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3月, 2018の投稿を表示しています

モノのフラットデザイン化とアフォーダンスなきサーフェイス

モノからインターフェイスがなくなるということはどういうことなのだろうか.もともとはモノに「インターフェイス」はなくて,必然的な形態がそこにあるだけであった.けれど,コンピュータによって,ハードウェアとソフトウェアとが分離して,そこにインターフェイスが生まれた.いや,「ボタン」が生まれたときにインターフェイスが生まれたとしたほうがいいのかもしれない.サーフェイスが機能と直結しなくなったときに,インターフェイスが生まれたということかもしれない. インターフェイスはサーフェイスに張り付いていた.exUIはサーフェイスからインターフェイスを剥ぎ取り,もともとあったボタンも剥ぎ取る.ピアノから鍵盤を引き離してしまうものだろうか.ピアノはまた違う問題かもしれない.いや,音が出る四角い箱があって,スマートフォンにインターフェイスとしてピアノの鍵盤が表示されて,それをタッチする,箱からピアノの音が聞こえてくるとき,四角い箱が「ピアノ」となる.このように考えると,exUIはハードウェアからインターフェイスを引き離すだけではなくて,スマートフォンというハードウェアとソフトウェアとが一体化したモノから,ハードウェアを引き離したものとも言えるのではないだろうか. スマートフォンが一枚の板としてハードウェアとソフトウェアとを一体化したモノとしてのインターフェイスを提供していた.exUIはスマートフォンからハードウェアを引き離し,モノのハードウェアに引き渡す.そのとき,モノはインターフェイスをスマートフォンに引き渡す.モノはサーフェイスを持つようになり,スマートフォンはインターフェイスを持ち続ける.このとき,スマートフォン自体はほとんど変わりないが,サーフェイス化したモノは,これまでの機能と直結した形から切り離される.この機能と形との切り離しは,スマートフォンがフラットデザインになったときに起こったことだといえる.そのときに「メタファー」がスマートフォンから消えたとすると,exUIを付与されたモノもまた「メタファー 」のあるなしで 語られるなるようなあたらしさを示すことになるだろう.このように考えてみるとexUIというのは,モノのフラットデザイン化であり,それはアフォーダンスを示さないサーフェイスをつくるということなのではないだろうか. exUIはモノからインターフェ

Houxo Que「apple」から考えた_サーフェイスとその内部である「バルク」

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Houxo Que「apple」での作品群は,サーフェイスとその内部である「バルク」で考えてみると,ディスプレイ=「窓/鏡」というメタファーを更新できるのではないだろうか.「バルク」というのは物質の内部のことである. 表面と内部の違いをとりわけはっきりさせたい時,表面に対して内部を“バルク”と呼び,表面に対する内部の特性をバルク特性と呼んで区別する.バルクとは“全体”という意味である.p.11    表面と界面の不思議,丸井智敬・井上雅雄・村田逞詮・桜田司   「apple」の作品群は,鏡や窓といった「インターフェイス」としてではなく,バルクという物質本来の性質の部分を覆い,物質に異なる性質をもたらす「サーフェイス」としてiPhoneやiPadを考えるきっかけを提示している. しかし,appleデバイスが常にバルクに連なるサーフェイスとなっているわけではない.フロントカメラで捉えた映像ではなく,ホーム画面になっているとき,そこには「壁紙」と「アイコン」が重なり合ったインターフェイスとなっている.ここでは,蛍光塗料はインターフェイスに重ねられた異物として存在し,こちらと向こうとを分けるガラスの存在を示している. フロントカメラで捉えた映像がディスプレイに投影されると, appleデバイスのガラスに塗られた蛍光塗料は, 「16,777,216view」シリーズ で ディスプレイに塗られた塗料とは異なる性質を示すようになる.なぜなら, appleデバイスが形成する バルクのなかに物理世界が吸収されていき,その最前面に蛍光塗料が塗られたサーフェイスが生じるからである.そこで, 私たちはサーフェイスしか見ていないような感じであるが,全てはバルクへと取り込まれていく.私たちは 「16,777,216view」シリーズのように塗料とガラスとがつくる表面を注視することができなくなる. ガラス面に付けられた塗料がサーフェイスを強調するけれども,この塗料があるからこそ,サーフェイスがバルクに続いていることが際立ち,内部へと視線が吸収されていく. バルクに吸収された私たちは塗料によって,そのままのかたちで現れることができなくなっている.私たちが向こうにいくことをガラスが阻んでいるのではなく,私たちはガラスと塗料によるサーフェイ

The SINE WAVE ORCHESTRA の《A WAVE》を改めて考える

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追記:2018年3月24日 17:00 2018年3月23日(金)19:00 「いつか音楽と呼ばれるもの」のその後 ーー作品、作家性、聴衆ーー ゲスト:城一裕 聞き手:水野勝仁,松谷容作 主催:ポストインターネットにおける視聴覚表現の作者性にかんする批判的考察 配信第二回はSine Wave Orchestraの《A Wave》(2017)を中心に,10年前に語られた「いつか音楽と呼ばれるもの」のその後の展開について考える. ———————————————————————————————————————— 城一裕さんを迎えてのPoi vol.3 のために, The SINE WAVE ORCHESTRA  の《A WAVE》を改めて考える.私はこの作品を一度レビューで取り上げて,次のように書いている. 《A Wave》の視界を覆い尽くす巨大なスクリーンは物理的なフィルターを兼ねており,そこでまず膨大なデータが物理的に濾過されていく.次に,濾過によって意味が発生する手前の状態になったデータがスクリーン表面に滲み出していき,コンピュータの記号操作ではつくりださせない物理的肌理をもつ映像が生まれる.最後に,スクリーン上でデータと映像と物理的肌理とが重なり合い,模様のような不明瞭な映像とともに映像にすべてを変換しえない膨大なデータの気配が物理世界に漂い出す.SWOは《A Wave》で,巨大なスクリーンという物理的な膜を基軸にしたシステムを通して,普段は明確に分けられているデータと映像と物理世界とが重なり合って存在するアモルフな状況をつくっているのである.  水野勝仁「 あらゆる世界が重なり合う世界」  in  YCAM YEARBOOK 2017-18 レビューのタイトル「あらゆる世界が重なり合う世界」が示しているように,このときは,データ,映像が示す仮想世界と物理世界とが重なり合っていって,そのあいだの「インターフェイス」のあり方を,二つ異なる世界を向かい合わせるものではなく,重ね合わせるものとして考えるといいのではないかと考えていた. リアプロジェクション方式を採用した《A WAVE》は,プロジェクターからの光がスクリーンという物理的フィルターに「濾過」され

『メディア・アート原論』への寄稿

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久保田晃弘さんと畠中実さん編の『 メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか? 』の 21世紀のメディア・アートを考えるための9つのキーワード のうち「インターフェイス」と「イメージ・オブジェクト」の項を執筆しました✍️ 以前から, 「インターフェイス」と「イメージ・オブジェクト」については至る所で書いていますが,今回内容的にアップデートができたと思うので,読んでいただけるとうれしいです🙏 以下,目次です.まだ,私も全てを読んでいないのですが,興味深い目次です.私としては,「メディアとオブジェクト」「支持体としての芸術」,そして,「 短いコードを擁護する In Defence of the Short Code 」が気になっています.さらに,Poi で一緒の 増田展大さんのテキストにも注目です.ぜひ,手にとって,読んでみてください😊 — 『メディア・アート原論 あなたは、いったい何を探し求めているのか?』久保田晃弘・畠中実編 Introduction メディア・アートとはどのような芸術か───アート,テクノロジー,サイエンスの諸相 畠中実 8 Discussion 1 「ニューメディア」アートの時代(2008年まで) 久保田晃弘+畠中実 17 メディアアートという言葉 はじめにデータありき 18 メディアアートの時代精神 24 メディア論の役割 28 作品の優劣を超えて なぜ「原論」なのか 36 ネット・アートの重要性 46 最先端という保守 51 もうヒーローは要らない 55 Discussion 2 ポスト「インターネット」アートへ(2008-2018年) 「どこでもインターネット」時代のメディア・アート 久保田晃弘+畠中実 69 ポストインターネット状況 2007年に何が起こったのか 70 メディア論のアップデート 75 メディアのテトラッド 80 知能というメディア 86 メディアとオブジェクト 展開された場における支持体 89 鑑賞者中心主義 96 ポストインターネットと教育 99 Discussion 3 ニュー「メディア・アート」(2018年から)「類推の山」をめざして 久保田晃弘+畠中実 69 リ

恵比寿映像祭レビュー_触れ合うことがつくる不可視な場

第10回 恵比寿映像祭 「Mapping the Invisible[インヴィジブル]」のレビュー「 触れ合うことがつくる不可視な場 」を書きました. このレビューは,展示冒頭のラファエル・ローゼンダールのレンチキュラーの作品からポール・シャリッツ《Shutter Interface》への流れが興味深いと考え,それがなぜなのかを永田康祐の《Sierra》が示す「インターフェイスの可触性」という観点から考えたものです.また,シャリッツの《Shutter Interface》でスツールが映写機とスクリーンを横から見える位置にソファーが置かれていたことも気になっていて,そこから,コンピュータがもたらしたインターフェイス以前/以後を考えるテキストにもなっていると思います. このテキストを書いているときに公開された長谷川新による「 ヴィジブルなものたち 」では,ローゼンダールからシャリッツへの流れは,私が書いたものとは異なる解釈で書かれています.一つのレビューで明確に見えたものの裏で「インヴィジブル」になったものが,二つのレビューを読んだ人には見えてくるはずです.ぜひ,二つ合わせてお読みください.

メモ:脱着可能なサーフェイスとイメージ/オブジェクト

肝要なのは,全面化されたeコマースにおいては常に「物」(=商品)の「情報」がその“実質”に先行し,そのことで従来であれば自己完結的であるはずの「物」(=商品)が「情報」と“実質”とに乖離と“ブレ”を起こすことである.「物」は「情報」に遅れて遣ってくると言ってもよい.そして「物」(=商品)におけるこうした乖離,“遅延”を埋めるオペレーションこそが顧客の観点からのあるいは情報社会に固有な意味での〈流通〉に他ならない.  〈流通〉の社会哲学 アマゾン・ロジスティック革命の情報社会における意義,大黒岳彦 in 現代思想 2018.3月号 物流スタディーズ 大黒は物を「情報」と「実質」との分離させているけれど,『融けるデザイン』のように物を「情報」と「持続」とに分離させてもいいのかもしれない.どちらにしても,情報が先行していくというのは,「イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト」で「イメージがモノの支持体になる」と書いたことにつながると思う. ヴィアカントの「イメージ・オブジェクト」に代表されるポスト・インターネットではイメージが前面に出ていましたが,徐々にオブジェクトの状態が注目されるようになりました.そして,ポスト・インターネット以降とも言える現在は,シトレイアとトロエメルによる「UV Production House」やエキソニモの《キス,もしくは2台のモニタ》が示すようなイメージに主導されるかたちのあたらしいオブジェクトが現われてきています.それは,イメージの可変性をオブジェクトそのものに適応させて,イメージでオブジェクトを覆ってしまう試みなのです.  イメージ主導で生まれるあたらしいオブジェクト 先行するイメージに覆われるようなかたちでオブジェクトを作成すること.物=オブジェクトの情報=表面は先行して作成される.それに合わせて,オブジェクトが持続するようにつくられる.イメージとオブジェクトとが一度分離している.そして,分離したブレを吸収するかたちで,イメージに合わせてオブジェクトを制作する.しかし,Amazonなどのeコマースでイメージとオブジェクトとが一度分離しているならば,イメージを分離したままのオブジェクトも存在できるようになるだろう.そして,乖離したブレを情報に担わせたままインターフェイス化したのが exUI ではない

紀要論文「ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界」

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紀要論文「ポストインターネットにおいて,否応なしに重なり合っていく世界」が掲載された「甲南女子大学研究紀要第54号 文学・文化編」が刊行されました. 紀要論文の英文アブストのためにGoogle翻訳用に書いた日本語です. この論文の目的は,インターネットの接続が常態化したポストインターネット時代の身体と世界との関係を考察することである.そのために,まずは,インターネットへのゲートウェイとして機能しているデスクトップがつくる「デスクトップ的リアリズム」を考える.「デスクトップ的リアリズム」の根幹にあるのは,重なるウィンドウを操作する体験である.コンピュータ科学者のアラン・ケイが実装した重なるウィンドウは,一つの画面にできるだけの多くの画像を配置し,それらを操作するために生まれたものである.それは,一つの画像を受動的に見るという絵画や映画とは異なり,画像の前の身体に能動的な行為を求めるものとなっている.また,重なるウィンドウがつくる多重平面的な画面構成は,二つの眼のための装置であるステレオスコープがつくる遠近法によって統合されない無秩序的な画面と類似している.重なるウィンドウとステレオスコープはともにヒトの二つの眼が元来持っている層状の知覚を活かすものとなっている.デスクトップで作業するヒトは多重平面的な層状の知覚と遠近法的な立体的知覚とが否応なく重なり合う体験をすることになる.この二つのシステムが重なり合うという現象が,デスクトップ的リアリズムの基底にあるものである.デスクトップは身体を,単眼が示した統合された世界ではなく,ステレオスコープを覗き込む二つ眼が示したようにあらゆる存在が否応なしに重なり合う世界に置くのである.     英語のタイトルとアブストラクトです. An inevitably overlapping world in the Post Internet era   The purpose of this paper is to consider the relationship between the body and the world in the Post Internet era where the connection of the Internet became normal. First