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2月, 2012の投稿を表示しています

アーティスト・トーク エキソニモ 座談会 それから

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アーティスト・トーク エキソニモ + 座談会@ICC に参加しました.Googleハングアウトで名古屋からの参加.ただでさえ大人数だと,話を切り出すタイミングがわからなくて黙りがちになるのに,今回はさらにひとりネットからの参加.場を仕切ってくれていた渡邉さんに話をふってもらって,やっと話せる感じでした(渡邉さん,ありがとうございます). それにしても,エキソニモの赤岩さん,千房さんをはじめ参加者全員の話がとても興味深くて仕方なかったです.なので,ところどころツイートをしていたら,結構な量になっていました.それを下にまとめてみました.あとから考えたことを,ところどころに加えていきながら,自分なりに座談会を振り返ってみたいと思います. (上の文章書いてから,2時間半が立ちました.振り返ってみたのはいいけれど,とても長くなりました… 最後の方は意識も朦朧としつつ…) −− Ustreamの「ICC_IR」にチェックイン!  http://t.co/YZVUEw3Q posted at  19:16:14 断末魔ウス! (  #ICC_IR  live at  http://t.co/N23chV3G ) posted at  19:22:55 →エキソニモが 《断末魔ウス》 を見せていました. 面白い動き (  #ICC_IR  live at  http://t.co/N23chV3G ) posted at  19:23:49 →なんの動きだったか忘れてしまった. 映像と音がリアルタイムがustでは遅れてくるのでなんか変な感じがする. ( #ICC_IR  live at  http://t.co/N23chV3G ) posted at  19:25:35 →Ustream の映像はGoogleハングアウトよりも少し遅れて届いているので,音をハングアウトで聞いていて,映像をUstreamで見ていたら,微妙にズレていて変な感じがして. コンピュータの身体性は誤植だった… それを文字どおり受け取った自分! (  #ICC_IR  live at  http://t.co/N23chV3G ) posted

new jpegs インターネット アート これから ちがい?

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  スウェーデンの Johan Berggren Gallery で2011年7月23日−8月20日かけて行われた「 new jpegs 」展.参加作家は Chris Coy , Parker Ito , Jon Rafman , Ben Schumacher , Artie Vierkant .上の映像は,Artie Vierkantが作成した展覧会のトレーラ映像である.ホワイトキューブの空間がまずあり,しばらく見ていると,そこに新たな「白い壁」や,筆で描かれたような「白い線」が現れる.それらの「壁」や「線」は,映像に加えられたイメージである.現実の空間と映像に描かれたイメージが同居するようなトレーラになっている. 展覧会のプレスリリースには,若いアーティストにとってオブジェクトや行為,そしてそれらを記録したドキュメントの境界はなくなっていって,まさにポスト・メディウムになっていると書かれている.そして,次の説明がなされる. 「new jpeg」展の作品は,この状況(ポスト・メディウム)を参照しながら,ギャラリー空間のオブジェクトと循環するイメージとを同等に存在するものとして扱い,作りあげられた. 実際に展示した作品を撮影して,ネットにあげる.この一連の操作は多くの作家.ギャラリーが行なっていることである.「new jpegs」展では,この先に,ドキュメントの画像を自由に改変してさらにそれをまた ネット上で展示する ということを行なっている.ギャラリーにあるオブジェクトは,あたらしいイメージを作るための出発点として使われる.あとから作られるネット上のイメージと,もともとあるオブジェクトのあいだに見え方の違いはあっても,どちらが優れているという意味での価値の差はない.まずオブジェクトがあり,そのドキュメントとしてイメージがあり,それがネットにあげられ,新たに手が加えられていく.このプロセスのなかで,「展示はインスタレーションとコラージュ,実現されたものと計画,物質と非物質とのあいだのどこかに存在する」としている. −− この展覧会では「オブジェクト|イメージ」,「リアル|ネット」とのあいだでくるくると作品が循環することで,あたらしい表現を作り出そうとしている.リアルとネットとのあいだを接続したところで,現在ではそこになんらあたらしさ

メモ:選択 同期 すべて

ちかごろ「同期」についてくるくると考えていまして,そんなときに CBCNET の「 センボーのブログ 」でセンボーさんが「 コンピュータ 記憶 シンクロ 」という記事を書いていて,とても面白かったわけです. 現時空と完全にリアルタイムにシンクロしていないからこそ,祝祭的な「電脳空間」が生じてくれるということところとかも考えてみたいのだけれど,今回はそこではなくて,そこでないのなら書くなという感じですが,下の引用を考えてみたいというか,読んだときに考えたことをメモとして書いておこうと思ったわけです.思ったときから,だいたい一日という時間がたっているわけですが. やっぱり、選択的なデータしか記憶しないコンピュータの仕様が、現実/物質とのズレを生んでいるんじゃないかな。もし人間にそんなやついたら信用出来ないもんね(まぁわざとそういうふりする奴いるけどw)それでも人間同士だったら同じ時空を共有したら、同じ程度にすり減ってるような感覚を前提にできるけど、そん時一緒にいたPCくんはファイルとして保存しない限り、データの世界にその時空は刻まれないわけで。 「選択的なデータしか記憶しないコンピュータの仕様」ということを読んだ時に,今のコンピュータって「選択」することで成立しているなと思ったわけです.「カーソル」という「↑」で,画面上のどこか一点を選択して何かをする.センボーさんは「選択的な記憶」ということを言っているのだけれど,その選択的な記憶するために,ひとつ選択行為をしなくてはならない.選択のための選択をし続けるの今のコンピュータなのかな.選択という行為は瞬間的なような気がするので,「すり減った」という感覚も生じないで,常にフレッシュというか,摩耗がないような感じがする. で,「同期」ということなのですが,「選択」と「すべて」とのあいだには当たり前だけれどそこにはズレがあって,同期ができていない.同期しようとするけど,どうしても同期できない.でも,ここ10年くらい,みんなマウス片手にクリック,クリック,クリックしてきたわけだから,ヒトも選択行為することに慣れてきているのではないかな.選択行為にもなれて,記憶も選択的になってきているのでは? ということまではなさそうだけれど,ヒトにも「選択的なデータしか記憶しないコンピュータの仕様」が流れ込んでくることも

猫 Cory Arcangel シェーンベルク

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Thisnotfree で栗田さんが紹介していたDLDというカンファレンスのなかのグループトーク「Ways Beyond the Internet」で興味を引かれたのが, Cory Arcangel というアーティストの猫がシェーンベルクの曲を弾くという作品《Drei Klavierstücke op. 11》 (2009). どうやって作ったのかが,彼の サイト で説明されています.それによると,まずYouTubeにあがっている猫がピアノを「弾いている」映像をひたすらダウンロード(170本ちかく)して,そこから音声データを抜きだしてはコピペでつないで,ひとつの長い音声データにする.そして, Comparisonics  というソフトを使って,グレン・グールドが弾いているOp.11との比較を行い,似ている音を探す.最後に,その音からもとの映像をとってきてつなぐ(この作業を行うためのプログラムをArcangelは公開しています→  here ). これを作った背景をArcangelはグループトークで.この作品をつくるためにプログラムを作ったことなどから,デジタルシステムはヴァナキュラーになっていたり,20世紀の前衛音楽を(猫で)再−創造するということを話しています. 猫によって「弾かれる」シェーンベルクの曲が,YouTubeによって家でみえるというのがオンラインの魅力だし,美術館やギャラリーなどのリアルスペースのコンテクストにおいてこの作品は前衛音楽の歴史などを考えている人と「猫」を結びつけるというようなことも言っています.そして,この作品がオンライン,リアルスペースの両方に同時に存在していることが重要だとも. 最後にインターネットは日々のことになっているとも言っています. 私がこの作品を面白いなと思ったのは,20世紀の前衛音楽をプログラムとYouTube を組合せることで,「猫」が「弾いて」しまっているところです.冗談のようなかたちで脱ヒト化が起こっているような気がします.実際,Arcangelも冗談だといっているますが… ヒトではなく猫がシェーンベルクの曲を奏でる.それを可能にしたのが,多くの人がYouTube にあげた170本ものただ猫がピアノの上で遊んでいる映像と,その映像から曲を再構成するためのい