メタファーと身体の関係

1996年に,ダン・ゲントナーとヤコブ・ニールセンは,「アンチ-マック・インターフェイス」という論文を発表した.そこで,彼らは,現在でもGUI デザインを論じる際にバイブルとして参照されることが多い「マッキントッシュ・ヒューマン・インターフェイス・ガイドライン」の原理に,あえて反することで,新たなインターフェイスの可能性を論じている.4-3) マッキントッシュの第一の原理には,インターフェイスは私たちの馴染みの環境を用いたメタファーに基づいているべきだと書かれている.4-4) マッキントッシュの開発者たちは,この原理に則って,現在まで使用されている洗練されたデスクトップ・メタファー(図4-1)を開発した.

          図4-1 システム1.1 のデスクトップ

そこでは,ディスプレイ画面を「机の上(デスクトップ)」と見なし,「ファイル」,「フォルダ」,「ごみ箱」などを模したアイコンを,マウスで選択し,クリックすることで,コンピュータの操作が可能になっている.この原則に対して,ゲントナーとニールセンは,「ワードプロセッサ」は「タイプライター」にたとえられるが,ワードプロセッサには,タイプライターにはない「やり直し」の機能があるなど,メタファーが示す目標領域(コンピュータ)と基底領域(たとえる対象)とのミスマッチを指摘する.そして,彼らは,このようなメタファーの使用は混乱を招くことになるので,コンピュータ・システムの構造に即した,メタファーに頼らないインターフェイスをデザインすべきだと主張し,言語主体のインターフェイスの提案を行った.4-5)

メタファーによる対象の機能のミスマッチを問題視するゲントナーとニールセンに対して,ジョン・キャロルらは,以前から,対象間のミスマッチを含んではいるが,メタファーの使用は私たちの最も基本的な学習へのアプローチのひとつなので,インターフェイス・デザインには不可欠なものだと主張していた.4-6) 確かに,コンピュータを取り巻くメタファーには多くのミスマッチがあるが,それにも関わらず,私たちは,それらを手がかりにして,コンピュータを使い始めて,気がつくと,それらを当たり前のように操作して自分の作業を進めてきたことは事実である.

ゲントナーとニールセン,キャロルらは,似ている対象を結びつける言語の機能としてメタファーを論じたものに依拠している.しかし,彼らが依拠するメタファー論では,誰もがそこで自由に行為を遂行できるもう一つの現実のように,デスクトップ・メタファーが機能している現状を説明することができないと考える.デスクトップ・メタファーを考察するための,新しい視点が必要なのである.

認知心理学者の楠見は,現在では,ユーザの多くが,現実のファイルやフォルダというものを使用する前に,ディスプレイ上の「ファイル」や「フォルダ」を操作するようになっており,それらをメタファーだと意識することがなくなりつつあると指摘する.4-7) それでも,私たちが何不自由なくコンピュータを操作できるのは,現実を模したデスクトップ・メタファーに付随している「知覚的・身体的な反復経験に基づいて成立したイメージスキーマが大きな役割を果たしている」4-8) からだと,楠見は考えている.

ここで楠見が参照しているのは,1980年代に,ジョージ・レイコフとマーク・ジョンソンによって提唱された「認知意味論」である.4-9) 認知意味論から考えると,デスクトップでファイルをフォルダに入れたり出したりする行為に,私たちがすぐに慣れてしまうのは,ヒトの長い歴史の中で培ってきた「容器」と「内外」というイメージ・スキーマに合致しているからだと説明される.レイコフとジョンソンが認知意味論で示す新しいメタファー論は,ゲントナーとニールセンやジョンソンらが依拠していた,メタファーは未知のものを既知のもので示すという考えでは答えることができない問題,デスクトップ・メタファーが,メタファーとして意識されなくなったにもかかわらず,なぜ未だに機能するのかを考察する手がかりを与えてくれる.

言語学者のジョージ・レイコフと哲学者のマーク・ジョンソンは,1980年に刊行した『レトリックと人生』で,普段の言葉使いとはかけ離れた詩などで使われる文彩として言語特有の性質であると思われていたメタファーが,日常の思考や行為にまで影響を持つことを示した.4-10) 彼らの主張は,私たちのメタファーに対する理解を大きく変えるものであった.それは,レイコフとジョンソンが,多くのメタファーの意味を,経験基盤主義というアプローチで分析した結果であった.レイコフは,経験基盤主義の主張を次のようにまとめている.
概念構造が有意味なものとなるのは,それが身体化されているからである,つまり,それがわれわれの概念形成以前の身体的経験から生じ,その身体的経験と結びついているからである. 4-11)
この引用からも明らかなように,レイコフとジョンソンはヒトの身体を意味発生の中心におく.次に,彼らは,概念形成以前の身体経験には「基本レベル」と「運動感覚的イメージ・スキーマ」が存在していることを示す.4-12) 基本レベルとは,象をキリンや虎から区別し,歩くことを走ることから区別するといった,ヒトが「環境内で一応うまく機能できるように進化させてきた理解の水準」4-13) である.そして,運動感覚的イメージ・スキーマとは「私たちの知覚における相互作用,身体経験,そして認知操作の繰り返し登場する構造,あるいはこうしたものの中にある繰り返し登場する構造」4-14) と,ジョンソンは定義している.それは「私たちにさまざまな経験の間の関係を理解させてくれる水準」4-15) として機能する.そして,この運動感覚的イメージ・スキーマには,<容器>,<経路>や,<上/下>,<前/後>といった方向性に関するものなどがあることを提示する.私たちの身体は環境との相互作用の中で,これらのふたつのレベルを用いて,意味のある概念を生み出している.その中で,メタファーは身体を基盤とした「私たちの経験と理解(私たちが「世界をわがものとする」仕方)が整合的で意味あるものとして構造化される過程に寄与する」4-16) ものとして位置づけられる.

レイコフとジョンソンは,意味をもった概念を生み出す基盤として身体を考えることで,メタファーへの新しい理解を切り開いた.そして,メタファーが,身体的基盤に動機づけられているという考えは,デスクトップ・メタファーの導入を,新たな視点から考えることを可能にしてくれる.レイコフとジョンソン自身も,『レトリックと人生』の2003年版のあとがきで,デスクトップ・メタファーが,運動感覚的イメージ・スキーマを基盤にした概念メタファーであり,メタファー思考の体系的使用が,これらのコンピュータの世界を成立させているとしている.4-17) この視点から,デスクトップ・メタファーが意識されなくなっているという楠見が指摘した問題を考えると,デスクトップ・メタファーは,ヒトの身体経験をコンピュータのインターフェイスに導入した結果,「新しく拡長したメタファーの理解を自動的にそして意識的な内省なしに理解できる」4-18) 状態になったといえる.

先に引用したように楠見は,デスクトップ・メタファーが現実に依拠したものであったために,そこにイメージ・スキーマが付随していると考えている.4-19) 対して,認知意味論をベースにしたインターフェイス・デザインを行っている久保田は,マッキントッシュのガイドラインにおける「メタファー」の項目に関して,「デスクトップや都市といった具体的な何かの,単なる形や配置をまねることではなく,認知意味論,あるいはイメージ・スキーマ的な意味での比喩=メタファーという視点で考えたほうが,より自然だろう」4-20) と指摘している.この久保田の考えは,コンピュータのインターフェイス・デザインにメタファーを取り入れることが,私たちの慣れ親しんだ環境をコンピュータに移すということよりも,日常の体験に基づいたヒトの身体経験そのものをコンピュータに導入することであったという視点から考える必要があることを教えてくれる.

レイコフとジョンソン自身がデスクトップ・メタファーを評価し,また,楠見と久保田が指摘するように,彼らのメタファー論は,ヒトとコンピュータとが行うディスプレイを介したコミュニケーション行為の理解において,ヒトの身体に大きな役割を与え,デスクトップ・メタファーに基づく GUI に対して,新しい理解を提示する力をもっている.それは,現実を模したイメージをディスプレイに表示したから,イメージ・スキーマが発生したのではなく,身体経験やイメージ・スキーマをコンピュータに導入した結果,現実を模した形式が表示されるようになったという視点を与えてくれる.この視点を得ることによって,デスクトップ・メタファーは,コンピュータに,ヒトの身体を巡る感覚や経験を導入したものと考えることが可能になるのである.

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4-3)
Don Gentner & Jakob Nielsen, ‘The Anti-Mac interface’, Communications of the ACM, Vol.39, No.8, 1996, pp.70-71
4-4)
4-5)
Gentner & Nielsen (1996), pp.72-74
4-6)
J. M. Carroll, R. L Mack & W. A. Kellogg, ‘Interface Metaphors and User Interface Design’, M. Helander, ed., “Handbook of Human―Computer Interaction”, North-Holland, 1988, p.70
4-7)
4-8)
同上書,p.65
4-9)
4-10)
レイコフ&ジョンソン (1986)
4-11)
レイコフ (1993),pp,322-323
[強調は原文による]
4-12)
ジョンソン (1991),p.391
レイコフ (1993),p,323
4-13)
ジョンソン (1991),p.391
4-14)
同上書,p.184
[引用者により訳文を一部変更]
4-16)
同上書,pp.211-212
[引用者により訳文を一部変更]
4-15)
同上書,p.391
[引用者により訳文を一部変更]
4-17)
4-18)
4-19)
楠見孝 (2002),p.65
4-20)

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