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アバターズ・VRトークの振り返り

6月23,24日と連続トークをした.23日が国立新美術館で開催されたメディア芸術祭での アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』 で,24日が 名古屋のGOLDEN ARTS CAMP (黄金4422.bldg.5F)で開催された VRトーク&ワークショップイベント「没入の宴 〜”俺の嫁”から”嫁が俺”へ〜」 でした. 23日のトークはモデレーターの阿部一直さんが議論をうまく回してくれたこともあり,とても充実したものになりました. 自分的には 菅野創さんと やんツーさんの《アバターズ》を振り返りながら, レーン・ウィラースレフの『ソウル・ハンターズ』と作品体験を重ね合わせて話せたのがよかったです. また,阿部さんが「ディスプレイを見ると言う体験は標準になっている」と言われて,さらに,菅野さんが《アバターズ》を次にどうしたいのかと言う問いに対して「HMDなどを使いたい」と言われていたのが,トークのあいだ気になっていました.そして,阿部さんが,最後に今日のトークの受けて「これからのメディアアートはどこに批評性は見出させるのか」と言う質問が,私に投げられました.そのとき,私は「ディスプレイ」と言う平面の体験にこだわることが批評性を持つのではないかと言うことを応えました.それは,私が「ディスプレイ」「サーフェイス」といった平面に拘っているからなのですが,それを差し引いても《アバターズ》はディスプレイという平面を通して見るからこそ,ヒトがモノになり切らずにいられるところもあるのかなと考えていたからです.それと,ディスプレイという平面の体験が標準化されていて,それも「見る」ことだけでなく,そこで何かしらの「行為をする」ことが標準化されているのであれば,これから5年くらいはまだディスプレイとともにヒトに蓄積された感覚を掘り返すと,あらたなものが出てくるのではないかとことを,トークを通して考えたからです.科学や工学ではなくアートだからこそ,標準化されたディスプレイという平面に蓄積された体験と感覚を時間をかけて掘り返すことができるのではないでしょうか. 24日のトークは,私の前に話した小鷹研理さんの話が面白くて,そのあとに話すは難しいなと思いつつの発表でした.トークのタイトルは「 パーティクル化する映像/身体/空間 」というもので,「パーティクル化」

MASSAGE連載02_サーフェイスから透かし見る👓👀🤳/3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス

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MASSAGEの連載「サーフェイスから透かし見る👓👀🤳」,第2回「 3DCGを切り取る「型」としてのバルクとサーフェイス 」を書きました✍️✍️✍️ 山形一生 さんのディスプレイを用いた作品《Untitled(bird)》 ,《Untitled(stingray)》 と,アクリル板を用いた作品《ミュータント・スライム》を分析しながら,ディスプレイやアクリル板が「型」として,3DCGを切り抜いているのではないかということを書きました. カワイさんのカバーイラストは今回は,サーフェイスが丸められて筒状になって,その中にも筒状のサーフェイスがあってと,どこかサーフェイスが丸められると同時に,サーフェイスがバルクを切り抜いているように感じられます.今回のテキストでは四角いフレームとして「型」を考えていますが,丸い「型」のあり方もまた考える必要があると思います🤔🤔🤔

アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』の告知🗣とメモ✍️(追記へのリンクあり)

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告知🗣 第21回文化庁メディア芸術祭 アート部門 受賞者トーク:『アバターズ』 に出演します. — ウェブブラウザからログイン(「憑依」)することで各オブジェクトを「アバター」として操作することができ,オブジェクトの知覚世界を疑似的に体験できる作品について作者自身が語るトークイベント. 日時:2018/06/23 (土)  17:30 - 19:00  会場:国立新美術館[3階 講堂] 出演: 菅野 創 [アート部門優秀賞『アバターズ』] やんツー [アート部門優秀賞『アバターズ』] 水野 勝仁 [アート部門選考委員/甲南女子大学文学部メディア表現学科准教授] Speakers: So KANNO [Art Division, Excellence Award "Avatars"] yang02 [Art Division, Excellence Award "Avatars"] MIZUNO Masanori [Art Division Selection Member and Associate Professor, Konan Women's University] モデレーター:阿部 一直[アート部門審査委員/キュレーター/アートプロデューサー] Moderator:ABE Kazunao [Jury Member of Art Division, Curator and Art Producer] メモ✍️ 文化庁メディア芸術祭で,アート部門 受賞者トーク: 《アバターズ》に参加することになった.YCAMの「バニシング・メッシュ」展で《アバターズ》が展示されたときに,レビューを書いているので,再度,《アバターズ》について考えることになっている. 菅野創さんとやんツーさんは,《アバターズ》を語るときに.ヤーコプ・フォン・ユクスキュル「環世界」を使って,作品を説明していたように思う.確かに,《アバターズ》はモノとヒトとのあいだの環世界を行き来するのかもしれないなと思いつつ,私はレビューで「物理世界」と「仮想世界」という言葉を使うだけで,「環世界」という言葉を使わなかった.それはなぜだったのだろうか,

ゴットを信じる会《告白》について考えたことと,これからエキソニモとゴットのどちらを探るのだろうか?

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トークで,ゴットを信じる会の会員であり,「 ゴットを、信じる方法。 」展のキュレーターである中川恵理子さんが《告白》は「私たちへの問いかけによって,私たちのなかにゴットが生まれる」と言っていたのが興味深かった.エキソニモの「 ゴットは、存在する。 」は,私たちに明確な問いかけはない.それは,インターフェイスが私たちの身体=存在の代理となっているので,そこに 私たち=ヒトが 必要としないことを示しているからであろう.しかし,ゴットを信じる会の《告白》は,私たちを必要とする.そこが「ゴット」をめぐる大きなちがいであり,この10年間でのインターフェイスのちがいも含まれているような気がする. けれど,ここでゴットを信じる会がゴットに半信半疑だったことも考えなくてはいけないだろう.マウスとカーソルとの連動の感覚を全面的に内面化していた人たちにとっては,エキソニモの《祈》を見ることはシャーマンの儀式を見ることに近い.そしてそれは,信じるも信じないもなく,アニミズムが活きている状態なのである.それは信じるも信じないも,カーソルという画像を依代にして,目の前で実践されているシャーマンの儀式なのである.だが,《告白》においてはもはやアニミズムは活きた状態ではない.いや,マウスとカーソルによる儀式を見るといった他人事ではないものになっていると言えるだろう.《告白》では,見る者自体がシャーマンとならないといけないのである.ここでは傍観者のままゴットを感じることはできない,当事者にならなければならない. マウスとカーソルといった依代的インターフェイスが,タッチパネルというよりダイレクトなインターフェイスとなり,私たち自身にシャーマンとなるように要請する.私たちは,ゴットを信じる信じないにかかわらず,よりゴットに近くになっているのかもしれない.だが,それゆえに,私たち自身がゴットを受け入れるのかどうか問われていると言えるだろう.私にはまだわからないが,きっと,ここにはインターフェイスをめぐる一つの変化があるはずである. と,ここまで書いてきたのだが,私は《告白》を見ているときに,ゴットを感じることができなかった.私はゴットを感じるのに「依代」を必要としているのであり,自分自身が依代になれるほどには,ダイレクトにゴットを受け入れられていないのかもしれない.私は