,ひとつの世界そのものになっているように感じられます.そのため,十和田市現代美術館の建築は自分の作品にぴったり合うのではと考えました.     作家メッセージ 《Haiku》はまさに「廊下」に展示されていた.ウェブサイトを見ているときのように,正面から見るのではなく,もちろん,今回の展示形式でも正面から見れるけれど,それよりも,視野の両側で動き続ける作品を見ながら,映像の壁に囲まれた「廊下」を歩くという体験が新鮮であった. 《Haiku》壁面にペイント,切り文字,2013-2015 普段のコンピュータのディスプレイで見る形式とは異なるのだから,作品が新鮮に見えるのは当たり前だけれど,それでも,いつも以上にローゼンダールの作品がフラットに見えたことが驚きであった.彼の作品はもともとフラットなものが多いので,これも今回特有のことではないかもしれない.けれど,それでもローゼンダールの作品がこれまで以上にフラットで,プロジェクターがつくる光のサーフェイスに閉じ込められている感じがあった.その平面が抜け出そうとしているように見える映像もあれば,そのサー...

恵比寿映像祭レビュー_触れ合うことがつくる不可視な場

第10回 恵比寿映像祭 「Mapping the Invisible[インヴィジブル]」のレビュー「 触れ合うことがつくる不可視な場 」を書きました. このレビューは,展示冒頭のラファエル・ローゼンダールのレンチキュラーの作品からポール・シャリッツ《Shutter Interface》への流れが興味深いと考え,それがなぜなのかを永田康祐の《Sierra》が示す「インターフェイスの可触性」という観点から考えたものです.また,シャリッツの《Shutter Interface》でスツールが映写機とスクリーンを横から見える位置にソファーが置かれていたことも気になっていて,そこから,コンピュータがもたらしたインターフェイス以前/以後を考えるテキストにもなっていると思います. このテキストを書いているときに公開された長谷川新による「 ヴィジブルなものたち 」では,ローゼンダールからシャリッツへの流れは,私が書いたものとは異なる解釈で書かれています.一つのレビューで明確に見えたものの裏で「インヴィジブル」になったものが,二つのレビューを読んだ人には見えてくるはずです.ぜひ,二つ合わせてお読みください.

MASSAGE連載12_ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第12回「 ディスプレイなきディスプレイ場/ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》 」が公開されました. 「モノとディスプレイとの重なり」と題して書いてきた連載ですが, ラファエル・ローゼンダール《Shadow Objects》を取り上げた 今回は「ディスプレイ」は出てきません.代わりに出てくるのは「穴」や「影」といったモノのようでモノでなくて,モノに依存しているような存在です.ディスプレイはイメージの支持体として考えられますが,よく考えてみれば,イメージに依存して存在する「穴」や「影」のような存在なのかもしれません.だから,モノとしてのディスプレイが消えたとしても,ディスプレイは一つの場として,イメージとの関係のなかで存在し続けるのでしょう.そして,谷口暁彦さんによるカバーイメージは,最後は宇宙にまでいってしまいました.そんなこんなで今回で連載は一区切りです🖥🕳💻 よろしくお願いします😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊

紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」(追記:2017/09/07)

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紀要論文「クリーンな色面に重ねられたテクスチャが生み出すあらたなマテリアル」が掲載された「甲南女子大学研究紀要第53号 文学・文化編」が刊行されました.この論文は1月にG/P galleryで開催された開催された写真家・小山泰介さんと編集者・塚田有那さんとのトーク準備を兼ねて書いたものです. トークの告知記事→ 「Generated X [生成されたX]」の気配  紀要論文の冒頭です. 本論文は,ラファエル・ローゼンダールの作品と小山泰介の写真を参照しながら,コンピュータと物理世界とのあいだに現われるあらたな表現の可能性を考察していくものである.ローゼンダールはベクター画像という数学的な完全さを示す画像形式を用いて,傷ひとつない色面を用いた作品をウェブに発表し続けている.しかし,ウェブ上の作品を物理空間に展示する際に,彼はクリーンな色面をあえて汚すように割れた鏡や砂を床に敷き詰める.ローゼンダールは物理世界のダーティーな状況に重ね合わせて,コンピュータ上では汚すことができないベクター画像の表現の可能性を押し広げようとしている.小山はデジタル写真で光のデータそのものを表現しようとする.それは逆説的に,物理世界のテクスチャを光の に データに の 付与することで可能になる.小山はデジタル 写真を野晒しにしたり,海に沈めたりするとともに,カメラやスキャナーを物理的に誤った操作を行なうことで, 光のデータにテクスチャを重ねていく.ローゼンダールと小山の試みは,コンピュータのクリーンさとダーティーな物理世界とのあいだにあらたなマテリアルを生み出しているのである. 英語のタイトルとアブストラクトです. A new material created by a physical texture superimposed on a clean colored surface  This paper considers possibilities of expression between computers and the physical world, as seen in artworks by Rafaël Rozendaal and Taisuke Koyama. Rozendaall’s internet...

アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにしてみると…

ところがツルツルだったはずのアニメがゴツゴツに近いものを取り入れ,怪獣に逆襲をかけてぶっとばした瞬間がある.それは1960年代末,劇画ブームと呼応して導入されたマシントレスと特殊効果(ブラシやタタキ)が,アニメのセルをダーティに変えて質感を意識した仕上げを取りこみ始めた時期である.その質感に裏打ちされ,動きや演出も変わる.『巨人の星』の異次元空間のような大リーグボール,『タイガーマスク』の意表をつく豪快なアクションなど,それまでにない卓越したものが次々に登場した.ゴツゴツの怪獣とはまた違う,超現実的な汚い映像が出現したのだ.  今日も怪獣日和 第7回「アニメと怪獣の超えられない溝」 アニメ評論家の氷川竜介さんのテキストからの引用.「ダーティ」という言葉が使われているところに惹かれた. ラファエル・ローゼンダールがベクター画像の印象が「クリーン」で,どうしても「ダーティ」にできないと言っていたので,私はコンピュータをクリーンで,コンピュータと対比されるようになった物理世界をダーティと考えるようになった.物理世界がもともとダーティというわけではなくて,コンピュータのクリーンさと比較してはじめて,物理世界のダーティさが際立つというか,そこにコンピュータ以後のあらたなダーティな要素がでてきたといえる. 氷川さんはアニメと特撮のちがいから「ダーティ」という言葉を持ってきていて,ダーティが「超現実的」「異次元空間」という言葉と結びつくところが興味深い.アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにすることで,物理世界の有り様が変化していき,世界の法則そのものを変更していってしまう. 氷川さんのテキストは「ツルツル=アニメ」「ゴツゴツ=特撮」「ギラギラ=CG」「パキパキ=デジタルペイント」と「質感」の話になっているので,インターフェイスをこのような質感で語る文章を書いてもいいかもしれないと思った.

写真家・小林健太さんとのトーク「ダーティーなGUI」のスライドとその後のメモ

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スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-b3JadFRKZWdVRHc 10月の連続トークの最終週は 飯岡陸 さんのキュレーションする「 新しいルーブ・ゴールドバーグ・マシーン 」展での,写真家・ 小林健太 さんとのトーク「ダーティーなGUI」でした. 「ダーティーなGUI」というタイトルは「 GUIの歪み 」というタイトルの講演を考えているときに出てきた言葉でした.そして,今回はその言葉を使って,「クリーンなGUI」としてのラファエル・ローゼンダールと「ダーティーなGUI」としての小林健太を対比させることで,何が考えられるのか,ということを,小林本人と話してみようと考えました. 小林  指が大事な気がしていて.写真って実際の行為は,いろいろ身体を動かすにしても,ボタンを押し込むっていうそれだけで,そのボタンを押し込むっていう行為と,出て来た画像との間に,動作的な分断がある.その感じが面白いと思っていて.一方編集では指先と,そこから延びる筆致に連続性があって.  [投稿|トーク]小林健太「#photo」を巡って|小林健太×荒川徹×飯岡陸×大山光平(G/P gallery)  今回のトークはGUIが中心ではなく,小林の作品と作品制作の行為がメインなので,事前にいくつもの小林のインタビューやテキストを読んだなかで,気になったのが上の言葉でした.撮影の「ボタンを押す」という行為と編集の指で「描く」という行為との組み合わせ.小林は別のインタビューでは「行為をバインドしたいんすよね.撮る行為と,編集する行為を重ね合わせたい」と言っています.  カメラはボタンを押すという最小の行為で,物理世界を画像に移してしまう.物理世界を写し取るためにヒトが培ってきた行為を「ボタンを押す」という最小行為にしてしまったのが,カメラであり,その延長にコンピュータがあると考えられます.だから,私はGUIというシステムはヒトの行為を最小化していく流れにあるものだと考えています.しかし,コンピュータの論理世界にヒトが入り込むには,キーボードの一つひとつのボタンを押す行為によって文字列を入力していくことが最適でしょう.そこになぜわざわざGUIなんてものがでてきたのか....

2016年度 中部支部 第1回研究会で講演_「GUIの歪み」のスライドなど

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スライドのPDF→ https://drive.google.com/open?id=0B3RHXdLnqTi-WUQ5UjN2blduUmM 10月8日は情報科学芸術大学院大学(IAMAS)で開催された2016年度 日本映像学会中部支部 第1回研究会で 「GUIの歪み」 という講演をしました.映像学会の 中部支部 は名古屋大学大学院時代にとてもお世話になったところです.映像学会のなかで「メディアアート」や「インターフェイス」についての発表をし続けても,受け入れてくれた懐の深い支部です. 発表要旨は以下になります. 要旨: 写真家の小林健太は自らを「GUIネイティブ」と呼び,「自分が何かと接する時に,その間に何かフィルターが介入していて,歪みが生じている.そういう状況に慣れきったような感覚」があるという.小林が言うように,デスクトップメタファーからフラットデザイン,マテリアルデザインといった流れをもつGUIは,物理世界の再現を目指すわけではなく,その構造のみを取り入れた独自の世界をディスプレイに展開してきたと考えられる.GUIを操作し続けるヒトには,物理現象に還元できない表象がつくる物理世界を裏切るような歪んだ感覚が蓄積してきた.「ポストインターネット」と呼ばれた状況以後,この蓄積された感覚が閾値を越えて,作品として現われ続けている.今回の発表では,GUIによる歪んだ感覚を示すふたりのアーティストを取り上げる.ひとりは先述の小林であり,もうひとりはベクター画像の特性を活かした作品をつくり続けるラファエル・ローゼンダールである.小林とローゼンダールの作品を通して,GUIの歪みを示していきたい. 当日は,小林健太とラファエル・ローゼンダールの考察のまえにGUIの流れをアイヴァン・サザーランドからGoogleのマテリアルデザインまで追っていきながら,身体とGUIとの歪んだ関係を先ず示しました.その後で,その歪みを引き受けた作品として,ラファエル・ローゼンダールと小林健太の作品を紹介しました.この発表を考えているときに,ローゼンダールはベクター画像が示すような数学的な完全さとともにある「クリーンなGUI」で,小林は身体と物理世界とが「クリーンなGUI」に「汚れ」をつけていく「ダーティーなGUI」なのではないか,というアイデアを得ま...

「みえないものとの対話」展の記録集への寄稿

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福岡市の三菱地所アルティアムで開催された「 みえないものとの対話 」展の記録集にテキストを寄稿しました! テキストは「 出張報告書_20151030 もしくは,「みえないものとの対話」の対話  」を加筆修正したものです.ブログ記事を書いているときにはうまくまとまらなかった渡邊朋也《 荒んだ食卓を極力なおそう 》(2015)の部分を主に加筆しています. 記録集はアーティストの作品がそれぞれA2用紙両面にカラー印刷されたものが4枚と,私のテキストも含めた文字情報がモノクロ印刷されたものが1枚で構成されていて,この5枚が四つ折りで重ねられ帯でまとめられています.A2一面にプリントされた作品の展示写真はとても迫力があります. 記録集が欲しいという方は何かしらで連絡をください.先着5名にお送りします.

出張報告書_20160122−0124

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22日は打ち合わせ. 23日は3つの展示を見た.まずは,神保町の SOBO GALLERY で開催されている youpy の個展「Rainforest」を見に行った.会場に入るとテープが床から奥の壁に向かって張られていたり,小豆が床にまかれたり,マスクが壁に掛けられたり,カルタが乱雑に置かれたりと,多くのモノが一見,無秩序に,あるいはTumblrで流れてくる画像のように展示されている.さらに音楽もかかっている.展示空間にあるモノや音の関係を探ろうとしてもよくわからない.キャプションを手掛かりにしようと会場入口に置かれたプリントを読むと,会場に置かれたモノに数字が振られているのだが「㉙ B00K7VMVWC」「㉚ B0015XNFWQ」と書かれているだけなので,さらに眼の前に置かれているモノが何であるのか,わからなくなっていく.プリントを裏返すと展覧会名とともに東京大学教養学部統計学教室による『統計学入門(基礎統計学)』からの引用文がある.その引用文は「「ランダムに選ぶ」ことによって,部分が全体のよい縮図となり集団が部分に比較的正しく反映するからである」という文で終わっている.ランダムに置かれたかのようなモノ,ランダムな記号を割り振ったようなキャプション,そして,統計学からの引用文に記された「ランダムに選ぶこと」.残念ながら,私はこれらのヒントから目の前のモノがなぜ,そこに置かれることになったのかを言い当てることはできなかった. ギャラリーの展示企画をしているいしいこうたから,「Rainforest」でyoupyがしたことを聞いた.youpyはAmazonからランダムに商品を購入するプログラムをつくり,そのプログラムが買った商品がギャラリーに展示されているモノや音であるとのことであった.キャプションの「B00K7VMVWC」はAmazonの商品コードであり,このコードでAmazonを検索すると「CAPTAIN88 接着伸び止めテープ 薄地ストレッチ 巾12mm」がでてくる.「B00XADYC1W」は「民法条文カルタ 物権6/8担保物権(325条〜355条) 」であった.youpyはAmazonからランダムで商品を購入するプログラムを使うことで,「Amazonの縮図」をつくりだした.このような説明を受けた後にすぐに思ったのが,プログラムがモノを...

出張報告書_20151030 もしくは,「みえないものとの対話」の対話

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福岡県福岡市の三菱地所アルティアムで開催されている「 みえないものとの対話 」展を見た.「みえないものとの対話」展は,1980年代生まれの久門剛史,ラファエル・ローゼンダール,谷口暁彦,渡邉朋也によるグループ展である. 展示は 久門剛史 の《 after that. 》(2013年)からはじまる.細長い通路のような空間にミラーボールのようなモノに光があたり,壁や床に無数の反射が映し出されている.「ミラーボール」に近づいてみるとそれは無数の時計を組み合わせてつくられていた.一目見たときに「きれいだ」と感じた作品であった. 通路を抜けた空間には ラファエル・ローゼンダール の《 looking at something.com 》(2013年)が展示されていた.この作品はタイトルからもわかるようにウェブサイトであるから,ChromeやSafariなどのブラウザによって誰もがいつでもどこでも自由に見られるようになっている.その作品が今回はインスタレーションバージョンで展開されている.壁面にプロジェクションされた3つの画面に《looking at something.com》が映し出され,トラックパッドでカーソルを動かすと,画面上の天気が晴れから雨,そして雷雨と変化していく.鑑賞者はコンピュータの「窓」から自身の行為に即応する「天気」を見ることになるが,タイトルの《looking at something.com》は,そこで見ているもの「何か」としか言っていない.そこで見ているものは自然なものでもなく,人工的なものでもなく,単に「何か」なのである. [《looking at something.com》を考察した記事→ そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か? ] 次の部屋には, 谷口暁彦 によるiPadやiPod touchを組み合わせた連作《 思い過ごすものたち 》(2013年)が置かれていた.サーキュレーターの風に揺れている天井から吊り下げられたiPadのディスプレイには「風」に揺れるティッシュペーパーの3DCGが映し出されていたり,iPadの画面に水が流れることでメモに文字が入力されていたり,2台のiPod touchがビデオ通話アプリFaceTimeでつながれていたりする.私はこの作品を過去に何度か見ている.今回興味深かったのは...

札幌国際芸術祭のメモ:松江泰治とラファエル・ローゼンダール

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札幌国際芸術祭で見た 松江泰治 の作品.高解像度で撮影された街の写真がスクロールしていく様子を見ていて,ラファエル・ローゼンダールの aesthetic echo .com を思い出した.ローゼンダールの作品は俯瞰から街を見たものではなかったのだが,スクロールの感じが松江泰治の作品と似ているように思った.ローゼンダールの新作 neo geo city .com は俯瞰から街を捉えてスクロールさせているので,松江作品と本当によく似ている. スクロールの感じが似ている言っても,ひとつは高解像度画像でループの映像もうひとつは解像度にとらわれないベクター画像でランダムに生成されていく映像でスクロールされていく映像は全く異なる.でも,スクロールの感じは似ている.この似ている感じの根底にあるのは何なのかということを考えているのだが,未だによくわからない.「根底につながり」なんてものはないのかもしれないが,そこをつなげて考えたいとさせる「類似」関係がこのふたりの作家の作品にはあるように思われる. Google Earthの俯瞰写真からのMAPへのベクターで描写された地図への切り替えという体験で,松江とローゼンダールの作品のあいだの関係を考えてみると面白いのかもしれない.

お仕事:「IDEA No.366 : ポスト・インターネット時代のヴィジュアル・コミュニケーション」に記事を書きました

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「 IDEA No.366 : ポスト・インターネット時代のヴィジュアル・コミュニケーション 」に「ポスト・インターネットというプラットフォーム上で自生をはじめた複雑な生態系」という「ポスト・インターネット」の状況整理するテキストを書きました. 私の他にも,谷口暁彦さんの個人史に近い「ググっても出てこない,ぼくが知りうるネットアートについての歴史の断片,そして最近のこと」や,髙岡謙太郎さんの的確なまとめ「ウェブサービスにおけるヴィジュアル・コミュニケーションの進化」が載っています. 巻頭を飾るラファエル・ローゼンダールさんについてのテキストをセミトランスペアレント・デザインの田中良治さんが「退屈とクリエイション」というタイトルで書いています.「退屈」,いいキーワードです.あと,ローゼンダールさんのブログの テキスト を日本語訳してくているのがとてもうれしい.ローゼンダールさんのテキストは,ネットと表現の関係が的確に書かれているので,それが日本語で読めるのはとてもいいです. もちろん「ポスト・インターネット」のヴィジュアルも多数載っています! 普段はディスプレイで見ているものですが,紙に定着された状態で見るのもまた新鮮です. あと「光るグラフィック」展も取り上げられているので,本当に盛りだくさんの「ポスト・インターネット時代のヴィジュアル・コミュニケーション」になっています. −− 以前,「光るグラフィック」展について書いた記事→ 「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_22

今年度も メディア芸術カレントコンテンツ で記事を書くことになりました.よろしくお願いします! 今回は「 カオス*ラウンジによる展覧会「LITTLE AKIHABARA MARKET」が開催 」という記事を書きました. 今,「インターネットヤミ市」を中心にネットとリアルとの関係のなかの「マーケット」について考えているので,カオス*ラウンジが展覧会のタイトルに「MARKERT」とつけていたのでとても興味をもった次第です.なので,以下のテキストも入れようかと思いましたが,今回はどうもしっくりこないので外しました. *カオス*ラウンジと並行して,リアルとネットとを等価な場として活動をつづけるインターネット秘密結社IDPWによる「インターネットヤミ市」や,ラファエル・ローゼンダール氏によるプロジェクターをもちよって作品を自由にプロジェクションする「BYOB」,そして,USBメモリやDVDドライブなどオフラインでのデータのやり取りのなかで作品の配布を行ったりするAram Bartholl氏の「Dead Drops」や「OFFLINE ART」など,インターネット的感覚を多分に自らに取り入れた作家・集団が独自のフォーマットをそれぞれつくりだしていることはとても興味深い.

トークしてきました

三輪健太朗著『マンガと映画 コマと時間の理論』刊行記念トークショー「メディアの狭間から考える」 に出て,トークしてきました. 私の役割は「マンガ・映画以後」ということで,三輪さんが著書のなかで「フレームの可変性」ということ言っていて,でも,マンガでは読者が「コマ」を直接は変えられないよねということで,ブラウザのウィンドウの可変性を強く意識している ラファエル・ローゼンダール さんの作品を紹介しました. トークではうまく話せませんでしたが,ローゼンダールさんは初期のアニメの「動き」も強く意識している作家です.感覚的に気持ちいい「動き」をとても考えていて,自身のブログにいくつかテキストを書いています.初期のアニメについてはトークでも増田さんが取り上げていたので,この辺りからもネットアート,もしくはブラウザ上の表現と「マンガと映画」を考えることもできたかもしれません. いつもながら,自分のトークには反省だらけですが,司会の松谷さん,岩下さん,増田さんのそれぞれの専門からの問題提起,そしてそれに対して見事に応答していた三輪さんのおかげでとても刺激的な時間を過ごすことができました.ありがとうございました! −− 最後におまけと自分のためのメモ トークでのスライド(ボツスライドつき) ウィンドウって,大きさを変えられますよね? 最初はクワクボリョウタさんの影絵シリーズも取り上げようと思っていました.クワクボさんは影絵をメディアとして使いながら,「フレーム」をなくしつつ線路という一本のラインに沿って「物語」を想起させる作品形態から,影をフレームで区切り,ループした抽象的な表現へと変化させました.この変化は「コマ」と近代の時間性と関係があるのかどうかを考えていました. また,ローゼンダールさんは可変的なフレームをもつ抽象的な非物語的な表現を行い,クワクボさんもフレームをつくることで影を抽象化して非物語的な表現を行っています.あと,拡大縮小自由な影は「ベクター」画像になるでしょう.色彩は全く異なりますが,このふたりは作品が「クリーン」な感じも似ている感じがあるので,また改めて考えてみたいです.

告知:三輪健太朗著『マンガと映画 コマと時間の理論』刊行記念トークショー 「メディアの狭間から考える」

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三輪健太朗著『マンガと映画 コマと時間の理論』刊行記念トークショー 「メディアの狭間から考える」  日時:2014/5/17 (sat) 18:00 open 会場:京都三条 Media Shop 主催:視聴覚文化研究会  マンガと映画は,私たちにもっともなじみ深い表現媒体かもしれません.両者の比較分析を通して,「コマ」という時間表現にマンガの近代的な特性を抉り出す著作『マンガと映画』,その著者である三輪健太朗氏をお招きします.「時間」,「コマ」,「近代」といったキーワードから,異分野に属する登壇者たちが『マンガと映画』に切り込むと同時に,さらには両者に限らない様々なメディアや視覚文化一般へと開いた議論を目指します.  登壇者: ・三輪健太朗(マンガ研究、学習院大学) ・松谷容作(映画論、神戸大学) ・岩下朋世(マンガ研究、相模女子大学) ・水野勝仁(インターフェイス論、甲南女子大学) ・増田展大(映像文化論、早稲田大学) −− 「マンガ」と「映画」という畑違いの分野の書評会に出ます. 当日は以下の作品やテキストを取り上げながら,三輪さんが『マンガと映画』のなかで取り上げていた「フレームの可変性」や「意味の一義性」 のことなどを話そうと思っています.これらのことを考察しながら, 「 近代を共有するマンガ・映画」という枠組みから外れている( あるいはそれを共有し続けている?)ウェブやコンピュータという話ができればと思います. Olia Lialina,《My boyfriend came back for war》 1998 Lev Manovich and Andreas Kratky,《SOFT CINEMA》2002−2005 クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》2010 ラファエル・ローゼンダール《into time .us》2012 ラファエル・ローゼンダールの「ブラウザ」に関するテキスト composition & the browser Formal characteristics of the browser お時間のある方は,是非お越しください! -- 追加[2014.5.16] 発表スライド(...

ISEA2014の500w_アブストラクトのためのメモ_1

2003年に書かれた Julian Stallabrass の ' The Aesthetics of Net.Art 'で,初期のネットアートは非物質的であるがために,物質性と結びついた美的感覚に基づく現代アートとは異なる存在になっていたと指摘した.さらに,Stallabrassはnet.artの作品の多くが「機能する」ことにより,現代社会に対してダイレクトに影響を与ええていたと書く.ここでの「機能」はインタラクティブであったり,誰もがネット上で見ることができるということと関係している.対して,現代アートの作品は社会への問題提起などを行なっているが,それらはギャラリーなどでひっそりと行なわれ,うまく隠れていたとしている.ひっそりと行なわれているから,そして社会にダイレクトに影響を与えないからこそ,それらは価値をもった. 10年後の2013年「ネットの美学」はどう変わっているだろうか.ポスト・インターネットの作家たちは,自分たちのリアルの画像を物質性のない画像に変えて,インターネットに流通させつづけて,そこでの変化を楽しんでいる.ギャラリーも「画像」化した作品によって,あらたなコレクターをネット経由で獲得している.Stallabrassは「伝統的なアートのオブジェクトとインターネットアートの オブジェクト は全く異なっている」と書いたが,今でもそのちがいはなくなってきている.現代アートの作品も,どんどんインターネット・アートがもっていいた「非物質性」を取り入れてきている. 作品のJPEG画像のみの展覧会である' Send Me the JPEG ' はこの状況を皮肉ったものである.皮肉ってはいるが,この流れは止めることができない.いや,世界第3位のオークションハウス「フィリップス」がTumblrと共同して開催さいたデジタルアートのオークション「 Paddles On! 」が示すように,アートの非物質化=データ化の流れを推し進めようとする力のほうが強いのであろう.ただ,コレクターの方はまだこの流れに懐疑的で,オークションではデジタルデータそのものの作品よりも,デジタルのアイデアでつくられた物質的な作品に高値がついた. しかし,アーティ・ヴィアーカントのエッセイ「 ポスト・インターネットにおけるイメージ・オブジェクト(The ...

「指を置く」展のギャラリートークのスライドと資料

大阪の dddギャラリー で開催中の「指を置く」展で齋藤達也さんと「コンピュータにとっての『指を置く』」というタイトルのトークをしました. スライドをつくっているなかで「スピリチュアリティ」という言葉がでてきて,その言葉に引っぱられて大分「あやしい」感じの発表になっています.でも,結構本気でもあります. 発表を聞いていただいた来場者の皆さん,的確なツッコミをしてくれた齋藤達也さん,そしてdddギャラリーの皆さん,本当にありがとうございました. 以下が発表の資料です. スライド コンピュータにとっての「指を置く」 資料 Bret Victor, A Brief Rant on the Future of Interaction Design, 2011 iPhone Presentation macworld 1/5 日本語字幕 スティーブ・ジョブズ_05m20s インターネット・リアリティ研究会:アーティスト・トーク+座談会 作品 エキソニモ 《断末魔ウス》2007 《gotexists.com》2009 Rafaël Rsemdaal 《on and off .org》2003 《invisible cursor .com》2008 《out in the wind .com》2009 - 今回の発表に関連する以前のテキスト 「INFOspirit」という大きな構造体のなかで「神」が顕現する条件 見ているモノが触れているモノか?_pdf

「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

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「 光るグラフィック 」展を見てきた.タイトル通りグラフィックが光っていた.「光」を放つというだけで,それが動いても動いていなくても,どこかモノとしての重さから離れていたような気がした.だから,光るグラフィックは動いて当然で,中村至男さんの作品のようにグラフィックが動かないとそれだけで注目してしまう.少し前に「モーション・グラフィック」がでてきてグラフィックが「動く」ということが強調されていたが,それとは違う段階に入ったのかなと思った.このことは宮越裕生さんによるインタビューでラファエル・ローゼンダールさんも同じようなことを言っている. - 今回のテーマは「光るグラフィック」ということですが,そういったアイデアは以前から意識されていましたか?  僕の表現の中に,そういった側面はあったと思います.ただ今回,田中さんのキュレーションによってその側面がある文脈に入り,色々なことに気づかされました.たとえば静止画であっても動画であっても,その絵の後ろから自分に向かって光が投影されている.そういう時代なんだと思いましたね. 宮越裕生さんによる「光るグラフィック展」レポート  動く,動かないに関係なく光るグラフィックが当たり前になってきた今だからこそ,今回の展示を構成する「RGB/CMYK」というグループ分けが可能になったといえる.いや「光るグラフィックが当たり前」と書いたけれど少し違うかもしれない.「RGB」や「CMYK」の違いということはデザイナーの人は常に意識してきたはずであって,それは紙であれウェブであれ変わりはないだろう.そういった意味では「RGB」と「CMYK」の違いはだいぶ前から当たり前であったわけで,これらの違いを「光るグラフィック」というフォーマットで一度同じ平面に置いてしまおうとする意識が出てきたのが2014年ということになるのかもしれない.だから, セミトランスペアレント・デザイン の田中良治さんがその意識を具体化させる展示を実現させたことはとても重要になってくる.田中さんを含め制作側からの意識にキュレーターや研究者は追いついていけているのだろうか.あるいは別の視点をあなたたちは出せますかと求められている感じもする. ということで,別の視点を出せるかどうかわからないけれど,今回の展示で気になったふたつの作品, 新津...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_20

記事を書きました→ ロッテルダムのMAMAがラファエル・ローゼンダール氏によるJODIの解説ページを開設 ネットアートのパイオニアJODIの作品について,ネットアートの革新的良心(?)ラファエル・ローゼンダールが「実況」している映像についての解説を書きました. 記事にはうまく書けなかったけれど,ラファエルさんのこの試みはアーカイブ的にも興味深いと思います.ということでボツテキスト. ネットアートのアーカイブに関しても,ローゼンダール氏のJODI実況は興味深い.ローゼンダール氏はゲームを題材にした《http://www.untitled-game.org/》にアクセスするのだが,そこ書かれていたのは「mac OS9」という文字である.それはこの作品が現状のMacOSでは動かないことを意味する.そこでローゼンダール氏はYouTubeにいき「jodi untitled game」と検索して,その作品が撮影された動画を探すことにする.ここでの彼の行為が示しているのは,作品がOSのバージョンの違いによって動かなくなることであり,同時に,その作品が「映像」としてYouTubeやVimeoなどの動画共有サイトに残っている可能性があるということである.ローゼンダール氏はJODI実況をJODIのアーカイブページを探すところから始めたのだが,最後になってJODIのアーカイブページである「http://joid.org/archive/」を見つける.そこにはJODIの作品だけではなく,作品に関する動画・画像を含んだあらゆるページヘのリンクがある.そして,ローゼンダール氏は見つけたアーカイブページをWikipediaのJODIのページに「Full archive of Jodi」というリンクを追加する. そして,考えれるほど興味深いということで,ボツテキスト.「実況」が映し出す行為の連鎖みたいなものがあるのかなーと思います. 実況の最後の方で,ローゼンダール氏は《http://x20xx.com/》を体験しながら,映像作品のようにリニアに決定されているように見える作品もプログラムから生成されたものであることを指摘する.作品そのものではないが,ローゼンダール氏のJODI実況も決まった順路で作品を巡っていくのではなく,彼がリンクを行きつ戻りつしながら作品を見ていく様子をスクリ...

変形していくためのiOS7

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チェルフィッチュ の岡田利規さんの『 遡行 ---変形していくための演劇論 』を読んでいる時に, iOS7 が「フラットデザイン」を採用したことの意味に考えが及んだ.演劇からiOS,このつながりはおもしろいかもしれない.『遡行』という本全体から考えが及んだということではもちろんなくて,そのなかにある「演劇/演技の,ズレている/ズレてない,について」(『ユリイカ』2005年7月号所収)に書かれた「言葉」と「しぐさ」はほとんど同期しないということから,iOS7が思い浮かんで,「フラットデザイン」という視覚言語とガラスをスリスリするという行為との関係,いや,フラットデザインとSkeuomorphism(スキューモーフィズム)とのあいだの視覚的ちがいと,タッチのジェスチャーとマウスとのちがいを考え始めてしまった. スキューモーフィズムが現実をディスプレイに移行させる「究極のメタファー」だとすれば.それはデスクトップ・メタファーに連なるもので,そこにはマウスがあって,マウスをクリックして,アイコンを「押し」ながら作業を行っていた.マウスというモノを掴んで押して,コンピュータにコマンドを与えていた.それは,現実にあるものをメタファーとして使ったというだけではなくて,現実で行っている行為も同じように使っていることになる. マウスは実際に使うことなく,自分の指で多様なジェスチャーを使うことができるようになったが,それでも多くのことが現実のモノを模した「ボタン」や「アイコン」を押すということで行われていた.だから,iOSはデスクトップ・メタファーを使ってはいないけれども,Macで得られたメタファーの有効性をスキューモーフィズムで推し進めるとともに,マウスによる身体感覚も残していたといえる. 現実をディスプレイに移すときには,ジェスチャー・行為とイメージとを結びつける方法がとても重要になってくる.デスクトップ・メタファーはそこに「メタファー」という「言葉」の力を「視覚的」に応用して使った.iOSは「イメージ」そのものを使ったといわれていたが,実際は「スキューモーフィズム」という「メタファー」であった.iOSで行為は変った.しかし,行為と同期するためのイメージの本質的な部分は変わらなかった.それでもiPhoneの操作がさほどの苦労もなくできたのは,デスクトップ・メタファ...