「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと
東京藝術大学 芸術情報センターで8月20・21日に開催された公開講座「グリッチワークショップ」を見学しました.
「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした.ucnvさん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と針谷周作さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします.
ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です.
ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました.
バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです.
元画像 |
バイナリエディタで編集 |
(ちょっとした)グリッチ画像 |
コンピュータはデータは壊れていても,それを再生してしまいます.それを見て,多くのヒトがその画像を「壊れている」と思う.ノイズが入っていると思う.普段はそれは「壊れた」ものとして捨てられる.けれど,その「壊れた」ものに「グリッチ」という名前を与える.「グリッチ」と名前を与えられた現象を客観的に分析・解釈することから「グリッチ・アート」が生じ,そこに「美しさ」などの「価値」を見出されていく.そして,「グリッチ」は社会のあり方そのもの大きく関わる.このあたりことは,針谷さんの講義でとても詳しく述べられていました(→針谷さんが講義ついて書いているブログ).[針谷さんの講義は,平野啓一郎さんの分人主義につながるような「interdividual」という概念や,ミシェル・フーコーの理性と狂気やミシェル・セールのノイズの話など,とても刺激的なものでした.この講義についても,また改めて考えてみたいです.とても多くの考えるヒントを頂きました.]
ucnv さんがグリッチを実演しているときに,何度かうまく結果がでないことがあって,そこで試行錯誤をしくこくやっていました.そのときに「しつこさ」を楽しむということを言っていて,「グリッチ」のための「しつこさ」を楽しむことは,データ処理のために「反復性」を示すコンピュータそのもにヒトが近づいていくことではないかと思いました.グリッチは「破壊」だから,「正しい」ものがないわけです.だから,そこで自分が求めるものを得るためには何度も試行錯誤するしかない.同じようなことを「反復」するしかないわけです.この「反復」をもとにした「思考の流れ」は,ヒトだけの表現ではなかなか生じないものなのではないしょうか.ヒトとコンピュータとがひとつの複合体になることで,「破壊」と「反復」から「創造」が生じるようになる.ここにはヒトとコンピュータとの複合体としての思考の流れがあると思う.
Datamoshing の技法の面白いところは,ひとつに,「技術」が「質感」に変わる瞬間を見ているという点にあると思う。以前,「JPEG 圧縮によるモスキートノイズが『味』として解釈されるようになる日がいつか来る」というようなことを言っていた絵描きさんがいたのだけれど,なかなかそういった感情を持つ機会は,これまでに現れなかった。また,「MP3 のエンコーダーによる音質の劣化の違いが『個性』として解釈されるようになる日が来るかもしれない」というようなことを言っていたミュージシャンもいたのだけれど,これもやはり,そのような心境になる機会はこれまでになかった。 Datamoshing の登場は,このような「『技術』が『質感』になる日」がとうとう来るのだということを予感させる出来事だと思う。Radium Software「Datamoshing:映像の乱れの技法」
(講義の中でもucnvさんが紹介していた映像)
これは講義でも扱われた「データモッシング」について書かれていたブログです.ここで気になるのが「『技術』が『質感』になる日」という表現です.グリッチは「データを壊す」ことで表現を行っている.「データ」を直接「コントロール」して「壊している」.「コントロールして壊す」,あるいは「プログラムして壊す」とは何か矛盾的なものを感じます.しかしそれが実際に行われており,表現手法と成立している.そこにはやはり矛盾を乗り越えるような今までにない「質感」が生じているといえるでしょう.もちろんこのことを上のブログのように「技術」が「質感」になると表現することもできるでしょう.また,その質感は,「データの質感」ともいえると,私は考えています.データが「質感」をもつことで,「質感」というレベルでモノと同等に考えることできるようになります.なぜなら,「質感」という言葉はモノのモノ性を捨象したような抽象的なものだからです.「質感」という語が与えられることで,データはそのデータ性を捨象され,抽象化される.データとモノとを「質感」という抽象的なレベルで比較し,そこから生じる差異から,再びデータのデータ性やモノのモノ性とのあいだを考えることもできるのではないかと,これを書いている今の私は思っています.
ここまで書いてきてまだ「データを壊す」ことが何であるかは分かっていません.でも,2日間のグリッチワークショップに参加して,なんとなくその「手触り」を得たと思っています.マウスというモノを壊すことでカーソルという「インターフェイスの質感」を引き出した《断末魔ウス》と,データを直接コントロールして壊すことで「データの質感」を生み出す「グリッチ」という手法.このあたりの「あいだ」を考えてみたい.