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告知:第4回新視覚芸術研究会「デジタル時代の次元の折り重なり」【追記_2017/08/08】

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8月19日(土)に京都の メディアショップ で第4回新視覚芸術研究会を開催します.今回のテーマは「デジタル時代の次元の折り重なり」で,ゲストはアーティストの 永田康祐 さんです.「次元の折り重なり」という言葉は,永田さんの作品から考えました. [これまでの新視覚芸術研究会→ http://touch-touch-touch.blogspot.jp/search/label/新視覚芸術研究会 ] まだ,発表のタイトルや概要も決まっていないのですが,決まり次第,追記していきます🙇🙇🙇 ➡️ 概要後にタイムスケジュールと概要を載せました✨ フライヤー( PDF )には物理的な制限でテーマの概要のショートバージョンが掲載されています.ここにロングバージョンを載せておきます. −− 概要ロングバージョン ヒトは三次元の物理空間を絵画や写真といった二次元の平面に変換してきた.次元の折り重ねが最も成功したのは,ボタン一つで撮影できる写真であろう.写真は三次元を二次元に落とし込み,二次元のなかに三次元を見せる.写真の平面には二次元と三次元とが折り重なっている.そして,20世紀はまさに写真と映画とが見せる次元の折り重ねを見続け,考え続ける時代であった. 20世紀後半にテレビ,そして,コンピュータが登場し,写真・映画の次元の折り重ねに変化が起きた.テレビは三次元を一次元の電気の流れに,コンピュータは三次元を一次元の情報の流れにした.三次元から一次元へと変換され,写真・映画がもつ世界をそのまま写し取るインデックス性が曖昧になった.しかし,コンピュータは写真や映画に擬態して,世界をそのまま写し取っているように見せている.あるいは,写真・映画のインデックスを保持しようとコンピュータがプログラムされていると言ったほうがいいのかもしれない.コンピュータはインデックス性を絶対的なものとしないため,どんなものにも擬態できるのである. コンピュータ科学者のアラン・ケイは,「Doing with Images makes Symbols(イメージを操作してシンボルをつくる)」というスローガンを掲げて,コンピュータの画面のほとんどを占めているグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)を完成させた.コンピュータにはプログラムというシンボルとディスプレイ上の

MASSAGE連載11_光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》

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MASSAGEでの連載「モノとディスプレイとの重なり」の第11回「 光/絵具で塗りつぶされたディスプレイ ───エキソニモ 《201704EOF》、《A Sunday afternoon》 」が公開されました. 連載11回目は,再び, エキソニモ の作品を取り上げます.4回目で考察した《Body Paint - 46inch/Male/White》《Heavy Body Paint》と同じくディスプレイを主題にして,NYのhpgrp GALLERY NEW YORKで発表された《201703EOF》,《201704EOF》,《A Sunday afternoon》という3つの作品を分析していきます.《201703EOF》,《201704EOF》はフレームを強調した作品であり,そして,《201704EOF》は光で塗りつぶされたようになっています.さらに,《A Sunday afternoon》はディスプレイが絵具で塗りつぶされて,この連載でディスプレイの原型的性質とした「光の明滅」が全く見えません.私はテキストの最後で「ディスプレイ場」というアイデアを書きましたが,ディスプレイを光/絵具で塗りつぶして,エキソニモはどこに向かおうとしているのか. ディスプレイ場と言うアイデア面白い。今考えてる新しい作品とのシンクロ二シティもありそうな気がする https://t.co/YwSJkVaCLE — Sembo / センボー (@1000b) 2017年7月13日 是非,テキストを読んでもらえればと思います.よろしくお願いします🙏🙏🙏

小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」のトーク:本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか

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小林健太「自動車昆虫論/美とはなにか」 のトークを聞いてきた(トークの メモ ).小林が低解像度の美学と言っていて,そこに「退屈」という言葉を出していた.小林の「退屈」を,セミトラやエキソニモの千房が書いていた「退屈」との対比.千房はセミトラの本に寄せたテキストで次のように書いていた. ものを作るという行為は本来「退屈」を減らす行為なのではないか.目の前の美しさに目を奪われれば,退屈は失われていく.しかし,美しさを目前にしながらも退屈を感じてしまう,そんな二重化された感性をもつことによって,構造的に表(スクリーン)と裏(ソースコード/データ)から成り立っているデジタルな世界から現れて来た彼らが,本当に美だと感じているものに近づくことができるのではないだろうか.(p.7)  半透明な記憶から,千房けん輔 『セミトランスペアレント・デザイン』 ディスプレイ(表)とプログラム・コード(裏)とを重ね合わせると「美」と「退屈」とが重なりだす.セミトラの展示はコードの再帰構造をディスプレイ,そして,物理世界に取り出してくるところに退屈さと美をみつけていた( 再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1) ).それはテクノロジーのあたらしさがもつ面白さや美ではなく,コンピュータの特質を物理世界に引っ張り出してきた美であり,退屈さなのだろう.それはどこかヒト以外の論理が働き,理解できないような状況をつくりだしているのであろう. 小林の「退屈」はコンピュータを基準面とした表と裏との重なり合わせででてくるのではなく,「GUI」というディスプレイレベルでの「退屈」となる.トーク相手の山峰潤也(水戸芸術 館現代美術センター 学芸員)が小林のことを「GUIネイティブ」といったように,小林はディスプレイのグリッドシステムに退屈を感じている では,ソースコードと重なり合うことないディスプレイのグリッドシステムのみの退屈とはなんだろうか.小林は「画像感」と言っていた.ビットマップによる区切られた感覚であり,物質を分割するグリッドシステムに退屈を見出す.けれど,ここで興味深かったのが,小林は文字も分割システムと言っていて,さらに,文字が「あいうえお表」のようにグリッドに配置されていると指摘して