TumblrとInstagramは粒度を膨張させることなく,たんたんと同じような粒度の情報が続いていく

授業でInstagramについて考えた.あと,Tumblrについても考えた.これらふたつのサービスは,そのタイムライン・ダッシュボードに現われる情報の「粒度」[プログラマーの東窪さんのTumblr論から]が大きくも小さくもならないで,一定のまま回っていく画像中心のコミュニケーションと考えられる.

オリジナルポストをする,Web的に外からSoTする.自分でカメラでとった写真をポストする(空間から選択して切り取った後のものである).人の画像をreblogする.人のテキストをdsbdからreblogする.dsbdから人のテキストの断片を選択してquote的reblogする,webから人のテキストの断片をreblogする.urlの粒度でwebからpostする.チャットをリブログする.みんな同じなんだ.これが大事だ.粒度を近づけたんだ.そりゃそうか.すごい.すごい!  
I AM GATHERING YOU http://toukubo.com/post/51198746794

Tumblrは「言語」も扱うけれども,その言語が「画像」の粒度と同じものに変換されている.そこではもう「言語」は言語としての独自の粒度をもっていない.ならば,画像も独自の粒度を保持できてないとも言える.リブログという意味の粒のレールチェンジを簡単に行える行為を実装することで,「言語」「画像」の区別なく,そして時間の区別もないなかで,ただただダッシュボードに逐次的に現われる「データ」が膨張しないようにしているのが,Tumblrなのではないか.逆かもしれない,「リブログ」を実装した結果,ダッシュボードに逐次的に現われる「情報」が膨張しなくなり,「言語」も「画像」の区別もなく「時間」の区別もなく「情報」を同じ粒度で扱えるようになったのかもしれない.

では,Instagramはどうか.Instagramは基本「画像」のコミュニケーションであるが,そこには多くのコメントがつけられる.しかし,それらはその「画像」についてのであろうか.確かに,その画像にコメントはつけられる.しかし,それはその「画像」の意味を膨張させたりしない.画像はテキストは別にそこにありつづける.だが,テキストが膨張して,画像を置き去りにするときがある.テキスト主体のコミュニケーションがはじまってしまう.しかし,次の投稿された画像によって,そのテキストのコミュニケーションがなかったように,またあらたなコミュニケーションがはじめられる.次々に投稿される画像によってタイムラインの粒度は整えられる.

Twitterなどの言語コミュケーションはふとした瞬間に情報の粒度が膨張してしまう.TumblrとInstagramは粒度を膨張させることなく,たんたんと同じような粒度の情報が続いていく.Tumblrではリブログがインターチェンジをつくり,意味の粒は本来とは別の列に加えられることが常である.対して,Instagramの意味の粒はアカウントのタイムラインとハッシュタグの列に現われるだけで,そこからさらに他の列にチェンジしていくことはない.

エキソニモの《#Bction #10F》は,このInstagramの特徴を活かしている.《#Bctino #10F》はInstagramの「#Bction」の列にある画像主を重ねる.重ねられても画像の粒度は同じまま,もともとのハッシュタグの列に入れられる.そして,その重ねられた画像にさらに画像が重ねられる.Instagramのなかで画像はいくら重ねられても意味が膨張することなく,列のなかにあるひとつの意味の粒として現れる.ときには,「#Bction」とは関係ない画像が重ねられるが,それは他の#Bctionの画像,《#Bction #10F》で重ねられた画像と同じ扱いでひとつの列のなかに入れられる.その後,《#Bction #10F》でさらに画像が重ねられるとその画像は再帰的に扱われる.その画像を誰かがTumblrでリブログしたら,その画像はInstagram内の再帰から外れ,別の列に同じ「粒度」で現れていく.

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

始点と終点とを決めるという単純な規則に基づいた単純な行為

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

画面分割と認知に関するメモ

カーソルについて何か考えたこと,または,エキソニモの《断末魔ウス》《ゴットは、存在する。》の感想

モノのフラットデザイン化とアフォーダンスなきサーフェイス

矢印の自立