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12月, 2014の投稿を表示しています

2014年の振り返り

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2014年にはこの投稿を含めて76本の記事を書いています.2013年が95本だったから,結構減ってしまいました.それは4月から甲南女子大学文学部メディア表現学科で働くようになったからもしれないし,単に怠けていただけかもしれません. 今年1番の研究上の出来事は,11月にドバイに行ってISEA2014に参加して「インターネットヤミ市」について発表してきたことです.アートの世界には「ポスト・インターネット」といって「リアル」と「インターネット」とが重なり合う部分にあたらしい価値を見出そうとするムーブメントがあるのですが,「重なり合っている部分」だけに注目するだけいいの? というのは「インターネットヤミ市」の考察を通じて言いたかったことです.重なり合っている部分はもちろん重要だけれども,その重なっている部分の「インターネット」はだいぶ「リアル」に侵食されてきているインターネットでもあります.DISはリアルの侵食を「インターネット」から押し返しているのですが,IDPWは「リアル」と「インターネット」との重なりの外にある「インターネット」をリアルに落としこんできて「インターネット的」な感覚をつくっているところが面白い,というような発表をしました. これからどうなるのかわかりませんが,DMM.makeで「 インターネット・リアリティ・マッピング 」という連載をしました.JODI,エキソニモ,ライダー・リップスの分析をこれまでしてきました. また,今年度もメディア芸術カレントコンテンツで月1くらいのペースでメディアアートの紹介してきました. [2013年度] 「インターネット・カルチャー」を特集した「MASSAGE」の第9号が刊行 (1月15日更新) ロッテルダムのMAMAがラファエル・ローゼンダール氏によるJODIの解説ページを開設 (2月12日更新) Googleの新プロジェクト「Tango」と、Holly HernDon氏と谷口暁彦氏によるミュージック・ビデオ「Chorus」に見る「3Dモデリングという表現」の可能性 (3月12日更新) [2014年度] カオス*ラウンジによる展覧会「LITTLE AKIHABARA MARKET」が開催 (5月28日更新) スロベニアのリュブリャナ市民ギャラリーで「net.art Painter

メモ:Spiritual Computing,回路,ヒトの最後/最期の行為の記録

エキソニモの《Spiritual Computing a.k.a. ゴットは、存在する。》シリーズを「ヒトの最後/最期の行為の記録」として位置づけてみたい.ダグラス・エンゲルバートによってヒトとコンピュータとが共進化していく場として「インターフェイス」が設定されていたけれど,ヒトの進化が遅く共進化は遅々として進まない.インターフェイスは「共進化の場」ではなく,ヒトとコンピュータとを取り込んだより大きな存在を構成する「回路」だと考えた方がいい.ヒトはコンピュータの登場によって,コンピュータとともに「回路」を構成するスイッチになっていたことに,エキソニモの《Spiritual Computing》は気づかせてくれる.そして,エキソニモの作品を考えることは,ヒト中心主義から脱却した「Spiritual Computing」を現われを示すことにつながる. 「インターフェイス」を共進化の場として捉えると,そこではヒトはまだヒトであり,コンピュータはまだコンピュータであって,それぞれが各個機能していると考えられる.ヒトはコンピュータに指を置きながら,コンピュータを操作していると思っていたし,コンピュータはヒトから情報入力を受付け,演算処理をして出力していた.けれど,それは「コンピュータの操作」ではなく,ヒトがコンピュータに指を置くことで自分でない,そしてコンピュータでもない,より大きな存在の「回路」を構成するスイッチになることであった. エキソニモはインターフェイスという「回路」からヒトを取り去ってしまった.インターフェイスからヒトが取り除かれたけれど,コンピュータは動いた.エキソニモは《Spiritual Computing》シリーズで,ヒトがいなくなってもコンピュータが作動し続ける「B面の世界」を提示した.ヒトがいなくなってもコンピュータが動くが,インターフェイスはヒトに合わせてつくってあるので,ヒトの行為の痕跡がインターフェイスを組み合わせた作品には残り続ける.コンピュータと共進化していく存在だと思い込んでいたヒトが消滅する前の「最後/最期の行為」が,ヒトの不在によって鮮明に浮かび上がる.ヒトの痕跡を残しつつ,コンピュータ自体はヒトの不在に関係なくこれまで通り回路の一部を構成するスイッチとしてオン・オフを繰り返し,情報をつくり続ける.

回路

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ヒトとコンピュータとがひとつの回路になったあとで,ヒトはどこにいるのだろうか? コンピュータはどこにいるのだろうか? ヒトとコンピュータの回路は,ヒトとコンピュータとの共進化を止めるというか,このふたつがひとつの存在になるということ.誰のための存在なのか? 「神」をここにもってこないかぎりは,その回路が何のために,誰のためにということはわからない.そもそも「何かのために」回路ができあがるのではないかもしれない.ヒトが回路のなかに入ることは悲観することではなくて,これまでとは異なる思考を見つけることだから,興味深いこと.今までの考えから,あらたしい考え方,思考に移行すること.でも,そこで,これまでの「言語」を使っていていいのか.もちろん,これまで考えられてきた言語の思想を捨てることはできないだろうけれど,それが「レガシー」になって,ヒトとコンピュータの回路としての思考の足を引っ張ることもあるではないだろうか.そうだとしても,ヒトは「言語」を使い続ける.そして,これまでの「レガシー」を引用し続ける.それがコンピュータ以前の思考であったとしても引用し続ける.その思想がコンピュータを生み出したとも言えるけれども,だったら,コンピュータを生み出した人の思想を引用するべきではないだろうか.これまでの「思想」を壊したあとに,また「思想」を語ることを考える. -- エキソニモの「スピリチュアル・コンピューティング」からKevin Bewersdorfの「Spirit Surfing」にとんで,上のGIFに至った.ヒトとコンピュータとがひとつの回路になっている.上の画像だと,ヒトとコンピュータが一組になって,その先にもう一組のヒトとコンピュータがあるけれども,もう一組のところに必ずしもヒトがいなくてもいい.ヒトとコンピュータとのインターフェイスではなくて,ヒトとコンピュータとを含んだひとつの回路と考えること.変化のなかのヒトとコンピュータと考えること.モノではなくて変化であって,それは「神」ではないけれども,大きな回路のなかに入ること.そんな感覚が「スピリチュアル」で,「インターフェイス」という言葉でヒトとコンピュータとは向い合ってきたが,そのあいだにヒトとコンピュータとのあいだにはこのふたつの存在を含んだより大きな回路ができあがりつつある.というか,もともと回路はあ

TumblrとInstagramは粒度を膨張させることなく,たんたんと同じような粒度の情報が続いていく

授業でInstagramについて考えた.あと,Tumblrについても考えた.これらふたつのサービスは,そのタイムライン・ダッシュボードに現われる情報の「粒度」[ プログラマーの東窪さんのTumblr論から ]が大きくも小さくもならないで,一定のまま回っていく画像中心のコミュニケーションと考えられる. オリジナルポストをする,Web的に外からSoTする.自分でカメラでとった写真をポストする(空間から選択して切り取った後のものである).人の画像をreblogする.人のテキストをdsbdからreblogする.dsbdから人のテキストの断片を選択してquote的reblogする,webから人のテキストの断片をreblogする.urlの粒度でwebからpostする.チャットをリブログする.みんな同じなんだ.これが大事だ.粒度を近づけたんだ.そりゃそうか.すごい.すごい!   I AM GATHERING YOU  http://toukubo.com/post/51198746794 Tumblrは「言語」も扱うけれども,その言語が「画像」の粒度と同じものに変換されている.そこではもう「言語」は言語としての独自の粒度をもっていない.ならば,画像も独自の粒度を保持できてないとも言える.リブログという意味の粒のレールチェンジを簡単に行える行為を実装することで,「言語」「画像」の区別なく,そして時間の区別もないなかで,ただただダッシュボードに逐次的に現われる「データ」が膨張しないようにしているのが,Tumblrなのではないか.逆かもしれない,「リブログ」を実装した結果,ダッシュボードに逐次的に現われる「情報」が膨張しなくなり,「言語」も「画像」の区別もなく「時間」の区別もなく「情報」を同じ粒度で扱えるようになったのかもしれない. では,Instagramはどうか.Instagramは基本「画像」のコミュニケーションであるが,そこには多くのコメントがつけられる.しかし,それらはその「画像」についてのであろうか.確かに,その画像にコメントはつけられる.しかし,それはその「画像」の意味を膨張させたりしない.画像はテキストは別にそこにありつづける.だが,テキストが膨張して,画像を置き去りにするときがある.テキスト主体のコミュニケーションがはじまってしまう.しかし,次の投稿

メモ:インターネットを受け入れるマインドセットがまずあって

ISEA2014の発表の質疑応答で「ビットコイン」の話題になった.どうしてそうなったのかは,アートは現実に追いついていないという文脈だったような気がする.ビットコインをどうアートであつかうのか,あるいはどう考えるのかだったような.それで,ひとりアーティストがビットコインの技術的な話をしていた. 僕はそれを聞きながら,たぶんそんな技術的なことではなくて,ビットコインを受け入れているマインドセットこそ問題にすべきなのではないだろうか,と思った.それはインターネットヤミ市に通じるところなのだが,インターネットを受け入れるというか,インターネットで起きていることを「リアル」と同等に受け入れるマインドがビットコインを受け入れさせているような気がする.ビットコインはネットから出てきて,リアル通貨とも交換できる.そこが面白いところで,もともと貨幣は仮想的なもので,ただそれがリアルで実行力をもつからあたかもリアルに存在しているかのようだけれども,それはたんに紙切れにすぎない.でも,たんに紙切れにすぎないと言えないところが貨幣で,ビットコインも単にデータにすぎないのだけれど,それがたんにデータにすぎないと言えないマインドセットに私たちがなっているところが,インターネットとそれを構成する膨大なコンピュータ群を受け入れている証拠なのではないかと思ったわけです. そして,それがリアルの貨幣と交換されるとなると,それは単に心情的に受け入れているというわけではなくて,なにかリアルとインターネットとをまたぐ存在になっているわけで,その点がインターネットヤミ市に似ているのかなとも思ったわけです.インターネットを受け入れるマインドセットがまずあって,そのあとにリアルとの接点があって,リアルとインターネットとがマインドとブツというな存在と入り交じることになっているのが,ビットコインであり,インターネットヤミ市なのかなと思ったわけです.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_27

記事を書きました→ New Museumのオンラインプロジェクト「Frist Look」で、アマリア・ウルマン氏の《Excellences & Perfections》が公開 大学の一般教養で「インターネットを通して現実をみる」という感じの授業をしているのですが,そこで「Instagram」を取り上げてみました.これまでInstagramに関してはあまり考えたことがなかったのだけれど,Instagramが実現した画像のコミュニケーションは興味深いなと思ってところで,SNSの「アーカイブ」の問題で記事を読んでいたアマリア・ウルマンの《Excellences & Perfections》を思い出しました.この作品はまた画像だからこそ,それもInstagramだからこそ成立するコミュニケーションから生まれた作品だと思います. 授業で取り上げたところ,学生さんの関心も高かったです.彼女たち自身も少なからずウルマンのように演じながら画像をあげているのかもしれませんし,そうしたことを楽しんでいるのかもしれません. 例のごとく長くなってしまったので,僕自身がこの作品をInstagramで見ていった体験を書いたところはカットしたので,ここに置いておきます. 私はこの作品をリアルタイムに体験していないので,「アートだ」という指摘の後に多くのフォロワーがどんな気持ちになったのかわわからない.私自身は「作品」としてウルマン氏のInstagramを眺めていたので,そこで起こっていることはすべてフェイクであることがわかっていた.なので,いつ「これは作品だ」というコメントがつけられるのかを期待していたところもある.Instagramをリアルタイムに見ていた人にとっては,これがアートであろうがなかろうが関係なく「アマリア・ウルマン」という女性,しかも「かわいい」女性を眺めることができればそれで良かったのではないかと,私は考えている.ウルマン氏が言っているように,かわいい女性のパーフェクですばらしい生活とそこから転落していく不幸を見ることはひとつのエンターテイメントだったのだろう.また,《Excellences & Perfections》はパソコンでも見られるのだが,できることならスマートフォンで見ることをお勧めしたい.「スマートフォン」という手のなか