光とプラスチックと仮現運動(PDF)

学会誌に投稿したがボツになって,細切れにこのブログに挙げていたものを,PDFでひとまとめにしてあげてみる.

ゲームについて,映像の仮現運動という現象とコントローラのプラスチックというマテリアルから考えたもの.映像学85号にのっていた岩城覚久さんの「イメージ生成システムとしての映画 ──ベルクソンと知覚のシネマトグラフ的メカニズム──」や,まだ手に入れてもいないけれど,きっと映像を捉えるための新しい方法を提供してくれるだろう,平倉圭さんの『ゴダール的方法』も読んで,もう一度,この問題を考え直したいと思っている.

光とプラスチックと仮現運動:ビデオゲームにおける「ない」けど「ある」という曖昧さを認識できる能力
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以下,大分長くなってしまった「はじめに」です.

はじめに
ビデオゲーム1の「パックマン」には、ワープ通路と呼ばれる場所がある。画面右側のワープ通路を端まで行くと、パックマンが一度暗闇に消えて、一呼吸おいて、左側のワープ通路からひょっこり現れる。ワープ通路を通るパックマンの消滅と現れに対して、映像作家の佐藤雅彦は、<ワープ>がどういうことかわかったと書いている。
仮現運動が、例えば猛獣などのが草木に隠れながら素早く移動するときにそれを認知するといった、現実に根ざした生得的能力であるのに対して、<ワープ>を認知する能力は、メディアの発達が目覚めさせた生得的能力なのではないだろうか。われわれがそれをSF小説やSF漫画で知識として知るのは、もちろん《パックマン》よりはるか前のことであろうが、その<ワープ>という表象をわれわれの内部に実際生むこととなったのは、パックマンをはじめてプレイしたときだという人が多いのではないだろうか。もしかして、それ以前のゲームに同様な動きが組み込まれていたとすれば、そのゲームで<ワープ>の表象を初体験した方もいるだろうが、重要なのは、どのゲームで知ったとか、いつ知ったとかいうことではなく、<ワープ>については現実として体験したことがないのにもかかわらず、そのテレビゲームに触れた瞬間に、大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった(=表象した)ということなのである(佐藤 2007:46)。
ここで興味深いのは、佐藤が「テレビゲームに触れた瞬間に」と書いているところである。「パックマン」を含むビデオゲームは、見るだけではなく、手元のコントローラで画面上のキャラクターを操作できる。レバーを右に左に動かしながら、パックマンを動かす中で、<ワープ>が生じる。この瞬間移動を、パックマンをプレイしている人は、実際に体験したことがないにもかかわらず、なにも考えずに納得してしまう。しかも、それを理解するために言葉は必要なく、私たちの前に、<ワープ>の映像があるただそれだけなのだ。<ワープ>に限らず、私たちはビデオゲームをプレイするときに、現実では起きないことを自分で体験しているような感覚になっている。しかし、このような体験は、ビデオゲームにしか現れないものだろうか。

宇野邦一(2008:180)は、ジル・ドゥルーズの『シネマ2』と向き合う中で書いた『映像身体論』の中で、映像と身体の関わりから生まれる「未生」の概念を提示している。「未生」の概念は、映画をはじめとする新たな映像メディアが「たんに部分的に視覚や聴覚を革新するだけでなく、それらの連結と、他の知覚との新たな結合さえももたらす」(宇野 2008:183)ことから生じる。さらに、宇野は次のように書く。
映像は、多くの場合、何かを伝達し、あるいは物語るという次元で受けとられて消費されるが、同時に映像は、視覚・聴覚、そしてそれらを通じて他の知覚にまで作用し、知覚の構成を決定し変化させる。そのようにして映像は有機的な身体の中に浸透し、別の身体を構成しうる。おそらく機械による映像を経験して一世紀を経た人間の身体は、すでに別のものになっている(宇野 2008:197)。
映画を中心にした論考ではあるが、映像によって身体が以前とは別のものになっているという宇野の指摘は、デジタル以後の映像論が身体を中心に展開されてきたとこととも関係しているだろう。映画だけではなく、現在私たちが目にするビデオゲームやヒューマン・インタフェースなども含めた現代における映像を論じる『映像論序説』の中で、北野圭介(2009:109-187)は映像を巡る身体について詳細な考察を行っている。そこで、彼は、映像を体験する身体に「厚み」と「膨らみ」という言葉を与えている。「厚み」とは、映像に映し出されている身体の痕跡であり、「膨らみ」とは「映像というものをめぐって施された身体の軌跡」を示すとしている(北野 2009:117 [強調は著者による])。

以上のことから、佐藤がパックマンの<ワープ>にみた「メディアの発達が目覚めさせた生得性」とは、映像というものを巡る身体の「膨らみ」の中に生じた、「未生」の概念だと考えられる。それは、ビデオゲームだけに発現するものではなく、映像に向かい合う身体すべてに生じるものだといえる。

だが、ここでは、ビデオゲームにこだわりたい。なぜなら、ビデオゲームは、<ワープ>という現象を「大人でも子どもでも、世界中の人がなんの抵抗もなくわかった」(佐藤 2007:46)ものにしてしまう力を持つからである。<ワープ>を認知すること。ここでは身体の中に新たな認知が生じている。その認知のために、私たちがすることはほとんど何もない。ただゲームをプレイすればいい。映画が私たちの身体を別のものにしてきたように、ビデオゲームも私たちの身体を膨らませ「未生」の概念を発現させている。そして、映画に比べ歴史が浅いビデオゲームだからこそ、 誰もがなんの抵抗もなくわかってしまうような力が、まだ鮮明に残っていると考えられる。それゆえに、新たな生得的能力を発生させる土台に、アクセスすることがまだできるはずである。

パックマンを左に動かしたいと思ったら、コントローラのレバーを左に傾けたり、十字キーの左ボタンを押せばいい。そうすると、パックマンは、左に動く。ただここで注意したいのは、レバーを左に動かしたらパックマンも左に動くが、それは物理的な因果関係ではなく、プログラムを介在した計算の結果にすぎないことである。物理的な世界では、何かを持って、それを左に動かしたら、持っているものも左に動く。見ているもの、触れているもの、身体の動き、そして、それらを統括している意識のすべてが何の問題もなく一緒に作用している。ビデオゲームというコンピュータと電子的ディスプレイによって構成される世界も、物理的世界と同じように私たちの身体に作用するようデザインされている。だから、私たちは、そこで様々な作業ができる。

しかし、そこに感覚を組み換えるひとつの仕掛けがしてある。それが画面の左端から右端へ、右端から左端へと、パックマンが移動する<ワープ>なのだ。映画が現実と同じように見えながら、私たちの視覚と聴覚に対して働きかけ、五感の構成を組み換えていったように、「パックマン」が組み換えようとしている感覚は、ディスプレイに向けられる視覚と、パックマンを動かすためにコントローラに触れている触覚である。ビデオゲームは、視覚と触覚とを新たにつないでいる。けれど、そのつながりをどのように記述すればよいのだろうか。グレゴリー・ベイトソンは、二重記述という方法を示している。ベイトソンは、シェークスピアの『マクベス』から、マクベスが幻影の短剣を見る一幕(本論文の冒頭に掲示)を引用して、次のように書く。
二つ以上の異なった感覚器の集めるデータが組み合わされるときの二重記述のケースは、すべてこの一節に集約される。マクベスはまず、触覚でチェックすることによって、この短剣が幻影に過ぎないことを一応“証明”するが、それでもなお疑いは晴れない。彼の眼が、“他の感覚すべてを凌いでいる”かも知れないからだ。短剣に“血のしたたり”が現われてはじめてマクベスは“こんな剣があるものか”と断定するのである。
一つの感覚による情報と、もう一つ別の感覚による情報とを比較し、それに視覚上の変化を組み合わせることによって、マクベスは自分の経験が幻覚だというメタ情報を得たことになる(ベイトソン 1989=2006:99)。
ベイトソンが示すように、私たちは、ビデオゲームをしているときの二重記述を試みなければならない。ディスプレイに何を見ていて、何を手で触っているのか、まずはこのそれぞれを確かめなければならない。その後、再び、ディスプレイに見ているものを考えることで、私たちがビデオゲームで何を体験しているのかを示すメタ情報を明らかにして、「未生」の概念を発現させる土台にアクセスしていきたい。

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