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そこに見えているのは「雷雨」か,それとも「何か」か?

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CLICK | GALLERY で Jon Satrom  《Storm Cloud Computing》 ( Gallery_A ) が開催されている.Jon Satromはシカゴ在住の「ダーティ[dirty]」ニューメディア・アーティスト. 《Storm Cloud Computing》はAppleのiCloudの「雲」を用いた作品.ところどころグリッチした背景に多くの「雲」が表示されていて,ところどころはループで動いていて,音も流れている.クリックすると,別の画像が表示されていく. グリッチ自体は珍しいものではなくなった.この作品を興味深いものにしているのは,《Storm Cloud Computing》というタイトルだろう.「クラウド」を示す画像を文字通り「雲=Cloud」として捉えて,「嵐=Storm」を「グリッチ=Computing」つくりだしている.コンピュータが生み出す世界を「もうひとつの自然」と捉えることが多くなってきている.そうれであれば,データ上に発生する「雲」を使って「嵐」という現象を起こすこともできる. これは単に言葉遊びというか,モチーフ=メタファーの選択の仕方にすぎないともいえる.けれど,この作品のとなりに ラファエル・ローゼンダール の《 looking at somethin g》を置いてみると「もうひとつの自然」の「自然さ」というか,その考え方の枠のようなものがネットで活動する作家にはあるのではないかという感じになる. 《looking at something》はカーソルに位置に応じて,ウィンドウ内が「晴れ」であったり,「雨」だったり,「雷雨」になったりする.このシンプルなインタラクションに惹きつけられるのでだが,ここで見ているのは何かと考えると,よく分からなくなる.「ウィンドウ=窓」というメタファーを活かして,外の「自然」を見ている感じもするのだが,もちろんそれは現実の自然ではないし,リアルさを求めているわけでもない.「デスクトップ・リアリティ」というか,作品のタイトル《looking at something=何かを見ている》が示すように,それはブラウザのウィンドウ内に生じている「何か」としか言えないものであり,その「何か」を示すのに「自然」が使われているに...

スライド:情報美学概論A 第6回|インタラクティヴィティとメタファー:イメージを操作してシンボルを作る

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東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 第6回 インタラクティヴィティとメタファー:イメージを操作してシンボルを作る→スライド 第4章 カーソルによる選択行為と「ディスプレイ行為」:マウスとメタファー (私が書いた博論で「メタファー」について考えた章) 関連するメモ インタラクティヴィティとメタファーに関するメモ メモ:インタラクティヴィティとメタファー(2) 参考資料 メタファーの記号論  メディアアートの教科書 科学と芸術の対話―マルチメディア社会と変容する文化〈02〉 ICC インタヴュー・シリーズ 33:ジェフリー・ショー 電子美術論 ヒューマンインターフェースの発想と展開―人間のためのコンピューター Designing Interactions 消えゆくコンピュータ (〈叢書〉インターネット社会) 接続された心―インターネット時代のアイデンティティ 身ぶりと言葉 アラン・ケイ (Ascii books) メタファー関連 レトリックと人生 メタファ-思考 (講談社現代新書) コメントのコメント 仮想世界における身体感覚というのを,私たちは少しづつ実感しつつあるように思われる.今回の講義で「感覚の蓄積」という言葉を使った.それに対して「感覚の蓄積=ゲーム脳?」というコメントが書いてあった.「ゲーム脳」は悪い意味でも使われることが多いが,ディスプレイ上のイメージに身体全体で反応する回路が脳と身体で作られつつあるとしたらどうだろうか.それはある意味,仮想世界に対する反応であり,物理的には直接的に触れることができない世界に対する反応ではないだろうか.私たちは常日頃,コンピュータを使うようになり,ビデオゲームをするようになっている.そこで起こっていることは,イメージに対して身体的に反応するという,今までの人類の歴史にはなかったことである.私たちは,今まで知らなかった世界にあっという間に慣れてしまっている.それはヒトの脳及び身体感覚がとても可塑的なものであるからだと思う.ヒトは何にでも慣れてしまう.私たちは仮想世界をメタファーで探索しているうちに,その世界の感触を確かめることなく慣れてしまったのではないだろうか.現在のメディアアートはその「慣れ」にちょっとした異化作用を加えようとしている....

ヒトとコンピュータとのあいだの図式的知覚を精査して,真正的[リテラル]知覚を把握していくこと

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http://fuckyeahalbuquerque.tumblr.com/post/3990382105 コンピュータを介して出来上がってきているヒトの身体感覚.身体全てはいらない,一部でいい.いや,そこに想像力がはたらくから,一部の方がいいのかもしれない. J.J.ギブソンの『視覚ワールドの知覚』に,「図式的知覚」と「真正的[literal]知覚」という言葉が出てくる. 5.視覚ワールドをどのように知覚しているかという問題は,ふたつに分けて別々に考えることができる,ひとつは,実質的あるいは空間的な世界の知覚の問題である .もうひとつは,われわれが通常,注意を向ける有用で意義のある知覚である.最初の世界は,色,きめ,面,縁,傾斜,形,隙間の世界である.第2の世界は,われわれがふだん関心をむける馴染み深い世界であり,物,場所,人々,信号,書かれたシンボルの世界である.前者では,程度の差はあれ,われわれが体験する背景は一定であり,姿勢の維持と移動のための支えがある.ところが後者では,そのとき何をしているかによって刻一刻と変わる.意義のあるものを含んだ世界は,一度にすべてに注意を向けるには複雑すぎるので,その知覚は 選択的 である.ある種の特徴は著しく目立ち,その他の特徴は無視される.この事実のため,われわれの知覚は歪められ,欺かれると言われることがある.この種の知覚を 図式的 schematic とよぼう.これに対して,最初に挙げた種類の知覚は 真正的 literal とよべるだろう. 図式的知覚を完全に理解するに先だって,真正的知覚を理解しなければならない.なぜなら真正的知覚は,すべての体験に対する基本的な印象のレパートリーを提供するからである.(p.12)  視覚ワールドの知覚,J.J.ギブソン 今までヒトは図式的にコンピュータを理解しようというか,使いこなそうとしてきたのではないだろうか.なるべく馴染み深い世界をコンピュータに持ち込むという発想,デスクトップ・メタファー.しかし,近頃はコンピュータをより真正的[リテラル]に把握しようという動きがあるように思われる. 先にヒトの身体を一部だけコンピュータに映したほうが,想像力がはたらくからいいのではないかと書いた.けれども,そこでは想像力がはたら...

「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない

インタラクションデザインは人間と論理的世界のせめぎ合い、それが与える経験、便利とか役に立つという日常からより精神的な世界へ。論理的な健全性を持ちながら、生身の身体とインタラクションをして精神性を与える。美学と倫理と論理の世界だ。カント的宇宙を超えて、この3者の融合は可能なのか? http://twitter.com/NaohitoOkude/status/22943134116 慶應大学大学院メディアデザイン研究科(KMD)の 奥出直人 さんのツイート.インタラクションデザインがすべてを総合する学になるという宣言.私はこのツイートを読んだとき,そう思った. 私はヒトの身体がどのようにコンピュータが作り出す論理的世界に入り込んできたのかをGUIで考えてきた.そこでは「メタファー」が大きな役割を果たしていると,自分では結論づけた(→ メタファーと身体との関係 ).ヒトはコンピュータと共同でひとつの世界を作り出した.そのときに必要であったのは,コンピュータ科学だけではなく,ヒトがこれまで世界に対処してきた言語,身体から生まれた能力であった. 今まで,そのひとつの世界の生成は,ディスプレイの表面だけの出来事であった.ディスプレイ上だけでも「ひとつの世界」を作ることは,とても大きな意義があったけれど,それが画面を飛びだしてきた.KMDはヒトとコンピュータとが作り出す新しい「ひとつの世界」を作り出そうとしている.大きなヴィジョンである. しかし,私は「ディスプレイ」に留まりたい.インタラクションが起こる表面に留まりたい.タッチ型インターフェイスになった「メタファー」が画面から消えたと言われる.多くのメタファーが陳腐化して,死喩となっていくように,「デスクトップ」からはじまったヒトとコンピュータとを結びつける「メタファー」はなくなっていっているのかもしれない.「メタファー」がなくなることは何を意味するのか.と同時に,コンピュータの論理的世界がディスプレイの外にも飛び出してきていること.「メタファー」がなくなっても,「ひとつの世界」がディスプレイを飛びだしても,それでもディスプレイ,インタラクションの表面は残る.「表面」,「平面」に縛られているのかもしれない.インタラクションデザインは,もっと立体的な出来事なのかもしれない. これまでも,そ...

イメージという触角|カフカ「変身」|運動能力

ある朝,不安な夢から目を覚ますと,グレーゴル・ザムザは,自分がベッドのなかで馬鹿でかい虫に変わっているのに気がついた.甲羅みたいに固い背中をして,あおむけに寝ている.頭をちょっともちあげてみると,アーチ状に段々になった,ドームのような茶色の腹が見える.その腹のてっぺんには毛布が,ずり落ちそうになりながら,なんとかひっかかっている.図体のわりにはみじめなほど細い,たくさんの脚が,目の前でむなしくわなわなと揺れている.(p.32) 「変身」in『変身/掟の前で 他2編』カフカ,丘沢静也訳  ヒトはコンピュータと言うモノを生み出して,グレーゴル・ザムザのように境遇に置かれているのではないだろうかという気がしている.今までの身体の形から,別の形へ.別の形になるということは,新しい行為をすることになり,認識も変わっていく. 最初は,下半身からベッドを抜けだそうと思った.だがその下半身は,まだ見たこともなく,どんなふうになっているのか想像もつかないが,あまりにも動かしにくい.動きがじつにのろい.とうとう腹立ちまぎれに,力いっぱい,がむしゃらにからだを前に突きだしてみたら,方向をまちがえて,ベッドの柱脚の下のほうに激しくぶつけてしまった.焼けるような痛みを感じた.この下半身こそ,さしあたり自分のからだで一番敏感なところかもしれないと学習した.(p.39) 私たちは,コンピュータと組み合わさった自分の全体を見通すことがまだできていない.コミュニケーションの仕方云々よりも,自分たちの身体をしっかりを見ることが大切なのではないだろうか. 自分の現在の運動能力がまったく分かっていない,ということを考えず,それどころか,自分の演説がもしかしたら,いや,おそらく理解されなかったのではないか,ということすら考えずに,もたれかかっていたドアから離れ,開いているドアを通って,マネージャーのところへ行こうとした.マネージャーはもう家の前の踊り場の手すりをおかしな格好でつかんでいる.だがグレーゴルは,からだを支えるものがなくなったので,あっと小さく叫びながら,すぐに倒れ,たくさんの細い脚で着地した.その瞬間,この朝はじめて,からだが楽だと感じた.たくさんの細い脚で,しっかり床に立っている.うれしいことに,脚は完全に思いのままに動く.それどころか,...

デスクトップ・メタファーと「ディスプレイ行為」 

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ここで,デスクトップ・メタファーが生み出されたパロアルト研究所に考察の対象を移したい.なぜなら,この研究所において,ディスプレイ上の対象物を指さすための道具であったマウスに,次々に新たな行為が付け加えられることになるからである. パロアルト研究所では,1973年に,アルト(図4-4)と呼ばれるシステムが開発された.アルトは,アラン・ケイや,バトラー・ランプソン,チャールズ・サッカーが中心となって開発された実験的なワークステーションであり,その大きな特徴は,ディスプレイ上のピクセルがメインメモリのビットに対応するビットマップ方式を採用していたことである.この決定は,ヒトが環境の情報を最も捉えることができる視覚を重視したインターフェイスを提供することが,マシンとソフトウェアの最大の目的であるという開発者たちの認識から導かれたものであった.そして,アルトのインターフェイスでもうひとつ重要なことは,ポインティング・デバイスとして,マウスが採用されたことである.当時,マウスは,入力デバイスとしては馴染みの薄いものであったが,スチュワート・カードによる実験によって,マウスが,ディスプレイ上の対象を指示するのに最も適したデバイスということになり,標準装備されることになった.4-42) 視覚重視の考えと,ヒトの手の原初的な感覚をコンピュータに持ち込むマウスという道具が,アルトというワークステーションで出会うことになる.     図4-4 ゼロックス社 アルト 視覚重視のアルトは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示することができた.このことは,ディスプレイ上のイメージが示すアフォーダンスの直接的な知覚に基づく指さし選択行為とマウスとの関係に影響を与えた. エンゲルバートのシステムでは,マウス・カーソルのイメージは,単なる点であった.しかし,アルトでは,カーソルの形は,矢印(→)になる.カーソルの形が,矢印ではなく点であっても,ディスプレイ上のイメージを指さす選択行為を遂行することはできる.では,なぜ形が変わったのか.それは,ディスプレイ上のイメージを自由に表示できるようになっために,指さし選択行為の遂行に,より適したアフォーダンスを示すイメージを表示するようになったと考えることができる. ここでは,身体的行為を導くアフォーダンスとディスプレイ...

メタファーと身体の関係

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1996年に,ダン・ゲントナーとヤコブ・ニールセンは,「アンチ-マック・インターフェイス」という論文を発表した.そこで,彼らは,現在でもGUI デザインを論じる際にバイブルとして参照されることが多い「マッキントッシュ・ヒューマン・インターフェイス・ガイドライン」の原理に,あえて反することで,新たなインターフェイスの可能性を論じている.4-3) マッキントッシュの第一の原理には,インターフェイスは私たちの馴染みの環境を用いたメタファーに基づいているべきだと書かれている.4-4) マッキントッシュの開発者たちは,この原理に則って,現在まで使用されている洗練されたデスクトップ・メタファー(図4-1)を開発した.           図4-1 システム1.1 のデスクトップ そこでは,ディスプレイ画面を「机の上(デスクトップ)」と見なし,「ファイル」,「フォルダ」,「ごみ箱」などを模したアイコンを,マウスで選択し,クリックすることで,コンピュータの操作が可能になっている.この原則に対して,ゲントナーとニールセンは,「ワードプロセッサ」は「タイプライター」にたとえられるが,ワードプロセッサには,タイプライターにはない「やり直し」の機能があるなど,メタファーが示す目標領域(コンピュータ)と基底領域(たとえる対象)とのミスマッチを指摘する.そして,彼らは,このようなメタファーの使用は混乱を招くことになるので,コンピュータ・システムの構造に即した,メタファーに頼らないインターフェイスをデザインすべきだと主張し,言語主体のインターフェイスの提案を行った.4-5) メタファーによる対象の機能のミスマッチを問題視するゲントナーとニールセンに対して,ジョン・キャロルらは,以前から,対象間のミスマッチを含んではいるが,メタファーの使用は私たちの最も基本的な学習へのアプローチのひとつなので,インターフェイス・デザインには不可欠なものだと主張していた.4-6) 確かに,コンピュータを取り巻くメタファーには多くのミスマッチがあるが,それにも関わらず,私たちは,それらを手がかりにして,コンピュータを使い始めて,気がつくと,それらを当たり前のように操作して自分の作業を進めてきたことは事実である. ゲントナーとニールセン,キャロルらは,似ている対象を結びつける言語の機能としてメタファーを論じ...

アウトライン+メモ:カーソル/身体性の「ある|なし」/モノ|データ|映像

.review のためのアウトラインをノートに殴り書きして,それをツイートしたもの+最後に気になった部分を考えるためのメモ.ツイートするときにやはり書き直しが入るので少しずつ考えが流れになってきている感じがする.今度は,これをノートに写して,そこに長めの文章を書いてみよう. -- アウトライン 1.カーソルについて論じる.→2.先行研究として須永さんの論文.身体の代理記号としてのカーソル.→そうではなくて,「身体」の新たな在り方としてカーソルを捉えるべき.身体を情報空間の中に単なる位置情報に縮減して置くための装置としてのカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848167198 3.このことを考えるために斉藤さんの「ラメラスケイプ」論文を参照する.→なぜに文学的想像力でカーソルを説明するのか?→レフ・マノヴィッチによるコンピュータ・レイヤーと文化的レイヤーによる相互浸透の指摘から.認識の重層化. コンピュータ⇔文学的想像力. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848275095 ラメラスケイプの中で考えるカーソル.カーソルに密接に関係するデスクトップ・メタファー.身体性を帯びたメタファーの1つの構成要素としてのカーソル.ウィンドウの重なりを自由に移動するカーソル=身体性が欠如したキャラとしてのカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848549808 デスクトップ・メタファーを「メタファー」として意識しないことと,ラメラスケイプの中で「比喩」が歴史的使命を終えたこと.でも,カーソルはメタファー以前に,マウスというモノに身体的に繋がっている.メタファーが機能しなくなった後も身体との関係を保つカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8848793789 「メタファー」が機能しなくなった後も身体との関係を持ちつつ,キャラ化し,ウィンドウの間を自由に行き来することができるカーソル.身体性が「あるかないか」ではなく,その2つが重なり合っているのがカーソル. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/statuses/8...

言語的な決めごと/メタファー/人工的自然

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少し前に、工学部の学生と、アップルはなぜ一つボタンにこだわるかという議論をしました。「もうひとつか二つボタンがあるだけで、格段に使いやすくなるのに」という学生に、iPhoneのインターフェースは「やってみればわかる」を基本にしているからじゃないかと私は答えました。 複数のボタンを機能させるためには、必ずある種の決めごとが必要になります。その決めごとは文字や記号で表示されることになり、それを理解しない限り、そのキーを使うことはできません。アップルはそういう言語的な決めごとを嫌ったのでしょう。 iPhoneを使いこなす赤子 in 山中俊治の「デザインの骨格」 「言語的な決めごとを嫌った」というフレーズ.文字や記号での表示をしないこと.直観的と言われていること.「やってみればわかる」.こうなってほしいと思って,やってみるとその通りになる.こうなって欲しいという元に,物理的世界での法則があるときが多いけど,厳密に考えてみると違う.あくまでもメタファー.メタファーの連なり.でも,もうメタファーですらないのかもしれない.もともとメタファーは,ヒトがコンピュータを使っていることを「説明」するために使ったものであって,コンピュータで起こっている事象そのものではない.メタファーなしでコンピュータでの事象を説明すること.説明するためのメタファーが見つからないのではくて,そもそも使うための説明自体が必要ないこと. すべてのものは何らかの仕方でメタファー的に理解されるものです.そのとき,すべての物事は,言語使用なかで使用可能性の圧縮,同一視,豊富化の手続きによって,いわば技術的に自立化されます.「メタファー的」という言葉をこの広い意味で理解するなら,メタファーに対して非難を向けられる筋合いはありません.しかしまたその場合は,一般化して,たとえば「過程」という概念もメタファー的であると言うべきでしょう.この概念は,社会学には哲学から,哲学には法学から,法学には化学から取り入れられたのでしょうか.この方向は逆かもしれませんし,わたしはそれほど厳密に跡づけることはできません.いずれにせよ結局は,すべてはメタファー的なのです.(p.125) システム理論入門:ニクラス・ルーマン講義録【1】 メタファー的ではなく,直接理解されること.右に指を動かすと,ディスプレイ上のイメージも右に動く...