「ゴット」の前ではヒトは無力
エキソニモ《ゴットは、存在する。》
《gotexists.com》http://gotexists.com/
URL をクリックすると「510 Got Exists: The requested Got was found on this sever.. / Sever at gotexists.com Port80」と表示される.このページからしてやられたなと思う.ウェブページが見つからなかったときのエラーメッセージ「404 not found」を模していて,「ゴットが存在する」こと自体があたかもエラーのように表示される.ゴットの存在を形式では否定し,内容では肯定する.
「510 Got Exists」のあとは,クックパッドやYouTubeなどで「ゴット」を検索した結果が次々と表示される.実際には「ゴット」ではなくて,「ゴッド」「神」「God」という単語なのだが,それらが「ゴット」に変換されている(と思う).次々と表示される「ゴット」の検索結果を見ていると,「ゴット」が存在するかのように感じられてくる. それは証明することが出来ない「ゴッド」と同じようなレベルで,そこに,ディスプレイ上に,もしくはデータの流れの中に存在するかのようである.私たちが見ているディスプレイでは,「神」が「ゴット」に変換されて,普段はあまり気にもとめなかったところに「神」が存在していたことに気づかされる.「神」「God」「ゴット」は「ゴット」になることで,その存在が際立つ.そして,私たちがこれらの語を,特に「神」という語をネット上で当たり前のように使っていることに気づかされる.またこの変換で面白いのは,意味としての「神」ではなく,データの流れの中に現れる「神」「God」「ゴッド」を「ゴット」に変換しているので,クックパッドという料理レシピを集めたサイトの中にも「ゴット」が存在していることである.
私たちは,ディスプレイ上の「ゴット」を見ることしかできない.なぜなら,カーソルが消えてしまっているからだ.「ゴット」が表示されているウィンドウにカーソルを持っていくと,カーソルが消える.だから,リンクをクリックできない.「ゴット」の検索結果から先にはいけない.何もできない.ただ見るだけである.「ゴット」の起こした奇跡のように,というのは言いすぎだが,目の前に現れては消える「ゴット」をただただ見ることしかできない.「ゴット」の前ではヒトは無力である.目の前のその姿を見るだけである.
「ゴットは、存在する。」の《祈》では,重ね合わされたマウスが祈っていたが,《gotexists.com》ではマウスが役に立たなくなることで,私たち自身が「神」ではなく,データの流れ中で生みだされた「ゴット」の映像,イコンを見続けることになる.私たちはそのイコンに祈るかもしれないし,祈らないかもしれない.やがて,消えてしまったカーソルだけは「ゴット」に復活させてもらわないと困ると,手元のマウスやらトラックパッドにのせた手を動かすだろう.手を合わせて祈ったら,復活させてくれるかもしれないのに….結局,ディスプレイ上で私たちに必要なのは,「ゴット」ではなくカーソルというイメージなのかもしれない.ディスプレイ上のイメージに向かって切実に祈れるのは,ヒトではなくて,マウスというモノだけなのかもしれない.
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