始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為
.review に投稿するためのテキストを昨日,サインペンで殴り書きしたものをタイプした.今のところ,6382字.でも,全然まとまっていません.何となく形になってきたというところだけが救いですが….その後,読み返して,自分で赤い入れながら考えを少しでもよくしようと頑張りました.下のツイートはそこからでてきたものです.
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カーソルが私たちに促すのは始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為である.ただし,ここで一度決められた終点は,一瞬の後に始点になってしまうがゆえに,延々と始点と終点を決め続けなければならない.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8959994500
コンピュータは,カーソルを介して私たちが延々と行う始点と終点を決め続ける行為を受け入れ,この単純な行為の繰り返しから多様なアウトプットを計算し,表示し続ける.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960129574
デスクトップ・メタファーをめぐる想像力の変化.1984:マウスとカーソルによって多様な行為が始点・終点の選択という単一の行為に縮減・後退し,現実/仮想という構造が前景化する.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960538375
1999〜:現実/仮想という構造が後退し,単一化された行為がその単一性にゆえに前景化する.デスクトップ・メタファーをめぐる想像力の反転に,カーソルが示す身体性の「ある|なし」の重ね合わせが影響してる.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960699371
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私たちは始点と終点を決めるという単純な行為と,キーをして文字を入力するということを延々と繰り返している.キーで文字入力はタイプライターがあったけれども,始点と終点を決めるだけで,ここで始点を決めるというのは少し違うかも知れない.私たちは,カーソルをどこか目的の場所,終点を目指して私たちは動かすのだが,そこでクリックなりなんなりをしてしまったあとは,カーソルはそこに放置される.今まで私たちの身体と結びついていたのに,あっさりと放棄される.放棄されても,カーソルはそこにあり続けて,次の目的地・終点に再び動かされる.となると,放置されている地点は終点でもあり,放置されている間は次の終点のための始点を示していると言うことになる.たとえ,私たちが意識しないとしても.この始点と終点とを決め続けるという単純な規則に基づく,単純な行為をやり続ける.でも,この単純な行為からのアウトプットは多彩である.このギャップ,ズレは,私たちの身体性を含んだ想像力に大きな影響を与えているのではないだろうか.仮想/現実という構造を越えるもの.これらをフラットに考えるラメラスケイプの想像力とも異なるものを,カーソルの単純さは私たちに与えているのではないだろうか.カーソルが促す始点と終点を決め続けるという単純なルールに基づく単純な行為は,身体が仮想/現実をひょいっと跨いでしまう行為のように思える.
「ひょい」って何なんだとなるのだけれど,まだうまく言語化できないでいる.それは物語も,メタファーも,キャラも必要せずに,身体を新たな在り方に導いていく想像力を私たちに与えてくれているように思える.私たちとコンピュータとの関係から生み出されたまったく新しい表現の形のひとつなのかも知れない.でも,そんなに新しい表現だったら,今まで誰も気づかないはずがないか….それはとにかく,私にとってカーソルは,謎のかたまりであって,それをどうにかして解きほぐしたいと思っている.
カーソルが私たちに促すのは始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為である.ただし,ここで一度決められた終点は,一瞬の後に始点になってしまうがゆえに,延々と始点と終点を決め続けなければならない.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8959994500
コンピュータは,カーソルを介して私たちが延々と行う始点と終点を決め続ける行為を受け入れ,この単純な行為の繰り返しから多様なアウトプットを計算し,表示し続ける.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960129574
デスクトップ・メタファーをめぐる想像力の変化.1984:マウスとカーソルによって多様な行為が始点・終点の選択という単一の行為に縮減・後退し,現実/仮想という構造が前景化する.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960538375
1999〜:現実/仮想という構造が後退し,単一化された行為がその単一性にゆえに前景化する.デスクトップ・メタファーをめぐる想像力の反転に,カーソルが示す身体性の「ある|なし」の重ね合わせが影響してる.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/8960699371
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私たちは始点と終点を決めるという単純な行為と,キーをして文字を入力するということを延々と繰り返している.キーで文字入力はタイプライターがあったけれども,始点と終点を決めるだけで,ここで始点を決めるというのは少し違うかも知れない.私たちは,カーソルをどこか目的の場所,終点を目指して私たちは動かすのだが,そこでクリックなりなんなりをしてしまったあとは,カーソルはそこに放置される.今まで私たちの身体と結びついていたのに,あっさりと放棄される.放棄されても,カーソルはそこにあり続けて,次の目的地・終点に再び動かされる.となると,放置されている地点は終点でもあり,放置されている間は次の終点のための始点を示していると言うことになる.たとえ,私たちが意識しないとしても.この始点と終点とを決め続けるという単純な規則に基づく,単純な行為をやり続ける.でも,この単純な行為からのアウトプットは多彩である.このギャップ,ズレは,私たちの身体性を含んだ想像力に大きな影響を与えているのではないだろうか.仮想/現実という構造を越えるもの.これらをフラットに考えるラメラスケイプの想像力とも異なるものを,カーソルの単純さは私たちに与えているのではないだろうか.カーソルが促す始点と終点を決め続けるという単純なルールに基づく単純な行為は,身体が仮想/現実をひょいっと跨いでしまう行為のように思える.
「ひょい」って何なんだとなるのだけれど,まだうまく言語化できないでいる.それは物語も,メタファーも,キャラも必要せずに,身体を新たな在り方に導いていく想像力を私たちに与えてくれているように思える.私たちとコンピュータとの関係から生み出されたまったく新しい表現の形のひとつなのかも知れない.でも,そんなに新しい表現だったら,今まで誰も気づかないはずがないか….それはとにかく,私にとってカーソルは,謎のかたまりであって,それをどうにかして解きほぐしたいと思っている.