ヒトとコンピュータとのあいだに生じる「四人称」
コンピュータに向かって,日記のようなmemoを書く.手書きではなく,キーボードを叩きづける.キーを打つと,フォントが表示されう.変換候補がずらーと現われて,それを選択する.膨大な量の選択をし続ける.ディスプレイに表示される「外化した思考」.それは,私たちの思考の外化であることを示すべく,次々に選択しろと迫ってくる.選択を迫るコンピュータ.それを成立させるインターフェイス.ここにコンピュータの身体性があると思う.コンピュータは,私たちと全くことなる思考を行う「allo」,他者であるから,その身体も異なるはずなのである.確かに私たちにとってはもどかしいかもしれないが,キーボードやマウスは,コンピュータにとってはヒトという外部入力装置から入力を効率良く受け取るように適用した「身体」なのである.ヒトはディスプレイに上に外化した思考の流れに,身体を合わせられるようになってきている,それはコンピュータの身体を受け入れることを意味する.一度受け入れてしまえば,コンピュータを介してディスプレイ上に外化している思考の流れを,自分の身体と一致させることできる.
コンピュータは自らの思考様式に合わせた身体を,ヒトの身体に合わせるかたちで提示してくる.ヒトの手が2本あることや,その大きさなど.ヒトは自分で使いやすいように改良を加えていると思うけれど,それはもしかしたら,コンピュータの思考が大きくなったから,寛容になり,私たちのわがままを受けて入れてくれているのかもしれない.エンゲルバートが言ったように,ヒトとコンピュータとは共進化していくものである.それはひとつの複合体なのである.ヒトとコンピュータとは共進化しながら,ひとつの複合体になっていく,複合体の一部となったヒトは,行為が変わり,そして思考の流れ方が変わる.だから,ここに新しい「人称」を考えてもいいのではないかというのが,今の私の考え.
それはわれわれには,四人称の設定の自由が赦されているということだ.純粋小説はこの四人称を設定して,新しく人物を動かし進める可能の世界を実現していくことだ.まだ何人も企てぬ自由の天地にリアリティを与えることだ.【純粋小説論,横光利一】
小説が言語の流れで新しい世界を築くために「四人称」を産み出そうとしたとすれば,ヒトとコンピュータの複合体も, 新しい世界を示すための「四人称」を考えるべきなのである.小説が言語で思考の流れを作ってきたならば,ヒトとコンピュータとのあいだにあるインターフェイス,そしてウェブから,今までとは異なる思考の流れが日常的に作られる.そして,それらから作られるアートによって,その流れの「新しさ」に気づかされるはずである.