memo20110816からの抜粋:日常生活と複合体

さっき,突然疲れた.マーク・ハンセンのマノヴィッチ批判を読み終えたら,とても疲れた.書かれている内容が疲れに影響したとかではないけれど,疲れた.ハンセンが人間中心主義だと指摘しようと考えていたのに,ハンセンはマノヴィッチをヒューマニストだという.それはマノヴィッチが映画に基づいてニューメディアを論じるから.映画というヒトの視覚に合わせたメディアを用いているマノヴィッチは人間中心主義だということ.ハンセンは,デジタル・メディアがヒト以前のヒトというか,前−個体的な状態,それはヒトという種が感知できないような情報を与えていると考えている.感知できないけれど,感知できないではなく,意識にのぼらないという方が正しく,身体は感じるみたいな.人間を「個」という単位で考えれば,それ以前の「身体」に作用するという意味では,ハンセンは人間中心主義ではない.でも,ハンセンは「人間」にこだわっているように思える.それは「身体」というかたちにこだわっているから.コンピュータが「身体」以前に作用すると指摘していても.ハンセンが取り上げる作品の表象は常にヒトの身体を映し出している.「身体」以前はコンピュータに浸食されても,表象は身体のかたちを保つ.マノヴィッチが「映画」にこだわるように,ハンセンは「身体」にこだわる.

 マノヴィッチは,ヒトとコンピュータとをひとつの複合体として考えているように思える.目に見えるところはヒトに合わせて,でも,そのなかの論理はコンピュータで,しかもヒトに合わせて作られているイメージがコンピュータにとってもそのイメージを構成するために適した構造になっているという感じ.ヒトとコンピュータとがもちつもたれつとといった感じ.ハンセンがデジタル・イメージを論じるときに取り上げるダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》やビル・ヴィオラの超スローモーションのシリーズは確かに,「映画」では入り込むができない個としての身体以前の領域:感情の部分にアプローチしていると思う.けれど,私たちは普段,1秒間2フレームで映画を見ることはないのだし,超スローモーションの高解像度の映像データは重すぎる.確かにこれらの作品が示すことも,デジタル・イメージがもつポテンシャルの一端なのかもしれない,だからこそ作品になって,ハンセンが取り上げているのだけれど,もう少しヒトの日常生活の感覚に基づいたところ,そこはヒトとコンピュータとが最も密なところで複合体になっているところを考えてみたい.もっと当たり前の生活の中で,ヒトは自分を中心とした世界を終えて,コンピュータとの関係の中で,その複合体として生活しているのではないかということ.

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