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身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界

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今から7年前に .review というTwitter発の雑誌に書いたテキスト.業績に概要が載ってなかったので改めて読んでみたら,自分で書いた図に「ディスプレイの重層性」とあった.今とつながっているのかもしれない. − 水野勝仁「 身体|カーソル|イメージ:カーソルによって切り替えられる世界 」,.review001,pp.282-289,2010年5月 概要 本論考は,コンピュータがカーソルを中心にして身体のあらたなあり方を規定する想像力をつくりだしていること論じたものである.カーソルと身体との結びつきを考察するために,評論家の斎藤環がインターネットのOSI階層モデルによって説明する「ラメラスケイプ」という概念と,文学において身体が消失してきたとされる論を参照する.そこから,文学から消失した身体がコンピュータに移行してきたことを示す.

お仕事:インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」

DMM.make で記事が公開されました! インターネット・リアリティ・マッピング(5)「エキソニモとライダー・リップス(中編)」 今回はわりと長めのエキソニモ論になっています.エキソニモの作品の流れのなかで彼らがIDPW名義で行っている「インターネットネットヤミ市」を位置づけてもいます.こんな感じでエキソニモ論を書いてみたい.もちろん,ライダー・リップスも登場します.結構長いので,お時間のあるときに読んでみてください!

アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました

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名古屋から神戸に引っ越しました.それで国立国際美術館に アンドレアス・グルスキー展 を見に行きました.グルスキーの作品を一言で言うと「大きい」.それは写真として「大きい」ということですが,とにかくに大きい.普通の写真を見る距離でグルスキーの縦構図の作品を見ると見上げるかたちになるので,クビが痛くなります.このあたりはとても重要かと思われます.神の視点の前ではヒトは小さなものだなと,クビの痛みともに感じられるからです. といっても,グルスキーも神ではなくてヒトですから,その大きな作品を「チチンプイプイ」と言って簡単につくっているわけではなく,コンピュータで複数の画像をくっつけてつくっているわけです. パリのモンパルナス地区に位置するアパルトマンを捉えたこの作品は,グルスキーがデジタル技術によるイメージ加工を始めた頃に制作されました.二つの撮影ポイントから映された画像を組み合わせて一つの画面を作り出すことで,写真家は,建物の全体を正面から眺めることができ,かつ,アパルトマンの窓の中の一つ一つの世界を見ることの出来るイメージを完成させました. アンドレアス・グルスキー展パンフレット(国立国際美術館)  ふたつ以上の視点が入り込むから作品を見ていると混乱してきます.「あっちの視点で見ていると思ったら,いつの間にかこっちの視点に移動している」ということを写真でやられると僕の視覚はついていけずに混乱して気持ち悪くなったりしました.でも,グルスキーの作品で多い神の(上からの)視点において気持ち悪くなることなく,首の痛みだけを無視すれば自分も神になったような感じを味わっているような気がします.「神のような感覚」を味あうだけなら,グルスキーではなくて,もっと広大な俯瞰視点をとれて,自由に動き回れるGoogle Earthの方がいいかなという感じでもあります.グルスキーとGoogle Earthを比較するなんてと思うかもしれませんが,これらは「画像」として同等なものだと思います. 上の画像は「アンドレアス・グルスキー」とGoogleの画像検索してみたものです.なんで画像検索をしたかというと,多く人がこんな画像でグルスキーの作品を見ていると思われるからです.グルスキーの作品をネットで見るとちっとも大きくありません.クビも痛くなりません.神の視点と...

メモ:コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない

「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきたのではないだろうか?」というようなことを三輪さんとのトークで言った.行為の複雑化と思考との関係.思考をコンピュータに担ってもらう,演算部分だけでもやってもらうとしたら,身体は複雑な行為をしなくてもいいのではないだろうか.複雑な行為をすることがヒトのヒトらしさではないことに,コンピュータは気づかせてくれたのではないだろうか. 千葉雅也さんの『 動きすぎてはいけない 』を読む.タイトルと「中途半端さ」の哲学というところに惹かれた. タイトルの言葉からヒトとコンピュータとの関係を考えた. コンピュータを前にしてヒトは動きすぎてはいけない.動きすぎるとコンピュータになってしまう.いや,コンピュータのような論理演算を身体にインストールされる/してしまう.そうしたら,もうヒトではない.ヒトがヒトでありつつも,コンピュータをうまく組み入れていくためには,ヒトは動きすぎてはいけない.マウスで操作するくらいが丁度いいのかもしれない.ジェスチャーは動きすぎているのかもしれない.それは一見ヒトの自由をコンピュータに組み込んでいるようであるが,それはコンピュータがヒトの自由を利用しているにすぎないのかもしれない. 「考え」というか「演算」はコンピュータにやってもらおう.それでいい.思考の外在化を押し進める.そのためには身体を動かしすぎてはいけない.演算を完璧に組み込まれた身体はマシーンとなる.それではいけない(ような気がする).「ヒトはこれまで複雑な行為をしすぎてきた」と考えるならば,コンピュータを手に入れて演算を引き受けてもらうことで,ヒトは複雑な行為を行わなくてよくなるはずである.より単純な行為を行うなかで,単純だからといって動きすぎてはいけない.単純でいて,動きすぎない行為をしていく身体をコンピュータによる演算の外在化とともに考えていく必要がある.

「幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー」を見た

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N-MARK B1で開催されている「 幸村真佐男展/LIFE LOGー行雲流水ー 」を見たのですが,作品を長い間見ていると自分が何を見ているのか分からなくなってしまい,そのことを考えるために会場がある伏見から鶴舞(3キロほど)まで歩きました.でも,頭はすっきりしませんでした.久しぶりの衝撃でした. 2つの作品が展示してあって,ひとつは「非語辞典」に代表される有限であるけれども無限を感じさせるような文字の組わせを「辞典」にまとめたものです. 上の写真には1冊しかありませんが,これが下の写真のように何十冊もあります(ブレていてタイトルが読めません,すいません). この作品は知っていたので,会場に向かっていたときに「この圧倒的な量」にリアリティを感じられるのだろうかと考えていました.コンピュータが延々と組み合わせる文字列を印刷して「本」というモノにしていく.モノには重さがあって,この辞典はとても重い.そこで1ページに使われている紙は薄くて,軽いけれどもそれが積み重なると重い.重いし,大きいし,作品を保管するのが大変だと思いつつ,その物量感に作品そのものではなく,搬入が大変だったんだろうなと考えた. データではなくモノになるとヒトが介入します.作品として作られていくときも,コンピュータからプリントアウトされる「膨大な」紙の束をまとめて,それを製本するのはヒトが行います.「膨大な」というのはヒトが思うことであって,コンピュータはただただ命令にしたがっているだけです.そして,「膨大な」作業して出来上がった本は重い.そして,それを搬入のために運ぶにはどれだけの時間がかったのか.腰を痛めたヒトもいるかもしれない.このように考えてみると幸村先生(私の研究を精神的に支えてくれている人なので「先生」と呼ばせてください)の作品は「コンピュータを制御し,永遠とも思える宇宙的スケールに挑み続けた」と言われることが多いけれど,そこに必ずヒトが介入しないといけないし,「永遠とも思える宇宙的スケール」であるがゆえにヒトにとっては大きな負担になるので,意外ととてもヒト寄りの作品なのかもしれない. もうひとつの作品は《LIFE LOG》と題された映像作品です.N-markのページに「幸村がこれまでに日常的に撮り溜めてきた300万枚に及ぶ写真.その全ての写真を...

GoogleのGlassについて考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまう

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GoogleのGlass について考えると,マクルーハンのことが思い出されてしまうのは,僕が古い人なのかもしれない.「映画は反射光,テレビは透過光」という区分け.Glassは透過光なのか,反射光なのか.Glassのページには「Welcome to a world through Glass.」とあるから,僕たちが経験するのはGlassを「透過=through」した世界であるらしい.でも,よく考えるとここは複雑なものがあって,ガラスを通るして映像が投影されているとすれば「透過光」だけれども,映像以外の部分は世界のオブジェクトからの「反射光」なわけです.ということは,Glassを通して「反射光+透過光」という組み合わせで世界を認識していくということでしょうか. このことが意味するのは,マクルーハンが提唱した枠組みでは捉えることができない「メディア」が登場してきたということになります.これは今ままでの考え方を超えて,あるいは捨てて,考える必要があるものなのかもしれません. 理解できないものの価値を感じることは難しいですし,何か新しいものを理解してもらうためには,いずれにしろ古い価値体系の何かを動員してメタファー的方法で説明するなど過去あったものとの接続作業が不可欠ですね。. グーグルグラスもテレパシーワンも大きな壁に阻まれている.その2 - ウェアラブルの時代 -   これは,Glassと同じメガネ型のウェアブルインターフェイス・テレバシーワンを開発している井口尊仁さんのブログからの引用です.Googleが「インターネットとのシームレスな接続」や「スマートフォンの拡張」を前面に押し出して Glassを売り出すのは ,今の価値観の延長にあるから理解されやすいからだと井口さんは指摘しています.でも,Glassやテレバシーワンが持ってい力は,理解できないほどのあたらしさを持っていると井口さんは考えています.井口さんが考える「あたらしさ」は,彼のブログに書いてありますが,僕としては,Glassを通して見る世界,それがGlassという「メディア」を通して見る世界だとすると,それは今までのメディアを大きく区分けしたマクルーハンの枠組みが崩れるという意味で,そこには「あたらしさ」があるのではないかと思うわけです. あと,もうひとつGlassで...

ヒトの身体をナメてはいけない

「 ワコムの最新液晶ペンタブレット「Cintiq 13HD」がいよいよ登場! タナカカツキ×伊藤ガビンによる未来の機械のレビュー!! 」がとても面白いです.何が面白いって,「手が邪魔(笑)! 」というところ. カツキ :でも,一点言わせてください.画面に向かって直接描くことによって,画面と目との間に手がありますよね.そうすると手に目のピントがいっちゃうんですよ(笑).手が邪魔に感じるんですよ. ガビン :もう手を使うな! ノーモア手!   カツキ :手が邪魔(笑)!   ガビン :言いたいことはわかるんですよ.本来、絵を描く行為って,紙とかキャンバスとかに手で描いてたわけだけど,だけどIntuosみたいなペンタブレットを使い込んで完全に自分のものにすると,手元と画面が離れてるから手が視界を遮らないんですよね. カツキ :そうそう.でも「手が邪魔」って言うてる人いないでしょ? それは絵を描いていると目が進化して,手が視界に入らなくなるんですよね. ガビン :手が透明になっていくんですね . カツキ :どんどん透明になって絵だけが立ち上がるようになっていくんですよね.だけどペンタブレットユーザーにとっては,Cintiqで,手がまた邪魔になった(笑)! でも,手を透明にする機能って僕らの体に染み付いてるんで,ものの数分で慣れるんですよねー. インターフェイスにおけるヒトの身体にあり方がここにある感じがします.僕たちは自分の身体を「透明にする機能」を持っている.道具のデザインが良くて,道具が身体に馴染んでいると言われることが多いけれど,「馴染んでいる=身体の透明化」だとすると,それは道具云々というよりも,ヒトの能力によるところが大きいのではないかと考えるわけです. タブレットと画面が離れていると,手は視界に入らないわけだけれども,ペン先を示すカーソルは視界に入っているわけです.マウスとカーソルでも同じです.視界のなかに手はないけれど,カーソルはある.でも,カーソルは見えているのか見えていないのかよくわからない存在のまま機能している.それは,ヒトが自分の手を透明化するように,カーソルも透明なものになっているのかなと. この対談を読んでいると,ヒトの身体は面白いなと思います.タナカさんがCint...

座談会[インターネット アート これから つづき]に関するメモみたいなもの

座談会 [ インターネット アート これから つづき ] を終えて,気がついたら3月も終わろうとしているので,ここで書かないとこの先の引っ掛かりが個人的に掴めくなりそうなので「メモみたいなものを書いてみたい」という気持ちで書いてみたいです. 「身体」という言葉に対して,座談会の冒頭で僕はマウスやキーボードから,タッチのスマートフォンに変わってきたことで,「インターフェイス」の意識がなくなってきているのではないか,それとともに「身体」も意識からなくなってきているのではないかと言いました.そのことから考えると,[インターネット アート これから]で,渡邉さんが言っていた「インターネットと身体」という関係は,「インターフェイス」とともに「身体」がコンピュータやインターネットに向かう人の意識からなくなってきた反動からでてきたのではないかと考えたわけです.そこから,「インターネットの内側でドライブする」という渡邉さんの言葉がでてきました. 「インターネットの内/外」と考えてみると,身体を強く意識することでインターネットとの関係を変えることが「内」からのアプローチだとすると,「外」は千房さんが ブログ で提起した「プッシュ通知」かなと,僕は思ったわけです.ただ,これは「プッシュ通知」を使って,僕たちがインターネットとの関係を変えるのではなくて,「プッシュ通知」が僕たちとインターフェイスとの関係を変えるということです.「プッシュ通知」というOSレベルの仕組みが,僕たちをインターネットの「外」に出さないように囲い込みを行なっているような感じです.「内」からのアプローチに比べると,ちょっと後ろ向きな感じというか,アプローチといったこちらどうにかするものではなく,僕たちが置かれた状況の認識でしかないものです. 「プッシュ通知」による囲い込みが成立していて,それが「通知」という「オン/オフ」という「超低解像度の情報」でしかないというところが,僕たちの無意識にスルスルと入ってきてしまう感じなのかな.萩原さんがその情報に「歓声」などの「ストーリー」を載せる Nike+ の例を出していたように,単に「オン/オフ」でしかないから,文脈に応じていかようにも変わってしまうの「プッシュ通知」の興味深いところかもしれません.それは,単なる位置情報でしかない「カーソル」と僕たちとの関係にも似て...

「CursorCamouflage」と「自己喪失」

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インタラクション研究の 渡邉恵太 さんの新作「 CursorCamouflage: Multiple Dummy Cursors as A Defense against Shoulder Surfing 」.体験してみたいですね.カーソルを操作している本人は,ダミーカーソルがいくらあっても,自分が動かしているカーソルがわかるが,他の人はよくわからないということ.渡邉さんの言葉だと,カーソルがユーザに「帰属」しているということを利用していることになるのかな. つまり、カーソルが面白く特別なのは、動きが連動することによる自己帰属感の発生であると考えられる。もしカーソルが手元のマウスの「動かし」と無関係であれば、自己へは帰属されず、それはカーソルではない。さらに、重要なことは自分の動かしと連動するということは、透明性を得るということである。            iPhoneはなぜ気持ちがいいのか?   カーソルの動きを盗み見しようとする人は,矢印の動きと無関係だから帰属感がないことになる.けれど,動画のコメントに書かれているように注意深く,カーソルと使用者の手とマウスの動きを追っていくと,どのカーソルが本物か当てることができる.このとき,カーソルは観察者にも帰属しているのであろうか.画面上のカーソルとマウスの動きを見て,結びきを推測しているだけなので「帰属」とは違うだろう.「帰属」はもっと直接的なものなんだとと思う. この動画を見ながら,渡邉恵太さんがだいぶ前に作っていた「 自己喪失 」を思い出した.カーソルが消える作品を「自己喪失」と名付けていることから,渡邉さんはこのころからカーソルを自分に「帰属」する存在だと考えたかなと思ってしまう.私もカーソルについて結構長い期間考えていると思うのだけれど,渡邉さんはそれ以上にずーっとカーソルのことを考えているのだな. 「自己喪失」と「CursorCamouflage」とを組み合わせたたらどうなるだろうか.これは役にたつとかではなくて,「帰属」の問題を考えるためにやってもらいたいな.「CursorCamouflage」を操作しているときに,突然ダミーのカーソルが消えた時の反応と,自分ものが消えたときとで感じ方にちがいがあるのかどうか.おそらくダミーのカーソルは消え...

「Retinaディスプレイに触れる」というのは…

「Retinaディスプレイに触れる」というのは「網膜に触れる」ということであって,面白なと思っています.コンピュータのディスプレイにおいて「見る」と「触れる」の問題があるのと考えているのですが,それらが文字面において直結してしまった感じ.で,「Retinaディスプレイに触れる」という時,「実際には何に触れているのか」ということを考えてみたいのです.そんなことを書くとすぐに「ガラス」に触れているとツッコまれますが,それはもちろんそうだけれども,もう少し考えてみようということです.まずはアップルのサイトからiPhone4SとあたらしいiPadにおけるRetinaディスプレイの説明のテキストを引用します. Retinaディスプレイなら,iPhone 4Sで見るもの,体験するもの,すべてが驚くほど美しくなります.Retinaディスプレイはピクセル密度がとても高いので,人間の目ではひとつひとつを識別できないほど.ゲームも,ビデオも,写真も,画面から飛び出しそうなほど生き生きと映し出されます.本,ウェブページ,Eメールのテキストは,どんなサイズでもくっきりと鮮やか.見るものすべてが,いっそうシャープになります. 新しいiPadを手に取った瞬間,すぐに気づくでしょう.あなたの指は本当に写真に触れ,本当に本のページをめくり,本当にピアノを弾いているのだと.あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません.実際に体験することをさらに魅力的なものにするために,ディスプレイ,カメラ,ワイヤレス接続機能といったiPadの基本になる重要な要素が一段と進化しました.そして生まれたのが,あなたの想像をはるかに超えたことまでできる,新しい第3世代のiPadです. 「ピクセルが識別できない」というのが「Retinaディスプレイ」と言われる所以であるとすれば,「Retinaディスプレイに触れる」というときに,ユーザはヒトの眼の限界を超えたものに触れているものになるわけです.ピクセル単位で操作を行うことはほとんどないにしても,識別できないものを操作している,しかも実際に触れながら操作しているというのは興味深い. iPadのテキストでは,「ピクセルが識別できない=本当に〇〇に触れる=あなたとあなたが大好きなものの間をさえぎるものは何もありません」となっていま...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_2

記事,書きました→ TELESCOPE Magazineで特集「ヒューマンインターフェース」が公開 テーマグラフ や特集内の記事「 ヒューマンインターフェースの歴史:「よくわからない」から、身体で感じるコンピューターへ 」で関わったTELESCOPE Magazineの紹介. メディアアートとヒューマンインターフェイスとを「身体」をキーワードにして,複合的に考察していくことが求められているということを最後に書いています.

コンピュータを前にした身体の障害と思考の自由

実は,われわれは仮想空間において知覚的な障害をもっているのである.データで形成されている仮想世界に触れるには,ツールを介す必要があり,そのツールの限界がすなわち,われわれの限界となるのだ.それらのツールとは,例えばモニターやスピーカーやプリンタにあたるのだが,これらの機器は,誰もが均等に経験できる技術をめざす工学分野が発明したものなわけだから,それを介して仮想世界に触れるとしても,誰もが似たような体験しかできないことになる.(p.23)  ゴッホってなんだろう? , 毛利悠子 in 情報生態論|いきるためのメディア この毛利さんのテキストがとても気になっている.「知覚的な障害」という言葉.誰もが似たような体験しかできない.逆に言えば,誰もが似たような体験をできてしまう.障害を持つことで,誰もが似たような体験をできてしまうことの意味を考える.コンピュータの前に位置するヒトは,「知覚的な障害」をもち,誰もが似たような体験をしてしまっている.障害を持ちながらも,コンピュータを使う.テルジディスによれば,コンピュータはひとつの知的パートナーである.「障害」をもつヒトをサポートしてくれる「知的パートナー」としてのコンピュータ.障害を持つからこそ知的パートナーの役割が大きくなる.そして,今まで想像も出来なかった概念を作り出す.毛利さんは「障害」を越えてしまうような,いや「障害」を活かした,いや今の私にはよく分からない作品を作る(毛利さんも含めて,1980年前後生まれの人たちの作品を近いうちに考えたい).私は「障害」に寄り添ったかたちで考える.それはインターフェイスを軸に,コンピュータを考えてきたからだと思う. 身体の「障害」から思考の「自由」が生まれると考えるのは,身体と思考とを分けて考えているからでもあるが,ヒトとコンピュータとを複合体として考えれば,それは入力の制限と出力の自由ということになるであろうか.いや,出力においても,ヒトに合わせているのでそこにも制限があるのだろう.いや,複合体になってしまえば,そこには「制限」も「自由」もないのかもしれない.ただ入力と出力があって,出力からまた入力が行われる.この作業を延々とし続けていくだけなのかもしれない.この状況はなんとなくイヤな感じがするが,それは私たちがヒトとして考えているからで,複合体になれば...

ヒトとコンピュータとのあいだに生じる「四人称」

コンピュータに向かって,日記のようなmemoを書く.手書きではなく,キーボードを叩きづける.キーを打つと,フォントが表示されう.変換候補がずらーと現われて,それを選択する.膨大な量の選択をし続ける.ディスプレイに表示される「外化した思考」.それは,私たちの思考の外化であることを示すべく,次々に選択しろと迫ってくる.選択を迫るコンピュータ.それを成立させるインターフェイス.ここにコンピュータの身体性があると思う.コンピュータは,私たちと全くことなる思考を行う「allo」,他者であるから,その身体も異なるはずなのである.確かに私たちにとってはもどかしいかもしれないが,キーボードやマウスは,コンピュータにとってはヒトという外部入力装置から入力を効率良く受け取るように適用した「身体」なのである.ヒトはディスプレイに上に外化した思考の流れに,身体を合わせられるようになってきている,それはコンピュータの身体を受け入れることを意味する.一度受け入れてしまえば,コンピュータを介してディスプレイ上に外化している思考の流れを,自分の身体と一致させることできる. コンピュータは自らの思考様式に合わせた身体を,ヒトの身体に合わせるかたちで提示してくる.ヒトの手が2本あることや,その大きさなど.ヒトは自分で使いやすいように改良を加えていると思うけれど,それはもしかしたら,コンピュータの思考が大きくなったから,寛容になり,私たちのわがままを受けて入れてくれているのかもしれない.エンゲルバートが言ったように,ヒトとコンピュータとは共進化していくものである.それはひとつの複合体なのである.ヒトとコンピュータとは共進化しながら,ひとつの複合体になっていく,複合体の一部となったヒトは,行為が変わり,そして思考の流れ方が変わる.だから,ここに新しい「人称」を考えてもいいのではないかというのが,今の私の考え. それはわれわれには,四人称の設定の自由が赦されているということだ.純粋小説はこの四人称を設定して,新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ.まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ.【 純粋小説論,横光利一 】 小説が言語の流れで新しい世界を築くために「四人称」を産み出そうとしたとすれば,ヒトとコンピュータの複合体も, 新しい世界を示すための「四人称...

memo20110816からの抜粋:日常生活と複合体

さっき,突然疲れた.マーク・ハンセンのマノヴィッチ批判を読み終えたら,とても疲れた.書かれている内容が疲れに影響したとかではないけれど,疲れた.ハンセンが人間中心主義だと指摘しようと考えていたのに,ハンセンはマノヴィッチをヒューマニストだという.それはマノヴィッチが映画に基づいてニューメディアを論じるから.映画というヒトの視覚に合わせたメディアを用いているマノヴィッチは人間中心主義だということ.ハンセンは,デジタル・メディアがヒト以前のヒトというか,前−個体的な状態,それはヒトという種が感知できないような情報を与えていると考えている.感知できないけれど,感知できないではなく,意識にのぼらないという方が正しく,身体は感じるみたいな.人間を「個」という単位で考えれば,それ以前の「身体」に作用するという意味では,ハンセンは人間中心主義ではない.でも,ハンセンは「人間」にこだわっているように思える.それは「身体」というかたちにこだわっているから.コンピュータが「身体」以前に作用すると指摘していても.ハンセンが取り上げる作品の表象は常にヒトの身体を映し出している.「身体」以前はコンピュータに浸食されても,表象は身体のかたちを保つ.マノヴィッチが「映画」にこだわるように,ハンセンは「身体」にこだわる.  マノヴィッチは,ヒトとコンピュータとをひとつの複合体として考えているように思える.目に見えるところはヒトに合わせて,でも,そのなかの論理はコンピュータで,しかもヒトに合わせて作られているイメージがコンピュータにとってもそのイメージを構成するために適した構造になっているという感じ.ヒトとコンピュータとがもちつもたれつとといった感じ.ハンセンがデジタル・イメージを論じるときに取り上げるダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》やビル・ヴィオラの超スローモーションのシリーズは確かに,「映画」では入り込むができない個としての身体以前の領域:感情の部分にアプローチしていると思う.けれど,私たちは普段,1秒間2フレームで映画を見ることはないのだし,超スローモーションの高解像度の映像データは重すぎる.確かにこれらの作品が示すことも,デジタル・イメージがもつポテンシャルの一端なのかもしれない,だからこそ作品になって,ハンセンが取り上げているのだけれど,もう少しヒトの日常生活の感覚に基づ...

memo20110814からの抜粋+:ヒトとコンピュータとの複合「体」

囚われの身の身体は,囚われているからこそ,その囚われの空間で自由に動くことができる.けど,そのあと囚われていた身体は消えていった.ヒトとコンピュータの複合体における「身体図式/イメージ」を記していることが問題にされていることはないのではないか.だから,カーソルに注目がいかなかったのではないか.行為も思考もヒトとコンピュータとの複合体/回路の流れとして考えてみることが面白いのではないだろうか.フルッサーが言っているようなヒトと装置の複合体みたいなものに与える「人称」は何なのだろうかと思いつつ,そこにある「身体」はどのようなものなのだろうかを考えつつ,自らの身を省みる.動物との対比ではなく,コンピュータとの対比でもなく,ヒトとコンピュータとの複合体との対比から,ヒトの身体を考えてみること. + 「複合体」には「体」という文字が使われていることも考える必要がある.モノがあると,それがヒトと結びつくことになるとそれが「体」となる.ヒトの身体の延長になるのか.しかし,「延長」という考えだけでは,もはや考えることはできない.マクルーハンではないけれど「外破」と「内破」という感じで,内側への意識も必要.イヤ,「外」と「内」という考えではなく,自分的に今とても気になっている「流れ」として考える必要があるのかもしれない,これはとても自分的なことです.「回路」という「流れ」を作り出すものを考えつつ,そこを何かが流れていく「流れ」自体を考えてみること.何も具体的には思い浮かばないけれど,今はこんな感じだけが,自分の周りに流れているような感じ.

「耳を澄ます」

「耳を澄ます」ことは,聴くことを可能にする範囲を拡げるための領域を増やす行為といえるが,まずは自分の態度を受動的にすること.音を受け入れることを可能にする受け身の態度を作り上げたのち,そこに音が飛び込んでくる.そのときには,そのとき人は音を聴くのであるが,それは音に呑み込まれることであるかもしれない. 「耳を澄ます」ことって,近頃少ないような気がすると思いつつ,ケータイとの関係を考えたりする.いつでも,どこでもケータイは「耳を済まし」ている,という表現はおかしいだろうか.でも,僕達のまわりにある「みえないちから」を捉えるために,ケータイはひっそりと「耳を澄ます」.でも,そのことによって,僕たちは耳を澄ますことがなくなっている.ケータイによって破られる静けさ.なにもこれは「ケータイ」だけではなくて,「ケータイ」と書いているところにいろいろなガジェットの名前を当てはめれば,それはそれで成り立つような気がする. インターネット・リアリティということで,インターネットは「耳を澄ます」ことがあるのであろうか,なんてことも考えてみる.「コンピュータの身体性」という言葉が成立すると,そこには「耳を澄ます」こともあり得ると思う.ヒトも耳を澄まして,コンピュータも「耳を澄ます」.そこで聞こえてくるのはどのような音,そして音から広がる風景なのだろうか.

コンピュータを前にした身体をめぐる想像力

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レフ・マノヴィッチは,コンピュータと向き合う身体は囚われていると考える.それは,遠近法から映画へと続く,西洋の表象システムの伝統である,マノヴィッチは指摘する.ただ今までと異なる点があり,それは身体が動かなければならないということである.コンピュータの前の身体は,囚われつつも,動かなければならないのである. さらに,マノヴィッチはコンピュータにおけるインタラクティヴィティはトートロジーであると考える.そして,ヒトとコンピュータとのあいだの字義通りのインタラクティヴィティを考察する際に,私たちはそこに物理的なやりとりを超えて,イメージを用いた精神の外面化をどうしてもみてしまう.それは西洋の表象システムの伝統でもあると,マノヴィッチは指摘する. 西洋の表象システムの伝統から,マノヴィッチは一方でコンピュータの前の位置する身体は囚われていると考え,もう一方で,コンピュータとのやりとりはヒトの精神を直接イメージとして外在化されていると示す.コンピュータの前にある身体は,一方で囚われの身であり,一方でその存在が忘却されている.ただどちらにおいても,身体は,動かなければならない. このマノヴィッチの論から,コンピュータの前に位置するヒトの身体の状況をどう考えればいいのであろうか? 私は次のように考えてみたい.コンピュータの前では,ヒトの身体はその存在が忘却され,消滅されつつある.しかし,コンピュータは自らの存在のためにヒトの身体を完全に消滅させるのではなく,「囚われの身」という多くの自由を奪うかたちで,ただ動き続ける存在として存続させ続けている. マーク・ハンセンは,マノヴィッチが「映画」のメタファーに縛られていると批判する.そこには,身体が「囚われの身」であることに対する批判もあるのではないだろうか.ハンセンはデジタル・メディアの前にある位置するのは「コードの中の身体」だと考える.コードの中での身体においては,身体スキーマと身体イメージとのあいだに乖離が生じると,ハンセンは指摘する.ハンセンが「身体スキーマ」と呼ぶものは,私たちが身体に対する観念みたいなものだと思われる.デジタル技術によって,変幻自在に変化する身体イメージは,私たちが抱く自らの身体スキーマを超えるような存在になる.このことを示すように,ハンセンは鏡や影をモチーフとして身体イメージを用いた作品を取り上げ...

「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ

「はしもと」さんがいま、僕の前で電話している。向こうは僕のことを、全く知らない。ただ同じ展覧会にいたからみたことあるなぁくらいな感じだと思う。でも僕は、「はしもと」さんが僕と同じ身長・体重だということを知っている。と、キーボードを打っているあいだに、「はしもと」さんはいなくなってしまった。 じっくり考えたい。けど、《指紋の海》は、かわいい。指紋をかわいいなんて思ったことは、今までなかった。一度見失って、再び自分のところにもどってくるときのかわいさといったら、もうなかった。かわいすぎるぞ、僕の右手の人差し指の指紋。ここでおもしろいのは、僕が指紋を「かわいい」と思っていること。自分から切り離されたも自分の一部だから「かわいい」と思っているのかもしれないけれど、普段、綺麗な黒い本についたり、iPhone についている自分の指紋はいやーだなと感じることが多いので、いつもは指紋のことを自分との関わりよりも、手が触れたモノの表面を汚す存在として見ているのかもしれない。けど、この作品では、とても「かわいい」と思ってしまう。そこは考えるべきところ。映像の力や、自分との関わりとかいろいろ。あとは、カーソルとの比較もしてみたい。 《2048》はとても好き。まだ人があまりいなかったので、何度もやってしまった。自分の光彩が数値化される。どこまでが自分か、自分では消しながら確かめる。けど、ここでは自分のことは自分では決めることはできない。「自分を消す」という行為自体も変だけれど、それがたんなる0と1の数字の列にすぎないから、自分では自分を消しているという感覚も実はなかったりしたのだけれど、あのピーター・バラカンの声で「まだあなたです」と言われてしまうと、そこに提示されているのが「まだ自分である」と思ってしまう。そこでさらに数字を消すのだけれど、それは自分だから、自分を一所懸命に消すことなる。自分ではなくなるために、一所懸命に数字の列を消すこと。「もうあなたではありません」と言われて納得してしまうこと。しかも、ピーター・バラカンの声で!

手|電波|iPhone|計算式|イメージ

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Apple より Apple より Touch-lab より iPhone 4 の電波の減衰と損失の問題は興味深い. 手で持つことを前提とした道具であるにも関わらず,手が道具に影響を強い影響を与えていること.しかも,影響を与えるのが電波という目に見えないものであること.さらに,問題の解決策としてAppleが真っ先に行ったのはソフトウェアアップデートによる「電波強度バーの表示数を決める計算式」の改良と,それにともなう「電波強度バー」のデザインと表示の変更であること. 「手」というモノの「密度と組成」が他のモノよりも大きく電波の減衰と損失に影響を与えていることは面白い.もしかしたらコワイのかもしれない.私たちは電波に取り囲まれ生きているわけで,これはもう後にはもどれないと判断した身体が自ら電波を取り込み始めていると考えたら,すこしコワイ.そんなことはないにしても,ヒトの身体が電波に大きな影響を与える物理的なモノであるということが示されているだけで,この問題は物理世界の中にあって身体をもつヒトが特別な存在でなく,モノ同士の全体的な相互関係にあることを教えてくれる. 目に見えない電波を「見える」ようにしていた「電波強度バー」.私たちはこのバーを見ながら,電波の状態を「ああだこうだ」と言っているわけだが,その背後にはその表示を導く「計算式」があることは普段,全く意識していない.表示されているものだけで判断してしまう.計算式が間違っていると言われてても,それがどう間違っているのかどうかはピンとこない.だから,Apple は電波強度バーの「見え方」をほんの少し変えた.この計算式と共に見え方も変えるというAppleの判断は,私たちが見えないモノ(ここでは電波や計算式)をスクリーン上の見えるイメージの印象で認識していることを示している 電波の減衰と損失をテストした動画は.すべてを見せているようで,やっぱり見えない電波と計算式はどうなっているのかはわからない.でも,電波強度バーのところは4倍に拡大されて,しっかり見えるようになっていて,iPhoneの握り方との相関関係をしっかり示すバーの数を表示しているので,何となく納得してしまう.「そうなんだろうなぁ」と思ってしまう. ...

マウスがあるかのように手を丸めて動かす

モノとしてのマウスをなくしてみたらどうなるか.マウスがある かのように 手を丸めて(原文だと cup という単語が使われている),マウスを動かす かのように 動かす.そうすると,マウスで動かしている かのように カーソルが動く.ちがうのは,そこにモノとしてのマウスがないだけ. これを開発した Pranav Mistry は "Six Sense" project の人. 「第六感」に比べれば,マウスをなくすことは大したことがない感じがする.WIRED の記事には次のように書かれている. 「マウスをなくす」というアイデアは,シックス・センスのような大きなブレークスルーではない.アイデアが確かに楽しいものだが,インタラクションが今までと同じままでハードウェアを取り除いてしまうような事例はほとんどない.ユーザ・インターフェイスはマウスによる「指示して,クリックする」インタラクションを乗り越えようとしている.しかも,ハードウェアとしてのマウスはとても安いので,それをなくすことでのコストを減らすということもない.[The Mouseless idea is not as big a breakthrough as Sixth Sense. Though it is fun, it is difficult to see a real-world case for getting rid of hardware while keeping interaction the same. User interfaces are going beyond the point-and-click interaction that the computer mouse demands. And mouse hardware itself is cheap, so there’s not much of a cost saving here.]   http://www.wired.com/gadgetlab/2010/07/computer-mouse-invisible/  しかし,である.そこにあったモノをなくすことは,とても面白いと思う.マウスはカーソルと連動して,画面上のイメージを「指示して,クリックする」という機能を担っているモノである.そ...