能動と受動の間,具象と抽象の間にある←,カーソル

ICC で行われている「可能世界空間論:空間の表象の探索の,いくつか」に出品されていたエキソニモさんの《》を見に行くために東京へ遠征.エキソニモさんの作品は,東京都現代美術館で行われている「サイバーアーツジャパン―アルスエレクトロニカの30年」にもあって,どちらの作品も自分の興味にはまりすぎるくらいはまっていたので体験できて良かった.《》へのツイート.もっともっとこの作品も含めエキソニモさんのカーソルとマウスによる作品群はいろいろと考えたい.下のエキソニモさんのステイトメントに追いつきたい.
ネットワークの向こう側の空間.デスクトップに存在するカーソルと言う縄張り.モニターを見ている自分という座標.それら複数の時空が織りなす,レイヤー化された現代のアイデンティティ.そんな分断されつつ同時に成立する自己を撹乱するインターフェイスを制作します.その体験を経ることで,僕たちはゴットに一歩近づけるかもしれない. ――エキソニモ
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エキソニモ《↑》:←を動かすと、←を含んだ平面ごと動く。この平面は世界に属している。つまり、←を動かすと世界が動く。地と図があっけなく反転する。この「あっけなさ」の中で、私たちはディスプレイというひとつの枠を持った平面にその存在を縮減される。もっと自由になれる。
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9176955957

マウスを動かすと自分を含んだ世界が動く。注意が←へと強制的に捻じ曲げれる。でも、私たちにとってはもう当たり前の出来事。←によるこの注意の捻じ曲げは、私たちの意識をあっちこっちにひょいひょいと飛ばす。気持ちいい。この気持ちよさが、何を意味するかはまだ分からないけれど。
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9177110999
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行きのバスの中で考えたカーソルのこと.能動性と受動性ということをひとつの軸にしてカーソルを考えてみた.

カーソルほど曖昧なイメージはないのではないだろうか.私たちの身体とつながっているときは「キャラクター」のようにレイヤー間を自由に動き回り,イメージを操作するイメージという能動的な存在になる.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9191296309

私たちの身体から離れると,受動的に操作されるイメージの1つとなってただそこにあるものになり,時にはそこにあることが「邪魔だ」といわれる.ディスプレイ上を縦横無尽に駆け回って,いろいろな作業をしたあとに,放置され,邪魔だともいわれるカーソル.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9191368612
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帰りのバスの中で考えたカーソルのこと.

今まで身体を扱う想像力の主戦場が文学だったとすれば,それはコンピュータに移ったのである.文学はそれゆえにより純粋に物語を駆動していく「キャラクター」や「関係性」にリソースを集中できるようになった,写真によって絵画が具象から抽象へ向かったように.
http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/9191918651

こうやって並べてみると,「能動と受動の間,具象と抽象の間にある←,カーソル」という言葉が浮かんだ.カーソルはこれらの間に,自分の縄張りを作っている.私たちが作っているのではなく,←が作り出す縄張り..review の締切まであと4日….

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