「情報美学概論A」を終えて

この春から東京藝術大学 情報芸術センターでやっていた「情報美学概論A」が終わった.私自身がインターフェイスからメディアアートへと研究の領域を広げようと思っていたところに,藝大のこの講義の非常勤講師の公募があったので申し込み,採用された.とてもいい時期だった.GUIというここ30年使っているインターフェイスと接する中で,ヒトの身体に蓄積されていった感覚がメディアアートに反映さているのではないかという考えから講義を組み立てていった.インターフェイス→メディアアート(もうメディアをとってアートと言ってもいいかもしれないが…)という身体感覚の流れは,学生にとっても新鮮だったようで,これだけでも示せたのは良かったかなと思っている.

しかし,である.講義の中盤でインターフェイス→メディアアートという身体感覚の流れの最後に「カーソル」を持ってきて,エキソニモの《断末魔ウス》を例に説明するというところまでは良かったのであるが,その後が問題だった.「インターフェイス|メディアアート」のあいだの身体感覚の往来という軸だけでは「情報美学概論A」という講義を成立させることはできなかった.

軸がなくなった後も講義は続く.その中で徐々に出てきたのが「思考の流れ」という言葉である.「思考の流れ」が出てくる前に,コンピュータの「他者性」を強く主張するコスタス・テルジディスの『アルゴリズミック・アーキテクチャ』に出会った.そこには,ヒトの思考の終端からコンピュータとともに思考を始める「人間の思考のサイボーグ化」やコンピュータによるヒトとは全く異なる思考を「allo」と呼ぶことなどが書かれていた.私自身もコンピュータは全くの「他者」で,その「全くの他者」とのあいだにコミュニケーションをどのように成立させてきたのかということを理解したくて,インターフェイスの研究を進めてきた.その際にマウスの発明者であるダグラス・エンゲルバートの思想:ヒトとコンピュータとの身体レベルでの交わりの変化が,徐々にヒトの思考を変えていくことが研究の大きな推進剤となっていた.エンゲルバートの思想とそこから得た自分の研究に,テルジディスの「他者性」及びその思考に対する「allo」という考え方を結びつけることで,ヒトとコンピュータとのあいだの理解が自分のなかで更に進むと思いながら講義を進めていた.そして,講義の最後にエキソニモの《↑》を考察しているときに「思考の流れ」という言葉に辿りついた.

エンゲルバートが考えていたように,マウスなどの身体レベルのインターフェイスの変化は,最終的にはヒトの思考の仕方を変えてしまう.ヒトとコンピュータとのあいだでは,まず「行為の流れ」が変わり,その中で「思考の流れ」も変わっていく.エキソニモの《↑》は,マウスとカーソルという,私たちの身体に染みこんでいったインターフェイスを用いて,そこにちょっとした異化作用をもたらす仕組みを作ることで,そこで起きている「思考の流れ」の変化を体験させてくれる作品だと思う.「カーソル」つまり「↑」を中心に世界が動くような「思考の流れ」が出来上がっていることを作品《↑》は教えてくれる.

「現実」と「仮想」とを「↑」を中心に行き来するようなことが《↑》では起こっていると,最初考えた.しかし,それでは自分が作品を体験したときの身体感覚とは異なるような感じもしていた.で,更に考えた.そうすると「現実」とか「仮想」といった「↑」の先にあるような対象をもともと設定していることが大きな違和感を作り出している原因になっていると思い始めた.「現実」と「仮想」といった対象ははじめからあるものではなく,ただそこには「↑」だけがある.つまり,「流れ」だけがある.その「流れ」の中に強制的に入れられることで「思考の流れ」が生まれる.

私は今,「思考の流れ」とは何なのかを考えるために保坂和志の小説論3部作(今のところ3冊,もっとでるかもしれない)を読んでいる.それは,「↑」から生じる一方向の流れは,文字の流れに近いのではないかと思ったからである.メディアアート(もう一回書くけれど,「メディア」をとってもいいかもしれない)をより理解するために,小説を書く,読む時の「思考の流れ」が大きな助けになる.なので,また講義をする機会が与えられたなら,ヒトとコンピュータとのあいだの身体感覚の往来に,「思考の流れ|文字の流れ|身体の流れ」というもうひとつの流れを加えて講義をしたいと思っている.

最後に保坂和志『小説、世界の奏でる音楽』から引用.

〈こっち側〉がそういうものでなくなれば,〈あっち側〉は必然的に消えてなくなる.その道筋は風景や自然にある.私はすでにじゅうぶんに解に辿り着いたのかもしれないが,辿り着きすぎたのかもしれない.解に着くのではなく,ただ辿る必要があると思う. 
最後に前回引用したニーチェの断想をもう一度書いておくことにする. 
過程[プロセス]の中から目的という観念を取り去り,それにもかかわらずなおも過程を肯定しうるであろうか?───もしできるなら,それはこの過程のあらゆる瞬間に,いかなる事柄でも実現している場合である───しかも常に同じ事柄がである.(断想5[七一]より,傍点(ここでは下線)原訳文)(p.415)

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