アーティスト・トーク エキソニモ 座談会 それから
アーティスト・トーク エキソニモ + 座談会@ICC に参加しました.Googleハングアウトで名古屋からの参加.ただでさえ大人数だと,話を切り出すタイミングがわからなくて黙りがちになるのに,今回はさらにひとりネットからの参加.場を仕切ってくれていた渡邉さんに話をふってもらって,やっと話せる感じでした(渡邉さん,ありがとうございます).
それにしても,エキソニモの赤岩さん,千房さんをはじめ参加者全員の話がとても興味深くて仕方なかったです.なので,ところどころツイートをしていたら,結構な量になっていました.それを下にまとめてみました.あとから考えたことを,ところどころに加えていきながら,自分なりに座談会を振り返ってみたいと思います.
(上の文章書いてから,2時間半が立ちました.振り返ってみたのはいいけれど,とても長くなりました… 最後の方は意識も朦朧としつつ…)
posted at 19:16:14
posted at 19:23:49
→なんの動きだったか忘れてしまった.
posted at 19:25:35
→Ustream の映像はGoogleハングアウトよりも少し遅れて届いているので,音をハングアウトで聞いていて,映像をUstreamで見ていたら,微妙にズレていて変な感じがして.
posted at 19:30:21
→エキソニモのカーソルについてのテキストに出てくる「コンピュータの身体性」という言葉が誤植だったという話.私はそれを文字どおりに受け取ってとてもおもしろい思って,ブログ(→中途半端な存在|カーソル|コンピュータの身体性)に書いてたので,誤植だったのかーという感じです.でも,その誤植のおかげでコンピュータについて考察が深められたと思っている.
posted at 19:32:54
エキソニモの《DesktopBAM》についての話.カーソルがヒトの手から離れたときのこの超絶な動きはまさに「コンピュータの身体性」を示しているのかもしれない.
posted at 19:34:09
この発言は栗田さんだったと思うけれど,たしかにカーソルで画面を横切ったりするよりも,ショートカットの方がキビキビ作業できる.
posted at 19:37:17
谷口さんの言葉をうけてのツイート.インターネットには多くアバターが設定されていたりするけれど,カーソルこそがコンピュータに最適化された身体のかたちなのではないかと,私も思います.興味深いのがカーソルがもともと「バグ(虫)」と呼ばれていたこと.カーソルがコンピュータに最適化された身体だとしたら,ヒトではなくて虫的なものに形態を変化させているということも考えることができるのではないかと考えてもいる.
《祈》におけるクリックできないカーソルが動いている平面について考えてみると,そこにはカーソルが動いているだけで,何かを選択するということが起こらない.普段は選択という行為が遂行される平面で,選択は行われずに,ただただカーソルが移動しつづけること.しかし,そこにもヒトは何かしらの意味や意志を読み取ってしまうということから,ヒトが明確に何かを選択するという意志を持たなくても,デスクトップという平面には何かしらの意味や意志が表れているのではないかということを考えたのだと思う.それもヒトが過剰に与えたものにすぎないのであるが…
posted at 19:43:16
エキソニモの《祈》に対して.あわせられたふたつのマウスは情報のオブジェとして存在している.そして,そのモノがスピリチュアルな領域へと突入していくような感じであろうか.
posted at 19:46:44
これは,私が「インターネット アート これから」展をはじめに見たときに感じたこと.私自身は「デスクトップ・リアリティ」の研究から,エキソニモのカーソルを使った作品に辿りついたので,そこからどのようにインターネット・リアリティへと至るのか,あるいは至らないのかということを考えつつ,展覧会を見続けている.
posted at 19:48:09
エキソニモの《supernatural》について.これは文字どおり,インターネットを通じて切断したスプーンをつなげることで,何かしらスピリチュアルな領域へといくのかなという感じで.でも,ここで「スピリチュアル」ということが出てくることが重要だとも思っている.
posted at 19:55:29
エキソニモの《gotexists.com》でカーソルが消えてしまうことについて.ゴットの前ではヒトは無力ということを考えたこともある.
posted at 19:56:36
《gotexists.com》でURLは変わらないのに,ウェブページは変わっていくことに対して,渡邉さんが指摘していたこと.私はカーソルが消えるところにドキッとしていたが,渡邉さんの指摘で改めて考えてみると,たしかにここにも違和感がある.
posted at 19:57:25
《ゴットは、存在する。》に関して,千房さんが言っていた言葉.この言葉が示していることは,もっと考えければいけない気がする.先程《supernatural》のときのスピリチュアルも含めて,インターフェイスという身体的な部分にちょっとしたズレを与えると「精神的」な部分の問題になることはとてもおもしろいと思う.
posted at 20:05:32
《wearable web》の話.ウェブにプラグインのようなかたちで「機能」を付け足してしまうというようなことを,千房さんが言っていた.もともとウェブのイメージは普通のイメージとは異なり,クリックすることでリンクの機能を果たしたりするけれど,そこにまた別の「機能」をつけて,実体化してしまうところが「イメージ・オブジェクト」なのではないかな,と私は思っています.
posted at 20:08:30
谷口さんが言ったことからのツイートだと思う.確かに,ここでの「webぽさ」という基準がどういうものなのかはとても気になるところです.
posted at 20:12:22
先程の《supernatural》で考えたことをもういちど,イメージ・オブジェクトという言葉にい引きつけて言い直しているらしい.最終的にはヒトが解釈することで成立すると言いたいらしい.
posted at 20:16:28
《祈》を再び考えたらしい.ヒトとコンピュータとをつなぐような平面.しかし,それは行為を受け付けない,たんに解釈というか意味が与えられる平面がヒトとコンピュータとのあいだに存在している.
posted at 20:20:07
誰の発言だったかは忘れてしまったけれど,botとヒトとが同じように存在できるインターフェイスになりつつあるという話があった.そして,ヒトとしての私たちはそのインターフェイスに常に向かい合っているとすると,そこにはどんな変化が起こるのであろうかということを,私は考えたかったのだろう.ヒトかbotかではなくて,ヒトでもbotでもどちらでもいいみたいな環境になったとに,改めてチューリング・テストなどするのであろうか.それとも,そんなものは必要なくて,ただただその状況を受け入れていくのだろうか.
posted at 20:21:27
千房さんの発言だったと思う.なんか面白かったからツイートしているのだと思う.
posted at 20:26:00
これは今までのbotの話を受けて,上のような選択肢が出てきている事自体が,botとヒトとを等価値にみていて面白いなと思った.
posted at 20:30:15
Ustream などで現場よりもネットの方が盛り上がる問題.
posted at 20:32:31
谷口さんの言葉であっただろうか.座談会の後半で疲れてきたというよりも,ここまでコメントを書き続けた方が疲れてきたので,はっきりと思い出せない.でも,当たり前のことを気づかせてくれる言葉だと思う.
posted at 20:33:47
これは千房さんのブログ記事「コンピュータ 記憶 シンクロ」からきていること.
posted at 20:35:41
上の話を受けて考えたこと.
posted at 20:38:14
現実とネットでは時間の質がちがう,という簡単なことであったろうか.ちがったような気もする.
posted at 20:39:13
これはひとつイメージとしてメモしておこうと思った.もう発言者がわからない…
posted at 20:40:32
これも千房さんのブログ記事「コンピュータ 記憶 シンクロ」からきていること.
posted at 20:42:03
上の話から千房さんが言っていたことのとても簡単な意訳.コンピュータがすべてを記憶できるようになると,外に連れ出していろいろなものを見せたりするだろうからという意味だったと思う…
posted at 20:43:24
上の話つながりなんだろうけど,今となっては謎!
posted at 20:46:20
このブログを書こうとおもったきっかけのツイート.エキソニモの《DesktopBAM》でディスプレイ画面をどのように見ているのかという栗田さんの発言から考えたこと.《DesktopBAM》で10分位でループするバージョンがあって,そこでループされているのは映像なのかどうかということ.カーソルはスクリプトによって動かされていて,画面の中の出来事と考えればそれはひとつの映像なのだけれど,最後にカーソル自体がコンピュータに再起動させることで,映像からはみ出しているのではないだろうか.単に映像がループしているように見えながら,映像であるカーソルがそれを映し出しているコンピュータ自体を再起動させる.ここでのイメージは機能をもっている.これはセーレン・ポルドも書いていることだけれど,インターフェイス上のイメージは表象でもあり,機能をもった道具でもあるということ.表象/道具という感じが,イメージ・オブジェクトにつながるのではないかと,私は考えているがどうなのだろうか.ここでの再起動によるループを引き起こすカーソルは,なにかイメージ・オブジェクトをも超えている存在のような感じがしている.
posted at 20:47:38
確かに,カーソルは自分が操作しているときと,他人が操作しているときではまったく見え方が変わる.
posted at 20:49:19
上のイメージ・オブジェクトからのツイート.
posted at 20:50:45
谷口さんの発言だったと思うけれど,これは改めて考えてみたいこと.コンピュータによって行為の痕跡を記録,それもすべて記録できるようになってきている.すべて選択できるようになってきたのは,コンピュータが「選択」を記録しているからで,コンピュータで記録できる行為は,選択の結果でしかない.しかし,選択の結果でしかないものではあるが,コンピュータはそれをそっくりそのまま再生することもできる.この考えからエキソニモの《断末魔ウス》も生まれていると考えられる.また,少しちがうが行為の痕跡としての映像から,プログラムによって必要な痕跡だけを抜き取って,それを組み合わせて再生したものがCory Arcangelの《Drei Klavierstücke op. 11 (2009)》ではないだろうか(→猫 Cory Arcangel シェーンベルク)
posted at 20:52:49
同期をしている作品がズレるの待つこと.萩原さんが言っていたような.このズレを待つような心情は実は,下の「同一性」につながるような気がする.
posted at 20:54:30
ネットでなぜ「同期」が問題になるのか,それはそこに「同一性」を見出さそうとしているのではないかということ.そして,その「同一性」を肥大化させるような解釈が生み出されているというようなこと.谷口さんと渡邉さんが話していたように思う.今はあまり考えることができなけれど,ここはとても重要なのではないだろうか.
posted at 20:56:24
ネットはすべてが見えているし,理解できるもので溢れているけれど,突如として見えることを前提としていない「spacer.gif」が可視化されることもある.そのときに何も考えるか.エキソニモの Web Designing での連載記事「天地創造と不可視IMG神」.
posted at 20:57:40
谷口さんと渡邉さんのGoogleドキュメントでの編集作業から.ここから萩原さんのGoogle Wave の話にいった.同期の精度や,同期の分岐のような話かもしれない.
posted at 21:10:55
エキソニモの《ナチュラル・プロセス》の話から.2004年ではみんなが「Google」の検索ページをみていたけれど,今ではそのような風景がなくなってきているということ.
posted at 21:12:49
今回はまだ展示されていない絵画として描かれたGoogleのトップページの存在感の話.多くのスクリーンショットは残っているだろうが,絵画としてはひとつであろうし,だとしたらこれらから100年後とかにそれはどのような存在になるのであろうか.