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12月, 2015の投稿を表示しています

2015年の振り返り

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2015年にはこの投稿を含めて 63本 の記事を書いています.2014年が76本だったから,結構減ってしまいました.しかも,今年はボツ原稿を上げたシリーズもあったので,実質はもっと少ないことになります. お仕事としては,2月にメディア芸術祭で「 “ニュー”メディアアートの現在地~バイオアート×ネットアート×ハイブリッドアート  」というトークを行い,5月に日本映像学会第41回大会で「 テクスチャを透してモデルを見てみると:ポストインターネットにおける2D−3D 」という発表をして,そのあとに書き仕事で, 美術手帖6月号「ポスト・インターネット」特集 や MASSAGE10 に「ポスト・インターネット的表現と「調整レイヤー」という不恰好なメタファー」というテキストを寄稿したりしています. ほっと一息ついたら,今度は神保町にあるSOBOでの 展覧会「Vacant Room」で,企画・展示設計を行ったucnvさんとトーク しました.そこで考えたのが「 デジタルな現象をそのまま扱うということは,モダニズム的な態度 」ということでした.そして,大学の同僚の馬場先生とやっている新/視覚芸術研究会「デジタルメディア時代の視覚と世界変容。出来事、記憶、身体の行方」 で「 デジタル時代の物質性 あるいは 単にPhotoshopのブラシ あるいは 単にブラシ 」という問題提起を行いました. そして,今年一番の仕事はウェブメディア ÉKRITS に「 メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路 」を寄稿したことです.ここで論じた問題意識で,エキソニモと谷口暁彦さんの作品に関する論文を書き上げたいです. 今年はトークする機会が多くて, THE COPY TRAVELERS と ヌケメ さんともトークをしました.いくらやってもトークは慣れません.THE COPY TRAVELERSはポストインターネットやメディアアートとは違う文脈で活動しているグループなので,トークはアウェイな感じになるかなと思ったら,文脈が違うからこその差異が際立って,学ぶところが多いトークになりました.ヌケメさんとのトークは,私が参加している科研費「ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察」研究グループの企画で行いました.このト

出張報告書_12/18-20(別紙)_「どうにでもなる」がゆえに「もう,どっちでもいいよ」とは言えない世界

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撮影:永田康祐 出張報告書_12/18-20(別紙)は,東京・八丁堀の milkyeast で開催された展覧会「無条件修復 第III期」に展示されていた永田康祐の作品を考察したものである.永田の作品は3つあり,それぞれ《裂かれた紙の写真》《4つのオブジェクトによるコンポジション》《石の上に木を落とす/木の上に石を落とす》というタイトルであった. 《裂かれた紙の写真》は,紙の中心あたりで下から中ほどまで裂かれた方眼紙を撮影した画像をプリントされた紙も裂かれた方眼紙と重なるように裂かれている作品である.撮影された方眼紙も裂かれていて,その支持体となる紙も裂かれている.展覧会のタイトルである《無条件修復》から考えると,支持体の紙を修復すれば,撮影された方眼紙も修復されるように思ってしまうが,そうはならない.支持体の紙を完璧に修復すればするほど,方眼紙の裂け目が鮮明に見えてくるだろう.当たり前だが,支持体の紙が保持しているのは「裂かれた紙」だからである.支持体の紙が裂かれているから,物質としての裂け目がイメージとして保持されている方眼紙の裂け目を「修復」していると言うのは言い過ぎかもしれないけれど,それを見えにくくしていることは確かである. 撮影:永田康祐 さらに《裂かれた紙の写真》で興味深いのは,支持体の紙がクリップで挟まれて,そのクリップが釘で留められた状態で展示されていることである.物体としての紙がクリップに挟まれているのに対して,紙にプリントされた方眼紙は釘で直接壁に打ち付けられた状態を撮影されている.方眼紙の支持体となっている紙には余白があって,そこに釘を打ち付けて,展示することもできそうではあるが,永田は紙をクリップで留めて作品を展示する.クリップで挟まれる紙という現象は,紙には表と裏があることを示し,支持体の紙をイメージの方眼紙から引き離し,それがモノであるという当たり前のことを強調する. 《裂かれた紙の写真》ではイメージの方眼紙と支持体のプリント用紙に物質的なちがいはある.しかし,それらは「紙」という言葉で括られる認識において,同一の物性を見ている人に与える.それゆえに,「紙」という物性で2種類の紙は重なりあって,方眼紙とプリント用紙の物質的なちがいは前面にはでてこない.対して,《4つのオブジェクトによるコンポジショ

お仕事:『UI GRAPHICS』への寄稿

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UI GRAPHICS -世界の成功事例から学ぶ、スマホ以降のインターフェイスデザイン に「 メタファー,ボタン,テクスチャ,色面,ピクセル 」と「 GUIの歴史:私たちがデザインしてきたインターフェイスは常に身体の中にあった… 」を寄稿しました.前者は「フラットデザイン」を論じたもので,後者はタイトルにもあるとおり「GUIの歴史」を振り返るものになっています.2つともユーザ・インターフェイスとの関わりなかで,ヒトの身体が現実世界の限界を超えていくものになっていくのではないだろうか,ということを書いています. 深津貴之 さんの 「マテリアデザインとその可能性」 では,マテリアライジングを「『厚さのあるピクセル』が現実にあった場合にどのように挙動するかをシミュレートしたデザイン」と書いてあったり,『 融けるデザイン 』の 渡邊恵太 さんによる 「インターフェイスと身体」 には「知覚と行為の循環が,半分ディスプレイの中に入り込んでいる」という指摘があったりして,とても興味深いです. 博士論文では「ディスプレイ行為」という概念をつくって,ヒトとコンピュータとがディスプレイの画像とマウスであたらしい行為をつくっていくということを考えました(→ GUI の確立にみる「ディスプレイ行為」の形成過程 ).このときは,ヒトの身体・認識があたらしい行為のために重要だと考えていましたが,今は,行為がピクセルの光から導かれることに興味があります.なぜなら,ピクセルの光のもとで現実とは異なる世界を厚みをもったピクセルから立ち上げて,そこに認識が半分入り込んでいるとすると,私たちは世界に対してこれまでとは異なる感触をもつと考えられるからです. インタビュー「 動きから「質感」を生み出すUIデザイン 」で 中村勇吾 さんがスマートフォンのスクリーンを「アップデート可能な表皮」と言っています.私たち自身も「アップデート可能な表皮」とともにアップデートしていけるのかということを,この本に集まれられた事例やテキストから考えていけそうです. 『UI GRAPHICS』,是非,読んでみてください!

Photography Is Magic By Charlotte Cotton の作家リンク

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シャーロット・コットンの『写真は魔術』 の作家リンクをつくりました.作家のウェブページがあるものはそこへのリンク,ウェブページがない人は名前でグーグル検索したものをリンクしてあります. Photography Is Magic By Charlotte Cotton の作家リンク

ヌケメさんとのトークメモ

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《Old School》について 家にある《Old School》を90度回転して置いてみたら,とてもびっくりしました.Windowsのアイコンが突如,モノ化した感じがしたのです. 木にプリントされた時点で,ディスプレイの光の集まりであるアイコンはモノ化しているわけですが,この段階ではまだ木の表面にプリントされたイメージという感じがあります.ヌケメさんはそれを彫ります.そうすると表面に凸凹が生じます.そこで更にモノ感が増すわけですが,一番上の画像のように置かれるとどこかまだイメージな感じがします.それはプリントがパソコンのディスプレイと同じように垂直に提示されているからかもしれません.垂直だった彫られたプリントを水平に置いてみると,木片の凸凹が影で強調され,モノらしさが前面にでてきたのです.これを新鮮な驚きでした.これはアメリカの美術史家レオ・スタインバーグが提起した概念「フラットベット絵画」とも通じるところがあるかもしれないと考えています(→参照: アザー・クライテリア ).ヌケメさんの《Old School》は水平と垂直がこじれている感じがします. また,《Old School》を考えるためにもうひとつ参照したいのが,マイクロソフト社の「Windows 8.1 ユーザー エクスペリエンス ガイドライン」で示した「"真のデジタル化" とは、アプリが画面上のピクセルにすぎないという事 実を踏まえる」ということです.影がない光のみのピクセルを物理世界に引っ張りだすと,そこには影が必ず生じます.ヌケメさんの木を彫るという行為は影がない世界から持ちだした画像に「影のパラメータ」を付与して,操作することなのかもしれません. 影の視点から今回のあたらしいバージョンの《Old School》の木の厚みを見てみるとおもしろいです.新作は薄くなっていて,木片というよりは板になっています.木片の正面にプリントされて彫られたアイコンよりも,板にアイコンの方が角度をつけて展示されることで,影がよりはっきり見えてきます.板という薄いものを掘って,切り口に影が生まれて,それがモノの感じを醸し出す.なので,あたらしいバージョンの《Old School》のほうが,立体感が強かった気がします.それは周りをグルっと回って作品