memo20110814からの抜粋+:ヒトとコンピュータとの複合「体」
囚われの身の身体は,囚われているからこそ,その囚われの空間で自由に動くことができる.けど,そのあと囚われていた身体は消えていった.ヒトとコンピュータの複合体における「身体図式/イメージ」を記していることが問題にされていることはないのではないか.だから,カーソルに注目がいかなかったのではないか.行為も思考もヒトとコンピュータとの複合体/回路の流れとして考えてみることが面白いのではないだろうか.フルッサーが言っているようなヒトと装置の複合体みたいなものに与える「人称」は何なのだろうかと思いつつ,そこにある「身体」はどのようなものなのだろうかを考えつつ,自らの身を省みる.動物との対比ではなく,コンピュータとの対比でもなく,ヒトとコンピュータとの複合体との対比から,ヒトの身体を考えてみること.
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「複合体」には「体」という文字が使われていることも考える必要がある.モノがあると,それがヒトと結びつくことになるとそれが「体」となる.ヒトの身体の延長になるのか.しかし,「延長」という考えだけでは,もはや考えることはできない.マクルーハンではないけれど「外破」と「内破」という感じで,内側への意識も必要.イヤ,「外」と「内」という考えではなく,自分的に今とても気になっている「流れ」として考える必要があるのかもしれない,これはとても自分的なことです.「回路」という「流れ」を作り出すものを考えつつ,そこを何かが流れていく「流れ」自体を考えてみること.何も具体的には思い浮かばないけれど,今はこんな感じだけが,自分の周りに流れているような感じ.