出張報告書_20160122−0124

22日は打ち合わせ.


23日は3つの展示を見た.まずは,神保町のSOBO GALLERYで開催されているyoupyの個展「Rainforest」を見に行った.会場に入るとテープが床から奥の壁に向かって張られていたり,小豆が床にまかれたり,マスクが壁に掛けられたり,カルタが乱雑に置かれたりと,多くのモノが一見,無秩序に,あるいはTumblrで流れてくる画像のように展示されている.さらに音楽もかかっている.展示空間にあるモノや音の関係を探ろうとしてもよくわからない.キャプションを手掛かりにしようと会場入口に置かれたプリントを読むと,会場に置かれたモノに数字が振られているのだが「㉙ B00K7VMVWC」「㉚ B0015XNFWQ」と書かれているだけなので,さらに眼の前に置かれているモノが何であるのか,わからなくなっていく.プリントを裏返すと展覧会名とともに東京大学教養学部統計学教室による『統計学入門(基礎統計学)』からの引用文がある.その引用文は「「ランダムに選ぶ」ことによって,部分が全体のよい縮図となり集団が部分に比較的正しく反映するからである」という文で終わっている.ランダムに置かれたかのようなモノ,ランダムな記号を割り振ったようなキャプション,そして,統計学からの引用文に記された「ランダムに選ぶこと」.残念ながら,私はこれらのヒントから目の前のモノがなぜ,そこに置かれることになったのかを言い当てることはできなかった.

ギャラリーの展示企画をしているいしいこうたから,「Rainforest」でyoupyがしたことを聞いた.youpyはAmazonからランダムに商品を購入するプログラムをつくり,そのプログラムが買った商品がギャラリーに展示されているモノや音であるとのことであった.キャプションの「B00K7VMVWC」はAmazonの商品コードであり,このコードでAmazonを検索すると「CAPTAIN88 接着伸び止めテープ 薄地ストレッチ 巾12mm」がでてくる.「B00XADYC1W」は「民法条文カルタ 物権6/8担保物権(325条〜355条) 」であった.youpyはAmazonからランダムで商品を購入するプログラムを使うことで,「Amazonの縮図」をつくりだした.このような説明を受けた後にすぐに思ったのが,プログラムがモノを購入していくというプロセスには,ヒトの好みなどが反映されないがゆえに,ヒトが「ランダム」に購入するよりもバイアスがかかっていない「ランダム」かもしれないということであった.しかし暫くすると,「ランダム」であるかどうかではなくて,「モノを買う」というヒトの判断に基づいた行為をプログラムができてしまい,それが作品のなかに組み込まれていることが興味深いと思うようになった.そして,youpyというヒトがAmazonから送られてきた商品を展示に仕立てるために行ったであろう試行錯誤もまた,プログラムでの購入という行為を経由しているからこそ,ヒトがコンピュータに振り回されている感じがして面白い.ヒトがやってもいいことにプログラムを使うことから生まれる可笑しみが,youpyの個展「Rainforest=アマゾン」にはあった.


次はTakuro Someya Contemporary Artラファエル・ローゼンダールの個展「Somewhere」を見に行った.ローゼンダールはウェブサイトの作品を多く発表しているけれど,今回はレンチキュラーレンズシートを用いた絵画の作品が展示されていた.鑑賞者の動きに応じて見え方を変えるレンチキュラーレンズシートの絵画は,ウェブサイトでのインタラクションを現実空間に引っ張りだしてきたような感じをうける.ローゼンダールはインターネットではひとつしか存在し得ない「ドメイン」というシステムを使って,誰もが見ることができるウェブサイトを作品として購入して所有可能なものにする方法を提示しているけど,今回のレンチキュラーレンズシートもまた「所有」ということから考えることができるのではないだろうか.モノとして所有するという概念を抱きにくいデジタルな現象ともいえるインタラクションそのものを,レンチキュラーレンズシートというモノに落とし込む.ローゼンダールはデジタルの画像をモノに転写しているのではなく,デジタルの画像を見る際に生じるインタラクションの体験そのものを,デジタルから切り離しモノとして所有可能にしていると考えられる.

23日は最後に東京都現代美術館で開催されている「"TOKYO"-見えない都市を見せる」展を見に行った.この展示では1989年生まれのナイル・ケティングと1990年生まれの松本望睦からなるバーチャル聴覚室主宰ユニット「EBM(T)」がキュレーションした「ポスト・インターネット世代の感性」のセクションにあったテイバー・ロバックの作品《20XX》がよかった.インターネットで作品は見ていたのだが,高精細な大型ディスプレイで見ると,自分のパソコンの小さな画面で見るのとは迫力が全く異なっていた.

24日はNTTインターコミュニケーション・センター(ICC)で開催されているジョン・ウッド&ポール・ハリソン「説明にしにくいこともある」展を見に行った.彼らの映像作品に対して,ICCの主任学芸員である畠中実は「日常的な出来事の中に存在する自然の法則や物質のもつ性質などがあきらかにされ」ると書いている.最近,私は3DCGによるシミュレーションで制作された映像作品を多く見ていた.そこでは自然法則はまるでないかのような作品がつくられると同時に,自然法則をシミュレートした映像もある.ジョン・ウッドとポール・ハリソンの作品はすべてカメラの前で起こった事実を撮っている.しかし,その映像を見ているとどこかシミュレーション映像ではないかと思ってしまうことがある.《ノート》という映像作品のなかで,皿がテーブルの上に落ちてくる映像がある.一枚の皿がテーブルの上に落ちる.そして,割れる.その上にもう一枚,お皿が落ちてくる.そして,割れる.その上にもう一枚,お皿が落ちてくる.そして,割れる.ここで起こっていることは特別なことではなく,お皿が割れるにすぎない.しかし,それが単に繰り返されるなかで,お皿は重力に引かれて,他のモノと衝突したときの力で割れるということが,どこかシミュレートされたもののように見えてくるのである.起こっていることは事実であり,それは自然法則のもとで起こっている.しかし,お皿が何度もテーブルの上に落ちてくるという設定は普段ではあり得ない.それどころか,お皿が割れるのを何度も見るという設定自体があまり見るものではない.お皿が割れるということは知っていても,私たちはそれをしっかりとは見たことがない.普段あまり見ることがないお皿が割れるということを何度も繰り返す設定が,自然法則とその現実自体を示す映像を自然法則とその現実自体を示すひとつのシミュレーションとして映像として示す枠組みとして機能することもあるのかもしれない.

また,ジョン・ウッドとポール・ハリソンの《セミオートマティック・ペインティング・マシン》も興味深かった.この作品は「物語」セクションに展示されている19分36秒の映像作品である.この作品で興味を持ったのは半自動で動くスプレーからペンキを噴霧して時計,白シャツ,観葉植物,傘などの日用品をペイントすることで,その表面が塗られるとともに,日用品のテクスチャが変わるからである.白いイスを黄色でペイントしたものは,どこか3DCGのモデルのイスのようなものになっていた.そして,この作品は,カラフルにペイントされた紙で出来た自動車にジョン・ウッドとポール・ハリソンが乗っている映像を映しているテレビが真っ白にペイントされて,ペンキを滴らせながら,そのまま映像がホワイトアウトして終わる.この終わり方がとても印象的であった.テレビというディスプレイをペイントして終わることの意味は何なのだろうか.テレビをペイントすることは,モノのみをペイントするだけでなく,ディスプレイに映るものも同時にペイントすることを意味する.そして,モノとディスプレイがペイントされたさきに,それらの映像を映してきた彼らの映像作品自体が「ペイント=ホワイトアウト」されて終わる.なぜ,ジョン・ウッドとポール・ハリソンは最後にテレビを塗りつぶしたのか.あるいは,テレビを塗りつぶさざるを得なかったのか.この問いは改めて考えてみたい.

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