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2010年の簡単なまとめと,2011年へ

2010年は,「カーソル」の研究からはじまって,それがエキソニモさんのカーソルを使った作品《断末魔ウス》と《↑》への論考につながった. エキソニモ論文 と同時に,藤幡正樹さんの作品における「薄さ」を考える論文を書いていた(エキソニモ論文は無事刊行され,藤幡論文は今印刷中).幸い,このふたつ論文は査読を通った.このふたつの論考を足がかりに,これまで研究してきたユーザ・インターフェイスから,メディアアートへと研究の幅を広げていきたい.もともとはメディアアートの研究をしていて,そこからユーザ・インターフェイスへと向かったので,やっと元に戻ったとも言える. 論文以外では,「 間主観的な映像 」というタイトルで学会発表を行った.ドナルド・ディヴィッドソンの「三角測量」という考えを使って,映像を理解していこうという試みでしたが,まだまだこちらの方は考えがまとまっていない.しかし,ディヴィッドソンの考えは,メディアアートとユーザ・インターフェイスでなぜ,ヒトとコンピュータとのあいだにコミュニケーションが生じるのかを考えるうえで重要なのではないかと思っているので,少しずつでも考察を進めていきたい. 2011年は,「情報美学概論」という講義を行うことができるので,メディアアートとユーザ・インターフェイスとをパラレルに扱いながら,ヒトとコンピュータとのあいだの「美学」を考えていきたい. また,伏木啓さんの 《Fragmentation》への論考 を書きながら,ショットを繋げていく映像と固定ショットにおいて選択範囲を作りそこだけの時間・空間の在り方を変える映像との違いを考えた.そこで,前者は平倉圭さんの『 ゴダール的方法 』で極限までに考察されているけれど,後者にはまだまだ「分からない」領域が広がっているような気がした.ユーザ・インターフェイスの映像は,動かない映像の中に次々と選択範囲,もしくはカーソルの「縄張り」の領域をつくっていくものだと考えているので,ここを解明していくことで,固定ショット&選択範囲の映像のことが少し「分かる」のではないかと思っている.あとは,ユーフラテスさんの映像も固定ショット&選択範囲の映像の一種だと思うので,ここもまた,2011年にはじめて行う「映像文化」という講義で考えていきたい.

なぜカーソルにこだわるのか from .review

.review に書きかけの論考から.講義準備やら,査読論文の校正やらで考えが進まないうちに,年末になってしまった……. -- なぜカーソルにこだわるのか。 カーソルもまたアニメーションのキャラクターと同じ二次元の表象である。しかも、コンピュータを使わざるを得なくなっている現在の環境において、もっとも目にする二次元の表象のひとつだと言える。しかし、カーソルと私たちとの関係はこれまでほとんど考えられてこなかった。そして、考えられないまま、カーソルはひっそりとディスプレイ上から消えていくかもしれない状況になってきている。 いつもいつも目にしている表象から、ヒトは少なからず影響を受けているのではないかと言うのが、私の考えである。つまり、カーソルは私たちに何かしらの影響を与えている。しかし、カーソルは物語を持たない。そして、歴史を持たない。それゆえに、考える対象とならない。物語と歴史があれば、ヒトはその対象を考えることができる。しかし、それらがないとヒトはその対象を掴むことができない。対象は、するすると逃げていく。いや、私たちの意識が対象から逃げいく。カーソルは私たちの意識から逃げて行き、そして、何事もなかったのように、ディスプレイからもなくなろうしている。このとてもひっそりとした存在の意味が掴んでみたいのである。そして、カーソルが私たちに与えている影響も考えてみたい。カーソルが絶対的な存在でなくなった今だからこそ、カーソルの存在が相対化され、その存在が意味を掴めるような状況になってきていると、私は考えている。

何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」 【ドラフト】

何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」 3つの映像の「退屈さ」と「心地よさ」 伏木啓の《 Fragmentation 》は,3つの映像から構成される作品である.3つの映像が順番に,2面スクリーンに投影される.2つの映像は,それぞれ新宿駅の交差点と公園の様子を固定ショットで撮影したものである.あと1つの映像は,紅茶を注ぐ白いワンピースの少女を撮影したもので,これはショットが次々と入れ替わる. 新宿駅の交差点と公園の風景を固定ショットで撮影された映像は,2面スクリーンに映し出されていることで,スクリーンの繋ぎ目に生じる時間と空間のズレが興味深いと思うけれど,退屈さを感じる映像である.それはただ新宿駅の交差点と公園をスクリーンに映し出している.しばらく見ていると,少しおかしいことに気付く.それは新宿駅の映像では,スクリーンの左端を横切る電車が全く通りすぎないことであり,公園では誰も乗っていないブランコが延々と揺れていることである.電車とブランコがループしている,ということに気付いたとしても,それが技術的に可能なことはすぐに分かるので,目の前の日常的風景から受ける印象は,やはり退屈なままである. 白いワンピースの少女が,ポットからティーカップへと紅茶を注ぐ映像はとても心地がよい.少女が注ぐ紅茶は,なぜかいつまでも注がれ続ける.紅茶が注がれるあいだ,少女は様々な場所に立つ.2面スクリーンがそれぞれ違うショットを映し出す.少女の全体の姿と注がれる紅茶のアップであったり,少女と観覧車だったりと映す対象は様々であるが,2面にそれぞれ異なるショットが映されることで,映像のあいだに関係が生まれ,そこから心地よいリズムが生まれている. しかし,作品を見ている時と,それについて書いているときとで,3つの映像に対する印象が異なるのである.見ているときは,少女が紅茶を注いでいる映像が心地よく,一番印象的であった.あとの2つは面白いなとは思ったが,退屈さを感じておりあまり印象に残らなかった.けれど,映像について考え始めると,電車とブランコの映像の方が,白いワンピースの少女よりも興味深いのである. 「いまここ」へ集中する矢印 ショットのつながりで作られた映像に,私たちは慣れている.ショットを小刻みに刻んでいけば,「いまここ」は簡単にあいまいになっていく.それ

光とプラスチックと仮現運動(PDF)

学会誌に投稿したがボツになって,細切れにこのブログに挙げていたものを,PDFでひとまとめにしてあげてみる. ゲームについて,映像の仮現運動という現象とコントローラのプラスチックというマテリアルから考えたもの.映像学85号にのっていた岩城覚久さんの「イメージ生成システムとしての映画 ──ベルクソンと知覚のシネマトグラフ的メカニズム──」や,まだ手に入れてもいないけれど,きっと映像を捉えるための新しい方法を提供してくれるだろう,平倉圭さんの『ゴダール的方法』も読んで,もう一度,この問題を考え直したいと思っている. 光とプラスチックと仮現運動:ビデオゲームにおける「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力 ─── 以下,大分長くなってしまった「はじめに」です. はじめに ビデオゲーム1の「パックマン」には、ワープ通路と呼ばれる場所がある。画面右側のワープ通路を端まで行くと、パックマンが一度暗闇に消えて、一呼吸おいて、左側のワープ通路からひょっこり現れる。ワープ通路を通るパックマンの消滅と現れに対して、映像作家の佐藤雅彦は、<ワープ>がどういうことかわかったと書いている。 仮現運動が、例えば猛獣などのが草木に隠れながら素早く移動するときにそれを認知するといった、現実に根ざした生得的能力であるのに対して、<ワープ>を認知する能力は、メディアの発達が目覚めさせた生得的能力なのではないだろうか。われわれがそれをSF小説やSF漫画で知識として知るのは、もちろん《パックマン》よりはるか前のことであろうが、その<ワープ>という表象をわれわれの内部に実際生むこととなったのは、パックマンをはじめてプレイしたときだという人が多いのではないだろうか。もしかして、それ以前のゲームに同様な動きが組み込まれていたとすれば、そのゲームで<ワープ>の表象を初体験した方もいるだろうが、重要なのは、どのゲームで知ったとか、いつ知ったとかいうことではなく、<ワープ>については現実として体験したことがないのにもかかわらず、そのテレビゲームに触れた瞬間に、大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった(=表象した)ということなのである(佐藤 2007:46)。 ここで興味深いのは、佐藤が「テレビゲームに触れた瞬間に」と書いているところである。「パックマン」を含むビデオゲーム

Fragmentation メモ:中心への「↑」とループ|バラバラ|往復の「↑」

イメージ
伏木啓さんの Fragmentation を考えていたときに描いた図. 作品の時間の流れを示そうとしている.中心へと流れ込む時間.これは,フルッサーがテクノイマジネーションでの時間意識といったものに近い.バラバラな時間の向きの中に点線で囲まれた選択範囲があってその中だけ時間がループしたり往復しているのは,テクノイマジネーションの「あと」の時間意識なのではないだろうかと考えている.テクノイマジネーションが歴史の「あと」にあるとすれば,歴史の「あと」にあるテクノイマジネーションではない「もうひとつ」の時間意識.多くの視点をとることがテクノイマジネーションだとすれば,この「もうひとつ」の時間意識もテクノイマジネーションの中にあるものなのか? しかしそれとは異なる感じがする.「もうひとつの」という言葉や,自分が気になっている矢印が示す「その先にあるもの」というのは多様な視点をとることとも違う.そこには,私たちがどうしても「入り込めない」領域があるような気がする.そこに入り込んでしまうと,ループや往復している時間が示す「退屈さ」があるのではないか. ループや往復している時間が「退屈」なのだろうか.それとも,それらの時間に入り込めそうで,入り込めずにバラバラな時間の中にいることが「退屈」なのか.バラバラでもなく,ループしているわけでもなく,かといって時間の中心にいることもない,といった居場所のなさからくる「退屈さ」とも考えられる.時間の中にたしかにいるのだけれど,そこに居場所を定めることができない.居場所がないととすれば,不安になるのではだろうか.しかし,作品を見ているときの感覚は「退屈」であった.居場所がなくなり,時間との関係が切れてしまったことで,すべての対象が自分と関係なくなってしまったことからくる「退屈さ」だったのかもしれない.自分が全く選択されていない.自分が点線で囲まれていないことからくる「退屈さ」.そこで選択範囲が反転して,自分が時間が中心となり「退屈さ」がなくなる.

Fragmentation メモ:「いまここ」へ集中する矢印

カットのつなぎにより物語を作り出す。線形的な物語ではないけれど、カットのつなぎはどうしても物語を作ってしまう。シーンごとの時間の流れの向きは異なり、矢印の向きはバラバラだけれど、それぞれが結びついて重層的な時間の流れを構成する。多くの向きがバラバラの矢印があり、それがいっときひとつの対象にその向きをいっせいに向けられることで、対象に意識が集中する。そのとき、意識はその対象にひとつにのみ向けられる。カットの連続で作られる映像は、矢印がいっせいにひとつの対象に向けられた時だけを切り取って、それを結びつけている。矢印が向けられている対象に位置は毎回異なるかもしれないが、矢印が異なる方向を示していることはない。 2つのスクリーンで構成されていて、それぞれが異なる時間の向きを示しているとしても、最終的には意識の矢印はひとつの時間・空間を指すことになる。最終的には、見ている人の「いまここ」の中に、映像は流れ込んでいく。2つのスクリーンの力をかりて、映像の「いまここ」は重なり合いあいまいになっていくが、見る人の意識の中で、ひとつの「いまここ」を示す矢印が生じることになる。ドイツのメディア学者のヴィレム・フルッサーが示す「いまここ」へと集中する矢印の図のような意識が生じているといえる。その意味で、2つのスクリーンとカットで構成された映像は、フルッサーが「テクノイマジネーション」と呼ぶものを示していると考えられる。線形的ではない意識、多くの視点をもち旋回しながら自分という中心に至る意識としてのテクノイマジネーション。線形的なクライマックスはないが、中心をもつがゆえに盛り上がりを持ってしまう映像。物語を排除した映画のような映像であるが、その構造ゆえに物語を作り出してしまう。

Fragmentation メモ:映像内の選択範囲と世界の複数性

作品を見ている時と、それについて書いているときとで、3つの映像に対する印象が異なる。見ているときは、少女が紅茶を注いでいる映像が一番印象的であった。あとの2つは、面白いなとは思ったが、あまり印象に残らなかった。けれど、映像について考え始めると、あとの2つの方が興味深いのである。 少女が紅茶を注ぐ映像は、カットが次々に切り替わるリズムが心地よいものである。あとの2つはカットが切り替わることはなく固定ショットである。固定ショットの中で、あるひとつの範囲、電車とブランコが延々と動き続けるように加工されている。 カットのつながりで映像を作っていくことに、私たちは慣れている。カットを小刻みに刻んでいけば、「いまここ」は簡単にあいまいになっていく。それが2つのスクリーンで行われれば尚更である。2つのスクリーンでひとつの対象を異なる捉えた映像を同時に流したり、ひとつのスクリーンは対象を映し出し、もうひとつが全く関係ない情景を示したりする。鑑賞者はこれら2つの映像を結びつけていく。2つの映像の関係を作る中で、「いまここ」があいまいになっていく。 しかし、これはみんな知っていることである。どういうことか? カットのつなぎで作られていく映像では、出演者も制作者もいま自分が行っていることが「カット」され断片化されて映像作品となっていくことを知っている。鑑賞者も、予め断片化されることが決まっていたものをつないだ映像を見ていることを知っている。ここではすべてが予め断片化されている。 固定ショットの映像の場合はどうだろうか。固定ショットでは、今回の場合、写っている人たちは自分が映像作品の一部になることも知らない。ただ自分の時間の流れの中にいるだけである。その一部をカメラが捉えている。その意味では、時間の断片化が起こっているとは言えるが、断片化されても時間の向きはその人自身に属している。人に属している時間の向きを変えられないため、固定ショットの映像では、そこに写り込んでいる「電車」と「ブランコ」の時間が断片化される。そのひとつの断片を延々とループするように時間の向きが変えられる。向きが変えられるのは「選択範囲」の中だけであり、選択範囲外には全く影響がない。「選択範囲」だけ、時間の向きが変えられるのである。そして、それ以外の人やものは自分たちが属している時間の向きで存在している。「

Fragmentation のためのメモ:もうひとつの選択範囲

すべてを選択するのではなく、一部を選択すること。選択した一部の範囲をループさせること。そこだけ、時の流れが滞留する。画面の中の人は、誰も気づかない。画面の外で映像を見ている人は気づく。 世界の一部をカメラで切り取った映像は、すでに断片化している。世界を断片化する映像の一部に選択範囲を指定して、そこだけ時の流れる方向を変えて、さらに断片化する。最初の断片化が空間の断片化だとすると、次のものは時間の断片化と呼べるかもしれない。空間を断片化するカメラの存在には、映像内の人々は気づくことができる。しかし、編集上で決定される画面内の選択範囲とそこで施される時間の断片化について、映像の内の人々は知ることができない。 画面の中に滞留する時の流れを作り出すこと。映像を見る人はそこに注目する。なぜなら、時間が滞留しているから。ループする時間に人々は注目する。それは、普段体験することがないから。時は流れるもの。だから、滞留する時間には、人々は注意を向ける。それが操作された時の流れであっても。 滞留した時間に意識がいくほど、今度は普通の時の流れが気になり始める。普通の時の流れが、意識を向けられるもうひとつの時間となる。特別なわけではないが、「もうひとつの」という言葉が与えられることで、普通の時の流れの意味は変化する。選択範囲を一度決めることで、「選択範囲を反転する」という選択肢が生じる。反転した選択範囲は、「すべてを選択」していたときとは異なる意識を見る人に与える。 「多くの」ではなく、「もうひとつの」くらいが丁度いいのかもしれない。人が意識を向けることができるのは、意識を向かう先と、さらに「もうひとつ」くらいなのではないだろうか。意識が向かう先がひとつあり、さらに多くのことを意識することはできない。意識が向かう先のもうひとつ先くらいにしか、人の意識は選択範囲を定めることができないのではないだろうか。

あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──

日本映像学会の学会誌『映像学』85号に「あいだを移行する「↑」──エキソニモ《断末魔ウス》、《↑》におけるカーソルの諸相──」が掲載されました. この論文は「カーソル」の性質を,エキソニモさんの《断末魔ウス》と《↑》から考えたものです. はじめに 本論考が考察の対象とするのは、ユーザ・インターフェイスにおける「カーソル」である。とはいえ一口にカーソルといっても、それは CUI(コマンド・ライン・インターフェイス)にもあり、GUI(グラフィカル・ユーザ・インターフェイス)にもあり、iPad に代表されるタッチ型インターフェイスではその存在が消えかかっているように、その現れ方も一様ではない。そこで本論考はさしあたり、GUI におけるカーソルに焦点を絞る。なぜなら、四半世紀のあいだ、私たちとコンピュータとを結びつけてきたのは GUI だからである。GUI でカーソルは手の「拡張」やマウスの「分身」として機能して、人間とコンピュータというふたつの異なる存在を結びつけてきたと考えられている。しかし、私たちはカーソルのことをどれほど理解しているのであろうか。「拡張」や「分身」という言葉でカーソルを理解したつもりになっているだけではないだろうか。そこで、まず GUI におけるカーソルが曖昧で多くの「わからなさ」を抱えたイメージであることを確認する。そして、カーソルを「中途半端な存在」として受け入れるエキソニモによるふたつの作品、《断末魔ウス》(2007)と《↑》(2010)を論じる。この作品の考察から、カーソルが現実世界と仮想世界との「あいだ」を作り出し、その「あいだ」を移行していく存在であることを明らかにする。  興味ありましたら,本当は学会誌を手に入れて読んで頂きたいのですが,普通の書店で売っていないものなので,ドラフトを ここ においておきます.ドラフトなので,『映像学』に掲載されているものと若干異なります.もし引用される場合は,『映像学』を参照ください.『映像学』が手に入りづらい方はご連絡ください.

Fragmentation:断片と矢印

断片に「意味」を与える矢印。 ←→↑→↓↑ 左右上右下上、ではない。 矢印の先への意識。 矢印の先の先への意識。 「矢印の先の先」は、そこには見えないかもしれないし、見えているかもしれない。どちらでも関係ない。 ただ「矢印」があり、「矢印」には「矢印の先」があり、「矢印の先」には、「矢印の先の先」があるだけ。 断片と矢印が組み合わさると、断片は始点・終点になる。矢印は、断片が断片のままであり続けることをできなくする。断片は「何か」になってしまう。にもかかわらず、矢印は、矢印のままである。 そこに矢印はない。そこには、移動し続ける電車、揺れ続けるブランコ、注がれ続ける紅茶しかない。しかし、それらの動きの向きを意識すると、そこに矢印が現れてしまう。それは、どうしようもないこと。