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📝メモをTumblrからnoteへ✍️

Tumblrで書いてきた memo が「999」までやってきた.タイトルで連番で書くことで「999」までは書こうとモチベーションをもってやってきた.それが終わってしまった.なので,別のウェブサービスにメモを移そうと思う. もともとBloggerを使っていて,今も使っているけれど,インターフェイスが「メモ」するには向いていない感じだったので,Tumblrを使って,日々のメモを書くようにしたのであった.Tumblrのインターフェイスだからこそ気軽にかけたということも多くあった.その後,Bloggerにテキストをコピペしてさらに考察したということも多々あった.インターフェイスによって書けることが変わってくるというのが面白い経験であった. メモは公開する場所に書くというのが,程よい緊張感でテキスト入力できるので,次はnoteにでもメモの場所を移そうと思う.連番にするかどうかは別にして,noteでメモを書いて,良いメモが書けたら,これまで通り,Bloggerでさらに考察していきたい. note:  https://note.mu/mmmmm_mmmmm

メモ_融けるデザインとexUI:渡邊恵太さん

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融けるデザインとexUI:渡邊恵太さん https://soundcloud.com/takramcast/xui?utm_source=soundcloud&utm_campaign=share&utm_medium=twitter 渡邊恵太さんのexUIというアイデアが面白かった.ハードのインターフェイスをすべてスマートフォンに担わせてしまって,ハード自体には電源ボタンしかないようにしてしまう.そうすると,まさにハードはサーフェイスしか持たないことになる.スマートフォンが物理ボタンを持たないようなサーフェイスになっていくと同時に,家電などもまたインターフェイスをスマートフォンに外在化して,単なるサーフェイスを持つようになる.ハードウェアのインターフェイスを外在化させたとき,インターフェイスの支持体としてのハードウェアではなくて,ハードウェアの支持体としてのインターフェイス=ソフトウェアが生まれてくるのではないか.ハードウェアがメタ化したときのデザインはどんなものになっていくのだろうか.ハードウェアからインターフェイスがなくなり,サーフェイスとなるのは興味深い. メモの Workflowyバージョン 融けるデザイン 理系にも文系にも届く中庸的な本にしたかった デザイン論ではなく設計論にした 今,考える「自己帰属感」 自己帰属感を下げるのが面白い 死刑執行室 ボタンが3つ 誰が押したか分からないようにしてある 自己帰属感を下げている 自己帰属感は設計軸 高めることも低くすることもできる 自己帰属感をパラメータとして捉える 田川 自己帰属感を下げたときの事例 自分の体験でなくすための自己帰属感 自己帰属感を上げるためのメソッド/コツ レイテンシーが重要 レイテンシーを上げるためにフレームレートを上げるだけではいけない フレームレートを上げたもののアニメーションに使った 指との連動性が考慮されていない アニメーションは自己帰属感を下げかねない 連動性とレイテンシーを分けて考えるための自己帰属感 アナログの道具 身体の拡張=身体の一部 拡張と帰属とは異なるのか? 田川 人間拡張のハード的アプローチが拡張 ...

Surfin' に見たふたつのデスクトップ───永田康祐《Sierra》と山形一生《Desktop》

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Surfin' を見てきた.永田さんの《Sierra》は「乱層のデスクトップ」という感じ,と書いてみて,すぐに「乱層」ではないなと思った.平面の重なりで,デスクトップという普段は静止画のところに動画が流れることで,ひとつ土台が崩れるというか,デスクトップが平面ではなく映像となることで,前提が崩れるというか,メニューバーやドックの奥にデスクトップがあることが,もうひとつだけ奥に行っているような感じがした.何が言いたいかというと,「デスクトップ」という平面が無効化されて,その奥に映像が流れていると感じたということなんだろう.「デスクトップ」がなくなってしまっている.けれど,その他のカーソルやウィンドウは通常通りである.だからこそ,少し感覚が狂う感じがある.失われた地面の上で通常通りの行為を行うという感じだろうか.永田さんの作品によく感じる平面がパラレルに重なっていく感じを,ディスプレイのデスクトップを基準に,その前面と背面でミニマルに行なっている感じがした.となると,それはディスプレイのデスクトップという平面での前面と背面との重なりが強調されると同時に,ディスプレイというモノとそれが置かれた空間における3次元的な重なり,ディスプレイとその裏側に置かれたMac Pro,ディスプレイ下からケーブルが伸びるヘッドフォン,もうひとつの平面であるトラックパッド,そして,それらを操作するヒト,ヒトがいる展示空間といったものが平面的に重なり合っている感じがでてくる.そこでは,ディスプレイのデスクトップ基点の重なりが確かにあると感じつつも,その重なりがあやふやになっているので,3次元空間で起こるモノの重なりが不思議に思えてくる.3次元を投影したデスクトップという2次元が消え去って,その重なりがあやふやに強調されて3次元的になって,その感覚が3次元に投影されるなかで,次元が折り重なるというか,2次元と3次元とが等価に投影し合うというありえない状態が生まれているのかもしれない. 永田さんの《Sierra》を見た後に,けど,この重なりは時間差で起こっている感じがある.机の上に形成された「痕跡」が,おそらく,かつて,そこに垂直に近い角度で「デスクトップ」が表示されていたことを示している.作品にはディスプレイはないけれど,ノートパソコンが置かれていただろう痕跡から,ディ...

メモ:視野角と透明感

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http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/157792586526/mr-styly-preview-of-upcoming-mixed-reality-fashion http://prostheticknowledge.tumblr.com/post/135580649616/skincare-interactive-installation-by-akihiko Psychic VR Lab に行き,ゴットスコーピオンさんと会い,MicrosoftのHoloLensを体験させてもらった.目の前には何も着ていない服のボディがあり,その前で手を開く動作をすると,ボディに服が被さる.HoloLensの視野角が狭いために,服に近づくと私にはボディの一部にしか服が被さってない状態が見えるけど,視線を動かすたびに,そこに服が現れる体験は新鮮であった.物理空間には服はなくて,HoloLensを通すと服が見える.さらには,HoloLensは上のGIFのように服の全体,カメラが捉える領域のデータが処理されているのだけれど,ヒトは適切な距離からは画像のように全体を捉えることもあれば,服に近づいたときには,自分の視線の先に服の一部を見るということが起こる.物理空間と仮想空間とが入り混じりつつも,視野角というヒトとデバイスのフィジカルな制限で仮想空間と物理空間との重なりが決定され,その境界がつねに自分の動きに追随するというのは興味深い体験だった. この体験は,谷口暁彦さんの「 スキンケア 」の作品《透明感》を考察する際に有効かもしれない.谷口さんはディスプレイがディスプレイを内包したときのことを考えているのかもしれない.

アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにしてみると…

ところがツルツルだったはずのアニメがゴツゴツに近いものを取り入れ,怪獣に逆襲をかけてぶっとばした瞬間がある.それは1960年代末,劇画ブームと呼応して導入されたマシントレスと特殊効果(ブラシやタタキ)が,アニメのセルをダーティに変えて質感を意識した仕上げを取りこみ始めた時期である.その質感に裏打ちされ,動きや演出も変わる.『巨人の星』の異次元空間のような大リーグボール,『タイガーマスク』の意表をつく豪快なアクションなど,それまでにない卓越したものが次々に登場した.ゴツゴツの怪獣とはまた違う,超現実的な汚い映像が出現したのだ.  今日も怪獣日和 第7回「アニメと怪獣の超えられない溝」 アニメ評論家の氷川竜介さんのテキストからの引用.「ダーティ」という言葉が使われているところに惹かれた. ラファエル・ローゼンダールがベクター画像の印象が「クリーン」で,どうしても「ダーティ」にできないと言っていたので,私はコンピュータをクリーンで,コンピュータと対比されるようになった物理世界をダーティと考えるようになった.物理世界がもともとダーティというわけではなくて,コンピュータのクリーンさと比較してはじめて,物理世界のダーティさが際立つというか,そこにコンピュータ以後のあらたなダーティな要素がでてきたといえる. 氷川さんはアニメと特撮のちがいから「ダーティ」という言葉を持ってきていて,ダーティが「超現実的」「異次元空間」という言葉と結びつくところが興味深い.アニメのセルがもつツルツルなクリーンさをダーティにすることで,物理世界の有り様が変化していき,世界の法則そのものを変更していってしまう. 氷川さんのテキストは「ツルツル=アニメ」「ゴツゴツ=特撮」「ギラギラ=CG」「パキパキ=デジタルペイント」と「質感」の話になっているので,インターフェイスをこのような質感で語る文章を書いてもいいかもしれないと思った.

メモ_herを見た直後の感想

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スパイク・ジョーンズ監督の「her」を見た.AppleのAirPodsが発表されたから,インターフェイスの未来を考える参考になるのではないかと思ったのであった.音声インターフェイスって,とても直接的で解像度が高いのではないかと思った.もちろん,映画はスカーレット・ヨハンソンの声だから解像度が高いのは当たり前だけれども… 視覚的インターフェイスはまだまだ改善の余地はあるかもしれないけれど,音声インターフェイスのイヤホンとマイクというかたちはもう改善の余地がないのではないだろうかと思った.音声認識とAIの精度というか,進化は必要だけれども,音声に関するインターフェイスとしては完成されているかもしれないと映画を見ていて思った.イヤホン型のコンピュータはいつでも装着できるし,「音」のインターフェイスだから「盗撮」といった視覚的なプライバシーを犯すという感覚をヒトに与えにくいのはいいかもしれない.けれど,音声インターフェイスが全盛になると,音声のプライバシーへの意識が上がるのかもしれない. 映画の中ではじめて主人公がOSとデートのようなことをしているところが印象にのこった.iPhoneみたいな装置についているカメラを「眼」にして外界を「見て」.そこから指示を主人公の耳に「囁く」.主人公がとても楽しそうだった.目を閉じていたので,私が思っている以上に楽しかったのかもしれない. インターフェイスに関していえば,主人公とOSとの関係が少しギクシャクしたときに,主人公がイヤホンを投げ捨てたところが気になった.あの投げ捨て方は,とても気持ちを入れていたものであった.モノをモノとして扱いながらも,そこに感情移入もしている.どこか奇妙な感じがあった.ハードにソフトが載ることで,ヒトにとってのモノの意味が変わってしまうような感じがした.音声を聞かせるモノでしかないイヤホンがOSと結びつくことで,人格を得てしまう.OSの人格がモノに憑依する.モノはモノでしかないけれど,ヒトの認識が変化する.でも,それは認識の変化でしかないから,モノとして放り投げてしまう.ここには,これからモノをどう扱うことになるのか,モノに感情移入してしまうことを感じた. 私たちは既に画面のなかのカーソルやキャラクターに感情移入できたり,自己帰属感を得たりしているので,モノにそういった...

メモ:須賀悠介の《Empty window》を見て

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須賀悠介さんの個展が7月24日まで原宿のBLOCK HOUSEで開催されています.そこに展示されていたディスプレイをモチーフにした作品が興味深ったので,会期が終わる前にメモを残しておこうと思います. 後日,改めて,出張報告書(別紙)にまとめようと思っています. 須賀悠介の割れたディスプレイを木彫で表現した作品《Empty window》を見て,最初に気になったのは,スマートフォンの前面のディスプレイ以外の部分,iPhoneで言えばホームボタンやフロントカメラなどは排除されていることであった.確かに,ホームボタンなどのところはディスプレイではないから,当たり前である.しかし,「ディスプレイが割れた」という言うとき,実際に割れているのはスマートフォンの保護ガラスであって,それはホームボタンやフロントカメラの周囲を覆っている.だから,「割れたディスプレイ」というとスマートフォンの前面の保護ガラスが割れるのであって,ディスプレイが割れるということはないのではないか.保護ガラスが割れるだけだから,ディスプレイは機能している.しかし,ヒトは保護ガラスの割れをディスプレイの割れと思う.恐らく,須賀はこのような問題を回避するために,ディスプレイ部分のヒビのみを彫ることにしたのだろう.そうすることによって,ヒビはよりディスプレイに密着する.保護ガラスはディスプレイの一部になる.ディスプレイの上に位置して,スマートフォン前面全体を覆っていたものが,ディスプレイの一部となる.これは保護ガラスが割れたディスプレイを操作している時にも感じる.ヒビによる凹凸によって,普段は意識しないガラスの存在が顕わになる.ディスプレイは普段は画像表示装置であって,画像の支持体としてその存在を画像のもとにひっそりと隠している.しかし,保護ガラスというディスプレイ自体を保護するガラスが割れることで,ディスプレイは保護されているひとつのモノとして強く存在するようになる.だからこそ,それは木彫として表現することできる.

メモ:2Dでも3Dでもある/ないような「Vacant Room」

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「 Vacant Room 」は展示の記録写真であって,Virtual Reality=VRとはあまり関係がないような気がしてきた.インタラクティブなVRだと思うのは,360度写真とスマートフォンが連動しているからだから,確かにVR的要素はあるのだけれど,それは大したことではない.というか,VRだと見る人に思わせておいて,でも「Vacant Room」は単なる「写真」であって,だから,ピンチアウトで拡大できたりする.これは「写真」というよりも「カメラアプリ」でリアルタイムにリアル空間を見ているときの感覚に近い.でも,拡大はできたと思って,スワイプして画像を動かそうとするとできない.ここでの画像は「写真」ではなくて,リアカメラからのリアルタイム画像のようになっている. 2Dでありながら3Dという感覚を醸し出しつつ,見る人の意識が3Dに行こうとするとそれを妨げる仕掛けがいくつもしてある.仕掛けは「カメラアプリ」のようなリアルタイム映像と「写真」として表示される画像とのあいだの行き来であったり,ホワイトキューブを再現したVRと思わせつつも360度写真であって,作品に寄ることができないというか,スマートフォンを固定しながら前後に歩いても,上下に屈伸運動してもディスプレイ内の映像は変化しない=写真のようだったりするものである.これらの体験をしていると,展示を見ていてそれが3Dだと認識しそうになると同時に2Dに引き戻されるという感覚になって,2Dでも3Dでもある/ないような「Vacant Room」に連れて行かれる. この感覚は Joe Hamilton の作品《 Indirect Flights 》にちかいものがある.この作品は航空写真のコラージュの上にもうひとつ金網やサッシ,絵具,筆跡といった平面的質感を強調するモノのコラージュが重ねられている.Googleマップのようにドラッグしてふたつのレイヤーを動かすことができるけれど,ふたつのレイヤーの動きはそれぞれ異なる.この作品を見ていると,航空写真を見た際生じる立体的な感覚が常に阻害される感じがする.ディスプレイに映っている映像が3D的なものであろうと,そこに見ているものは物質的に2Dのディスプレイでしかないのだから,3Dなんてそこにはない.あるのは徹底的に2Dの重なりでしかな...

メモ:インターネットを受け入れるマインドセットがまずあって

ISEA2014の発表の質疑応答で「ビットコイン」の話題になった.どうしてそうなったのかは,アートは現実に追いついていないという文脈だったような気がする.ビットコインをどうアートであつかうのか,あるいはどう考えるのかだったような.それで,ひとりアーティストがビットコインの技術的な話をしていた. 僕はそれを聞きながら,たぶんそんな技術的なことではなくて,ビットコインを受け入れているマインドセットこそ問題にすべきなのではないだろうか,と思った.それはインターネットヤミ市に通じるところなのだが,インターネットを受け入れるというか,インターネットで起きていることを「リアル」と同等に受け入れるマインドがビットコインを受け入れさせているような気がする.ビットコインはネットから出てきて,リアル通貨とも交換できる.そこが面白いところで,もともと貨幣は仮想的なもので,ただそれがリアルで実行力をもつからあたかもリアルに存在しているかのようだけれども,それはたんに紙切れにすぎない.でも,たんに紙切れにすぎないと言えないところが貨幣で,ビットコインも単にデータにすぎないのだけれど,それがたんにデータにすぎないと言えないマインドセットに私たちがなっているところが,インターネットとそれを構成する膨大なコンピュータ群を受け入れている証拠なのではないかと思ったわけです. そして,それがリアルの貨幣と交換されるとなると,それは単に心情的に受け入れているというわけではなくて,なにかリアルとインターネットとをまたぐ存在になっているわけで,その点がインターネットヤミ市に似ているのかなとも思ったわけです.インターネットを受け入れるマインドセットがまずあって,そのあとにリアルとの接点があって,リアルとインターネットとがマインドとブツというな存在と入り交じることになっているのが,ビットコインであり,インターネットヤミ市なのかなと思ったわけです.

memo:CCC gets physical

以前, メディア芸術カレントコンテンツ [ お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_12 ]  で紹介した「 COPIE COPAINS CLUB 」が 「フィジカル」を獲得した とのこのことです.存命中のアーティストの作品をコピーし続けることはネットだから許されているのかなと思ったら, アートフェスティバル での展示を行われることになるとは… ネットに上がっているコピー作品のすべてが展示されるわけのはフィジカルな制約からか,果たしてコピーという行為の制約からなのか.まあ「コピー」というよりも「オマージュ」と言っているから,許されるのかな.このあたりは微妙なバランスにあるのでしょう. このネットの活動がリアル展示を行うとは考えられなかったけど, DIS が2016年のベルリンビエンナーレのキュレーションを担当するとかあるから,時代の流れは「ネット→フィジカル」なのでしょうか.「ネット」で普通に行われていることを「フィジカル」にもってきて,そこでの差異を楽しんだり,そこでの認識の変化を味あうような「 インターネットヤミ市 」的な感覚というのが広まってきているのかもしれない.いや,もともとインターネッツの人たちには広く共有されていた感覚を制度が取り込もうとしているのでしょう.この感覚が制度に消費されていくのか,それとも制度を変えていくのか,このあたりに注目していきたい.

札幌国際芸術祭のメモ:松江泰治とラファエル・ローゼンダール

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札幌国際芸術祭で見た 松江泰治 の作品.高解像度で撮影された街の写真がスクロールしていく様子を見ていて,ラファエル・ローゼンダールの aesthetic echo .com を思い出した.ローゼンダールの作品は俯瞰から街を見たものではなかったのだが,スクロールの感じが松江泰治の作品と似ているように思った.ローゼンダールの新作 neo geo city .com は俯瞰から街を捉えてスクロールさせているので,松江作品と本当によく似ている. スクロールの感じが似ている言っても,ひとつは高解像度画像でループの映像もうひとつは解像度にとらわれないベクター画像でランダムに生成されていく映像でスクロールされていく映像は全く異なる.でも,スクロールの感じは似ている.この似ている感じの根底にあるのは何なのかということを考えているのだが,未だによくわからない.「根底につながり」なんてものはないのかもしれないが,そこをつなげて考えたいとさせる「類似」関係がこのふたりの作家の作品にはあるように思われる. Google Earthの俯瞰写真からのMAPへのベクターで描写された地図への切り替えという体験で,松江とローゼンダールの作品のあいだの関係を考えてみると面白いのかもしれない.

Paddles ON! London に関してのいくつかのメモ

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2013年の10月にニューヨークで開催されたデジタルアートのオークション「 Paddles ON! 」が,今度はロンドンで開催される.23作品が出品されている.出品作品をざっとながめると「絵画」が多い.絵画といってもデジタルペイントが多いが,そのなかには Jeanette Hayes《Press ESC to Escape》2013 のような油絵具を使ったものもある.この作品が象徴的なのだが,今回のオークションで取り扱っているのは「デジタル」の作品ではなく,「『デジタル』『インターネット』を通過した後」の作品であるため,その表現媒体に必ずしも「コンピュータ」を用いているわけではない. JEANETTE HAYES Press ESC to Escape, 2013 Lot Number 12 Oil on chromogenic print on canvas 77.5 x 94 cm (30.51 x 37.01 in) Courtesy of the artist Estimate £1,000 - £1,000 特別な絵画手法でデジタルな題材を描いて,インクジェットように見えながらよく見ると絵画といった作品をつくる Michael Staniak は自らのことを「ポスト・インターネットアーティスト」だと見なしている.「ポスト・インターネット」という言葉は多く使われてきたが,アーティスト自身が自らを「ポスト・インターネットアーティスト」と呼ぶことに,この言葉が使い古されたものになったことを強く印象づけられた. MICHAEL STANIAK IMG_885 (holographic), 2014 Lot Number 7 Casting compound and acrylic on board with steel frame 121.2 x 91.2 cm (47.72 x 35.91 in) Courtesy of Steve Turner Contemporary Signed on the reverse Estimate £3,500 - £4,750 今回の出品作品では,Yung Jakeによる「カーソル」の映像作品《 Squiggle 》2014とYuri ...