イメージという触角|カフカ「変身」|運動能力
ある朝,不安な夢から目を覚ますと,グレーゴル・ザムザは,自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた.甲羅みたいに固い背中をして,あおむけに寝ている.頭をちょっともちあげてみると,アーチ状に段々になった,ドームのような茶色の腹が見える.その腹のてっぺんには毛布が,ずり落ちそうになりながら,なんとかひっかかっている.図体のわりにはみじめなほど細い,たくさんの脚が,目の前でむなしくわなわなと揺れている.(p.32)
ヒトはコンピュータと言うモノを生み出して,グレーゴル・ザムザのように境遇に置かれているのではないだろうかという気がしている.今までの身体の形から,別の形へ.別の形になるということは,新しい行為をすることになり,認識も変わっていく.
最初は,下半身からベッドを抜けだそうと思った.だがその下半身は,まだ見たこともなく,どんなふうになっているのか想像もつかないが,あまりにも動かしにくい.動きがじつにのろい.とうとう腹立ちまぎれに,力いっぱい,がむしゃらにからだを前に突きだしてみたら,方向をまちがえて,ベッドの柱脚の下のほうに激しくぶつけてしまった.焼けるような痛みを感じた.この下半身こそ,さしあたり自分のからだで一番敏感なところかもしれないと学習した.(p.39)
私たちは,コンピュータと組み合わさった自分の全体を見通すことがまだできていない.コミュニケーションの仕方云々よりも,自分たちの身体をしっかりを見ることが大切なのではないだろうか.
自分の現在の運動能力がまったく分かっていない,ということを考えず,それどころか,自分の演説がもしかしたら,いや,おそらく理解されなかったのではないか,ということすら考えずに,もたれかかっていたドアから離れ,開いているドアを通って,マネージャーのところへ行こうとした.マネージャーはもう家の前の踊り場の手すりをおかしな格好でつかんでいる.だがグレーゴルは,からだを支えるものがなくなったので,あっと小さく叫びながら,すぐに倒れ,たくさんの細い脚で着地した.その瞬間,この朝はじめて,からだが楽だと感じた.たくさんの細い脚で,しっかり床に立っている.うれしいことに,脚は完全に思いのままに動く.それどころか,グレーゴルの行きたいところへ,運んでくれようとさえする.いますぐにも,苦しさがすべて消えてなくなるのだ,とすら思った.(pp.58-59)
GUI は多くの人にとって,コンピュータに対する身体に運動能力を与えてくれた.この引用をしてはじめて思ったことだが,運動能力という観点からヒトとコンピュータとの組合せを考えているみると面白いかもしれない.キーボードを打ったり,マウスを握ったり,タッチパネルに触れたりということを,今までとは異なる行為と考えることはもちろんなのだが.その行為がヒトの運動能力の中でどのような位置づけになるのか.もしくは,これらの行為をし続けることによって,運動能力がどのように変わっていくのか.
日が暮れかけはじめてグレーゴルは,失神に似た重い眠りから目覚めた.なにかに起こされなくても,きっとそのうち目覚めていただろう.たっぷり眠り,たっぷり休んだ気分だった.だが,せかせかした足音と,玄関ホールに通じるドアをそうっと閉める音で目を覚ましたらしい.電気の街灯が,天井と家具の上部のそこかしこに青白い光を落としている.だがグレーゴルの寝そべっている床は,まっ暗だった.ゆっくり這いだした.いまごろになってありがたみがわかるようなった触角で,まだぎこちなく探りながら,ドアにむかった.どういうことがそこで起こったのか,確かめようと思ったのである.左の脇腹は,長い1本の傷痕みたいだ.引きつって気持ちが悪い.2列に並んだ細い脚で歩くのだが,規則正しくバランスがくずれる.それはそうと午前中の事件で1本の脚が重傷を負った.──負傷したのが1本だけというのは奇蹟のようだが──その脚が死んだように引きずられていく.(pp.63-64)
コンピュータと触れ合うための「触角」としてのGUI.ヒトとコンピュータとの組み合わせたのひとつの形が GUI だとすると,この形がもつ「触角」は何を示すのか. 「触角」というヒトの身体にはない器官のメタファーで,ヒトとコンピュータとの組合せ,インターフェイスを考えてみること.GUI:イメージという触角による世界の探索→
このシステムには二つのインタフェイスが存在する.探知システムと人間との間,そして人間と作動システムとの間に.この場合,インプットもアウトプットも,わざわざ図像的な形に変換せずに,デジタルな形のままで進めることももちろん可能なのだが,しかし,図像に頼った方が仕事はやりやすい.その理由は,単にイメージ製造者である人間が介在しているから,というだけのことだろうか.これらのインタフェイスを情報が通過するときには一般に,イメージの形になっていた方が経済的で能率的だという考えも成り立つのではないか? もしこの考えが正しいとすれば,哺乳動物がイメージを作るのは,その精神プロセスの中に多数の界面が存在するからだ,という推測も理にかなったものとなろう.(pp.49-50)
明らかにそれは,以前,窓から外をながめて求めた解放感をなんとか思い出すためにすぎなかった.実際,日を追うごとに,ほんのちょっとしか離れていないものでさえ,ぼんやりとしか見えなくなってきている.むかい側の病院は,いやというほど目につくので以前は疎ましかったが,いまではまったく見えなくなった.自分の家が,静かだけれど市内のまん中にあるシャルロッテン通りにあるということがちゃんとわかっていなかったなら,この窓から見えているのが砂漠だと信じてしまうところだ.灰色の空と灰色の地面がひとつになって区別がつなかない.(pp.77-78)
形が変化すれば,世界を認知する能力の変化,知覚の変化していく.私たちは今現在のところ,ヒトという形は,グレーゴル・ザムザのようには変化していない.しかし,コンピュータといっしょになることで,イメージという触角で世界を探索するようになっている.それはイメージを鮮明にみることなのか,あるいはグレーゴルのように「灰色の空と灰色の地面がひとつになって区別がつなかない」ような状態になることなのだろうか.区別がつかないということは,空も地面も等価なものとして,私たちの前にあることになる.
しかし2,3平方メートルの床では大して這いまわれない.じっと寝そべっているのは,夜のあいだだけでたくさんだ.食事は,やがてまったく楽しみではなくなった.そこで気晴らしに,壁や天井をあちこち這いまわるようになった.とくに天井にぶらさがっているのが好きだった.床に寝そべっているのとは大違い.呼吸が楽になる.からだ全体が軽く揺れている.高いところにいて幸せでうっとりしていいると,ときどき,床にバタンと落ちて,自分でもびっくりすることがある.だがいまは,もちろん以前とちがって,からだをうまくコントロールすることができるので,こんな高いところから落ちてもけがをすることがない.(p.82)
今まで行けなかったところに行けるようになること.身体をうまくコントロールできるようになること. そして,身体が楽になる.GUI からTouch へと移行していくことがこれにあたるのか.床から天井へと移動する平面が変わっていく.一度天井に行ったら,たとえ落ちたとしても,今までとは異なる身体のコントロールができる.
母親の言葉を聞いていて,グレーゴルは気がついた.この2か月,家族に囲まれていたとはいえ単調な生活で,人から直接話かけれられることがまるでなかったため,判断力がおかしくなってしまったのだ.そう考えれば,部屋を空っぽにしてもらいたいと本気で望んだことも,自分に説明がついた.先祖代々の家具を気持ちよく置いた,ぬくもりのある自分の部屋を空洞に変身させてもらいたいと,と本気で思っているのだろうか.そうすればもちろん,どの方向にも邪魔されずに這っていけるけれど,同時にまた,人間だった自分の過去をあっという間にすっかり忘れることになるのではないか.いまだってもう忘れかけていた.しばらく耳にしていなかった母親の声だけが,グレーゴルを揺さぶって目覚めささせてくれたのだ.なにひとつのけるべきじゃない.みんなそのままでなくちゃ.家具は自分の容体に,なくてはならないよい影響をあたえてくれる.もしも家具に邪魔されて,意味もなく這いまわることができなくなっても,マイナスじゃなく,大きなプラスなのだ.(p.85)
身体だけを考えてもだめで,その周りにあるモノを考えること.コンピュータの形,ディスプレイ上のイメージの形.それらは私たちがヒトであることを思い出させてくれている形なのかもしれない.そのような形から解放されて,どの方向にも邪魔されずに行けるようになるほうがいいのかどうかはわからない.グレーゴルは,ヒトとしての形を保てるような道を選んだけれど….
しかしどう考えてもグレーゴルには,こんな追いかけっこでさえ,長くできそうになかった.父親が1歩すすむあいだに,無数の動きをしなければならない.もう息が苦しくなりはじめていた.以前から肺はあまり丈夫ではなかった.さて,そうやってよりめきながら,がんばって走ろうとした.ほとんど目を開けていられない.鈍った感覚では,ほかの逃げ道など考えられない.走るしかないのだ.壁に逃げる道があるということは,ほとんど忘れてしまっていた.もっともその壁は,とがったところやギザギザだらけの凝った木彫の家具でふさがれていたのだが.(pp.94-95)
コンピュータと組み合わさる前のヒトと私たちとの間には,父親とグレーゴルとの関係みたいなものが見られるかもしれない.私たちは,以前のヒトが1歩すすむあいだに,無数の動きをしているのかもしれない.あるいは逆かもしれないが.形が変わったので運動能力が変わる.感覚も変わる.鈍くなるのか,鋭くなるのか.今現在,私たちの身体はコンピュータとの一緒になるということに関して,実験されている状態だといえる.
「さて,どうするか」と考えながら,グレーゴルは暗がりのなかを見まわした.まったく動けなくなっていることに,やがて気がついた.不思議だとは思わなかった.むしろ不自然に思えたのは,これまで実際,こんなに細い脚で前進できたことだ.それはそうと比較的くつろいだ気分だった.全身が痛かったが,痛みはしだいにどんどん弱くなっていって,最後にはすっかり消えるだろうという気がした.腐ったリンゴが背中にめりこんでいる.その周囲の炎症がふわふわしたほこりにおおわれている.だがどちらも,もうほとんど感じない.家族のことを,感動と愛情をもって思い返した.グレーゴルは消えなければならない.もしかしたら自分のほうが,妹より断乎としてそう考えていたのかもしれない.こんなふうにからっぽで平和な考えにじっとふけっているうちに,塔の時計が朝の3時を打った.窓の外が明るくなりじめていくのは,まだわかっていた.それから頭が勝手にガックリくずれおれた.鼻の穴から最後の息が弱々しく流れ出た.(p.121-122)
実験の結果,グレーゴルと同じ結末を迎えるかもしれないし,そうではないかもしれない.形をもつモノとしての存在を止めて,形をもたない存在になるのかもしれない.もし形をもたない存在に運動能力があるとすれば,それはどのようはものなのだろうか.