見ているモノは触れているモノか? (5)

自分の英語論文を翻訳してみたが,最後はもう書き直しになってしまった.それがいいかどうかではなくて,そうなってしまった.こんがらがったスパゲッティになってしまった.これもいいかどうかではなく,そうなってしまった.
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「イメージに触れる」という新しいスキル
私たちはマウスなどの物理的なモノに触れながら,ディスプレイ上のイメージに触れている.しかし,もちろんディスプレイ上には物質性を伴ったイメージは存在しない.物質性を伴わないモノを見るということもどういうことか怪しいが,それに触れるというのはもっと怪しい感覚である.本当に,イメージをモノとして見て,触れているのであろうか.その答えは,イエスでも,ノーでもある.ここでベイトソンが「スイッチ」について言及しているテキストを引用してみたい.
われわれは日常,“スイッチ”という概念が,“石”とか“テーブル”とかいう概念とは次元を異にしていることに気づかないでいる.ちょっと考えてみれば解ることだが,電気回路の一部分としてスイッチは,オンの位置にある時には存在していない.回路の視点に立てば,スイッチとその前後の導線の間には何ら違いはない.スイッチはただの“導線の延長”にすぎない.また,オフの時にも,スイッチは回路の視点から見てやはり存在してはいない.それは二個の導体(これ自体スイッチがオンの時しか導体としては存在しないが)の間の単なる切れ目──無なるもの──にすぎない.
スイッチとは,切り換えの瞬間以外は存在しないものなのだ.“スイッチ”という概念は,時間に対し特別な関係を持つ.それは“物体”という概念よりも,“変化”という概念に関わるものである.(pp.147-148)
ヒトとコンピュータがひとつの行為をなすために回路を作っているとすれば,ディスプレイ上のカーソルと私たちの手元にある物理的なマウスはひとつづきの導線と考えることができるのではないだろうか.その中で,カーソルは,身体というモノと画面上のイメージとをとり結ぶスイッチとして考えるべきではないだろうか.オンの状態,つまり,私たちがマウスを手元で操作しているとき,カーソルは私たちの身体の延長としてひとつのモノとなっている.オフの状態では,それはたんに画面上にあるイメージのひとつとなり,モノをイメージの中に導き入れる導線として機能しない.モノとイメージとをとり結ぶ回路に切れ目が生じる.このモノとイメージとのスイッチとしてのカーソルを考えるために,またベイトソンを引用したい.
「コンピュータは,各トランジスタが連鎖的に作動していくものであり,この因果の連鎖が,論理の連鎖を装っている.三十年前,われわれはコンピュータにすべての論理プロセスを装う[シミュレート]ことができるかどうか問うたものだ.答えはイエスだったが,問いの方が誤っていた.むしろ,論理にすべての因果関係のシミュレーションができるかどうかを問うべきだった.そうであれば答はノーと出たはずである.(p.76)
ベイトソンはコンピュータの論理と因果関係とを分けて考える.コンピュータは論理の機械であるが,それは因果関係が支配する世界に生きる私たちが作り出したものものである.つまり,コンピュータと私たちとは異なる原理のもとにある存在なのだ.しかし,私たちはこの論理の機械を使わなくてはならないし,コンピュータは機能するために因果の世界に住む私たちを(今のところ)必要としている.ヒトとコンピュータとが機能するための回路を作るためには,論理と因果とを結びつけなければならない.どのようにしてか.再び,ベイトソンを引用する.
因果関係を表わす「……ならば……である(ない)」には時間が含まれているが,論理の「……ならば……である(ない)」は無時間的なものである.この事実は,論理が因果関係のモデルとしては不完全なものであることを示している.(p.78)
論理と因果はともに「……ならば……である(ない)」ともに記すことができる.しかし.因果関係に時間が含まれ,論理にはそれがない.論理が因果関係を示すことができる,つまり時間を含むような世界を,不完全でありながらも作ることが出来れば,ヒトとコンピュータとをつなぐ回路ができる.そして,ポルドによれば,GUI というひとつの平面は,因果関係を私たちに感じさせてくれる世界を構成している.なぜコンピュータという論理の機械で,時間を含んだ因果関係をヒトに感じさせることができるのか.それは,藤幡が指摘するように,そこで繰り返しインタラクティヴな体験が行っているからである.それはゴミ箱やファイルなどのイメージで構成されていると考えられがちだが,実際に動いているのはカーソルである.カーソルが,ファイルのところまで行き,それをゴミ箱へと持っていき,コマンドを選択する.カーソルが動くのだ.それは,マウスというモノとつながっているから動くのだ.

モノとつながっているイメージというカーソルを介して,論理の世界に時間を導入する.しかし,それは時間を導入しているように見せているだけにすぎない.私たちの行為,マウスを動かすというアナログ的なものは,ディスプレイ上のカーソルの位置情報というデジタル的なものへと変換されている.ディスプレイ上のカーソルが示しているのは,無時間的な論理の世界にすぎない.しかし,そこに私たちは時間的な因果関係を感じている.それはなぜか? GUI は因果と論理の円環を作って,それをひとつの平面で見せているのだ.「……ならば……である(ない)」の関係に注意を向けさせて,時間を忘れさせる.同時に,そこにはしっかり「……ならば……である(ない)」の関係は示されており,マウスとカーソルによって時間も導入されている.逆説的であるが,私たちは時間を忘れさせられることで,ディスプレイ上に因果関係を見る.それは,論理と因果関係とがともに示す「……ならば……である(ない)」という関係に注意を集中させられることで,私たちがこのふたつをごっちゃまぜにしてしまうからだ.因果と論理とを混ぜ,論理で因果を例示させる平面を作ることで,ヒトとコンピュータは互いに機能するための回路を作る.そしてカーソルは,論理と因果とをごちゃまぜにした回路で,これらを切り替えるスイッチの役割を果たす特殊なイメージでありモノなのだ.私たちはカーソルを介して,イメージをモノとして触れるのではなく,イメージそのものに触れるのだ.この回路のもとで,私たちは「イメージに触れる」という新しいスキルを身につけているのだ.

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