コンピュータを前にした身体の障害と思考の自由
実は,われわれは仮想空間において知覚的な障害をもっているのである.データで形成されている仮想世界に触れるには,ツールを介す必要があり,そのツールの限界がすなわち,われわれの限界となるのだ.それらのツールとは,例えばモニターやスピーカーやプリンタにあたるのだが,これらの機器は,誰もが均等に経験できる技術をめざす工学分野が発明したものなわけだから,それを介して仮想世界に触れるとしても,誰もが似たような体験しかできないことになる.(p.23)
ゴッホってなんだろう?,毛利悠子 in 情報生態論|いきるためのメディア
この毛利さんのテキストがとても気になっている.「知覚的な障害」という言葉.誰もが似たような体験しかできない.逆に言えば,誰もが似たような体験をできてしまう.障害を持つことで,誰もが似たような体験をできてしまうことの意味を考える.コンピュータの前に位置するヒトは,「知覚的な障害」をもち,誰もが似たような体験をしてしまっている.障害を持ちながらも,コンピュータを使う.テルジディスによれば,コンピュータはひとつの知的パートナーである.「障害」をもつヒトをサポートしてくれる「知的パートナー」としてのコンピュータ.障害を持つからこそ知的パートナーの役割が大きくなる.そして,今まで想像も出来なかった概念を作り出す.毛利さんは「障害」を越えてしまうような,いや「障害」を活かした,いや今の私にはよく分からない作品を作る(毛利さんも含めて,1980年前後生まれの人たちの作品を近いうちに考えたい).私は「障害」に寄り添ったかたちで考える.それはインターフェイスを軸に,コンピュータを考えてきたからだと思う.
身体の「障害」から思考の「自由」が生まれると考えるのは,身体と思考とを分けて考えているからでもあるが,ヒトとコンピュータとを複合体として考えれば,それは入力の制限と出力の自由ということになるであろうか.いや,出力においても,ヒトに合わせているのでそこにも制限があるのだろう.いや,複合体になってしまえば,そこには「制限」も「自由」もないのかもしれない.ただ入力と出力があって,出力からまた入力が行われる.この作業を延々とし続けていくだけなのかもしれない.この状況はなんとなくイヤな感じがするが,それは私たちがヒトとして考えているからで,複合体になれば,それは良い悪いではなく,ただ粛々と行われていくひとつのプロセスにすぎないのかもしれない.そこでの新しい価値観を見つけることも必要かもしれない.