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インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた

エキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」の最後の作品.iPadで「宇宙」がめくられ続ける.「宇宙」がめくられる.それも延々とめくられる.それは誰がめくっているのか? エキソニモの作品はヒトから離れ,コンピュータからも離れ,「 概念としての猿 」へと向かっていっているのか. 「概念としての猿」というのは,生物学的な猿ではなくて,ヒトとコンピュータとのあいだにあり続けたインターフェイスに生じた「スピリチュアル」な領域なのではないか.表層と深層(コード)を自由に行き来してきたエキソニモは,ヒトとコンピュータとの膨大なやり取りが世界中で行なわれているインターフェイスに「概念としての猿」が生まれた,あるいはもともと存在していたことに気づいた.それは「スピリチュアル」な領域であって,そのまま出せば「あぶない」とされる.だから,エキソニモは「概念としての猿」を表層とコードとがせめぎ合う場所=インターフェイスに閉じ込めたのではないか.あるいは,インターフェイスにおけるスピリチュアルの存在を確かめるために連作「ゴットは、存在する。」をつくったのではないか. しかし,今回の作品《神、ヒト、BOT》で,エキソニモは表層とコードのバランスを崩しているように思われる.意図的ではなくて,崩れてしまったのかもしれない.表層とコードが引き離され,そこにいたスピリチュアルな存在としての「概念としての猿」が最大化された状態でディスプレイに映る.最大化された「概念としての猿」とバランスをとるようにBOTとしての地球が置かれた.それはきっとヒトのリアリティに作品を繋ぎ止めるために必要だった.「概念としての猿」という表層は光るヒトと塗りつぶされたディスプレイによって最大化され,それとバランスをとるようにコードは地球をBOT化した.しかし,それらはもう密着していない.離れている.インターフェイスのなかのスピリチュアル=「概念としての猿」は解き放たれた.エキソニモは「概念としての猿」とともにどこに行くのだろうか.とても楽しみである.

神が現われる瞬間,感じるのは,畏れである/エキソニモ《神,ヒト,BOT》_作品単体編

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「 大古事記 」展で展示されている エキソニモ の《神,ヒト,BOT》について書きました.今回は作品単体編です.この作品については,あとでエキソニモの個展「 エキソニモの「猿へ」 」からの流れでも書くつもりです. −− ヒトが発光している.ちかごろヒトはよく発光している.でも,そのことに気づかない.発光したヒトを見ているのに,それに気づかないのはそのヒトが「四角」の枠のなかに入っているからだ.「四角」の枠はそこにあるものを別の次元のものしてしまう.「それはそういったものだ」という感覚を見るものに与える. 「神」と言われる存在はよくそれ自体が発光していたり,後光がさしていたりしている.神々しくて,見ると目が潰れると言われたりするが,それはきっと光がまぶしすぎるからだ.太陽を見つめ続けると失明するのと同じ.ちかごろ発光しているヒトは神や太陽ほどは激しくは発光していない.ディスプレイは 明るすぎない光 でヒトを惹きつける.そのこともヒトが発光していることを気づきにくくしている.しかし,様々なサイズの四角いディスプレイのなかでヒトは神のように発光している.エキソニモの千房けん輔はブログで次のように書いている. 大きめの液晶地デジテレビを買った直後,部屋の中でニュースキャスターと相棒が同じくらいの大きさで並んで見えた.このときに、その二つが全く違うものだって強く感じた.一番の違いは,キャスターが自ら発光しているところだった.  センボーのブログ:最近ふと思ったこと  ここでは大きさが同じになったことから,ヒトの発光の有無が際立っているが,エキソニモの作品《神,ヒト,BOT》は発光するディスプレイを塗りつぶすことによって発光しているヒトを際立たせた.赤,緑,白,黒一色に塗られたヒトが直立不動でディスプレイに映されている.ディスプレイでヒトが映されていない部分は身体に塗られた色で塗りつぶされている.なので,ディスプレイが光っているのではなく,ヒトが光っているように見える.あるいは,発光し続けているにも関わらずモノ感が希薄なディスプレイのモノ感が塗りつぶしによって際立っているとも言えるだろうか. ヒトとディスプレイの境界が揺れている.それはそこに映っているヒトが静止画ではなく動画だからである.ヒトは直立不動だが完全に動きを止めることはでき...