何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」 【ドラフト】
何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」
3つの映像の「退屈さ」と「心地よさ」
伏木啓の《Fragmentation》は,3つの映像から構成される作品である.3つの映像が順番に,2面スクリーンに投影される.2つの映像は,それぞれ新宿駅の交差点と公園の様子を固定ショットで撮影したものである.あと1つの映像は,紅茶を注ぐ白いワンピースの少女を撮影したもので,これはショットが次々と入れ替わる.
新宿駅の交差点と公園の風景を固定ショットで撮影された映像は,2面スクリーンに映し出されていることで,スクリーンの繋ぎ目に生じる時間と空間のズレが興味深いと思うけれど,退屈さを感じる映像である.それはただ新宿駅の交差点と公園をスクリーンに映し出している.しばらく見ていると,少しおかしいことに気付く.それは新宿駅の映像では,スクリーンの左端を横切る電車が全く通りすぎないことであり,公園では誰も乗っていないブランコが延々と揺れていることである.電車とブランコがループしている,ということに気付いたとしても,それが技術的に可能なことはすぐに分かるので,目の前の日常的風景から受ける印象は,やはり退屈なままである.
白いワンピースの少女が,ポットからティーカップへと紅茶を注ぐ映像はとても心地がよい.少女が注ぐ紅茶は,なぜかいつまでも注がれ続ける.紅茶が注がれるあいだ,少女は様々な場所に立つ.2面スクリーンがそれぞれ違うショットを映し出す.少女の全体の姿と注がれる紅茶のアップであったり,少女と観覧車だったりと映す対象は様々であるが,2面にそれぞれ異なるショットが映されることで,映像のあいだに関係が生まれ,そこから心地よいリズムが生まれている.
しかし,作品を見ている時と,それについて書いているときとで,3つの映像に対する印象が異なるのである.見ているときは,少女が紅茶を注いでいる映像が心地よく,一番印象的であった.あとの2つは面白いなとは思ったが,退屈さを感じておりあまり印象に残らなかった.けれど,映像について考え始めると,電車とブランコの映像の方が,白いワンピースの少女よりも興味深いのである.
「いまここ」へ集中する矢印
ショットのつながりで作られた映像に,私たちは慣れている.ショットを小刻みに刻んでいけば,「いまここ」は簡単にあいまいになっていく.それが2つのスクリーンで行われれば尚更である.2つのスクリーンでひとつの対象を異なるアングルで捉えた映像を同時に流したり,ひとつのスクリーンは対象を映し出し,もうひとつが全く関係ない情景を示したりする.鑑賞者はこれら2つの映像を自由に結びつけていく中で,時に心地よさを感じ,時にわからなさを感じるだろう.
ショットのつなぎで作られていく映像では,出演者も制作者も,いま自分が行っていることがひとつの断片であり,いずれ別の断片とつなげられて映像作品となっていくことを知っている.鑑賞者も,予め断片化されることが決まっていた断片をつないだ映像を見ていることを知っている.ここではすべてが予め断片化されている.
予め断片化された映像が示す「いまここ」は,別の断片とつながれると物語を作り出す.線形的な物語ではないけれど,異なるショットは見る人によって自由に,勝手につなげられ,そこに物語が生じる.ショットごとの「いまここ」の在り方は異なっているにもかかわらず,それぞれが結びつけられて重層的な「いまここ」が構成される.それは,指している方向がバラバラの矢印が多くあり,それらがいっせいにひとつの方向に向けられることで,今までなかった対象が生まれ,それに意識が集中するようなものである.そのとき,意識は矢印の先に生じたひとつの対象にのみ向けられる.映像が2つのスクリーンで構成されていて,それぞれが異なる「いまここ」の向きを示しているとしても,映像は鑑賞者の意識をひとつの時間・空間へと導く矢印を作り出す.最終的に,映像は見ている人を「いまここ」の中に導いていく.「いまここ」に導かれた見る人は,映像が構成する矢印が示す先にある対象となる.
白いワンピースの少女が紅茶を注ぐ映像は,物語を排除した映画のような映像であるが,ショットの切り替えという構造ゆえに,私たち見る人を中心にしてそこに多様な「いまここ」が流れ込んでくるような物語を作り出してしまう.手前に突き出るように設置された2つのスクリーンも,鑑賞者を指し示すひとつの矢印的構造物として機能している.線形的なクライマックスはないが,中心をもつがゆえに盛り上がりを持ってしまう映像.そして,中心に位置するのは鑑賞者であり,そこに映像が示すすべての時間と空間とが流れ込み,滞留する.映像を見る人は,自分の周りに滞留している「いまここ」を自由に結びつけることができる.その自由さゆえに,鑑賞者は滞留する「いまここ」に心地よさを感じる.それは,映像に囲まれて生活する多く人が慣れ親しんでいる「いまここ」の心地よさである.
「いまここ」の複数性とループする矢印
白いワンピースの少女の映像とは異なり,電車とブランコを示す2つ映像はショットが切り替わることはない.固定ショットの中で,あるひとつの範囲に存在する電車とブランコが延々と動き続けるように加工されている.
固定ショットの映像では,そこに写り込んでいる「電車」と「ブランコ」の「いまここ」が断片化される.そのひとつの断片を延々とループするように時の流れの向きが変えられる.向きが変えられるのは「選択範囲」の中だけであり,選択範囲外には全く影響がない.それ以外の人やものは自分たちが属している「いまここ」の向きで存在している.「選択範囲」と「選択範囲外」のあいだには全く干渉がない.異なる世界になっている.映像の中に選択範囲を作ることで,もうひとつの世界が生じる.
すべてを選択するのではなく,一部を選択すること.選択した一部の範囲をループさせること.そこだけに,「いまここ」が滞留する.ここでは2つのスクリーンは何も示すことがない矢印のようなものである.つまり,何も意味を示していない.それはただ意味ありげに,そこにありもしない「いまここ」を鑑賞者の方に指し示しているだけである.
世界の一部をカメラで切り取った映像は,すでに「いまここ」が断片化している.世界を断片化する映像の一部に選択範囲を指定して,そこだけ「いまここ」の在り方を変えて,さらに断片化する.画面の中に滞留する「いまここ」を作り出す.映像を見る人はそこに注目する.なぜなら,通常は過ぎ去っていく「いまここ」が滞留しているからである.ループする「いまここ」に人々は注目する.それは,普段体験することがない「いまここ」の在り方だからである.それゆえに,滞留する「いまここ」に,鑑賞者は注意を向ける.それが技術的に操作されることで生みだされたループという,何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」の在り方であっても.さらに,そのあいまいな「いまここ」の滞留の中心に自分がいなくてもである.このループによる「いまここ」,鑑賞者から映像の中心という位置を奪い取るのである.
ループによって滞留した「いまここ」に意識がいくほど,今度はそれ以外の画面に展開する,見る人と同じ流れていく時間と空間を示す普通の「いまここ」の在り方が気になり始める.普通の「いまここ」の在り方が,意識を向けられるもうひとつの時間と空間となる.特別なわけではないが,「もうひとつの」という言葉が与えられることで,普通の「いまここ」の意味は変化する.なぜなら,選択範囲が一度決まることで,「選択範囲を反転する」という選択肢が生じる.そして,反転された選択範囲は,「すべてを選択」していたときとは異なる意識を見る人に与えるからである.
ここで作品を見ていた時に感じた「退屈さ」を考えたい.ループする「いまここ」の在り方が「退屈」なのだろうか.それとも,ループする時間と空間に入り込めそうで,入り込めずに普通の「いまここ」の中にいることが「退屈」なのか.普通でもなく,ループしているわけでもなく,かといってショットの切り替えから生じる滞留する「いまここ」の中心にいることもない,といった居場所のなさからくる「退屈さ」とも考えられる.自分という「いまここ」の中に確かにいるのだけれど,そこに居場所を定めることができない.作品を見ているときに覚えた「退屈さ」は,居場所がなくなり,映像が構成する「いまここ」との関係が切れてしまったことで,すべての対象が自分と関係なくなってしまったことに起因するのかもしれない.自分が全く選択されていない.自分が点線で囲まれていないことからくる「退屈さ」.この「退屈さ」は,自分の「いまここ」から離れる契機となる「もうひとつのいまここ」を示す.それは新しい「いまここ」の在り方を示しているのかもしれない.
3つの映像の「退屈さ」と「心地よさ」
伏木啓の《Fragmentation》は,3つの映像から構成される作品である.3つの映像が順番に,2面スクリーンに投影される.2つの映像は,それぞれ新宿駅の交差点と公園の様子を固定ショットで撮影したものである.あと1つの映像は,紅茶を注ぐ白いワンピースの少女を撮影したもので,これはショットが次々と入れ替わる.
新宿駅の交差点と公園の風景を固定ショットで撮影された映像は,2面スクリーンに映し出されていることで,スクリーンの繋ぎ目に生じる時間と空間のズレが興味深いと思うけれど,退屈さを感じる映像である.それはただ新宿駅の交差点と公園をスクリーンに映し出している.しばらく見ていると,少しおかしいことに気付く.それは新宿駅の映像では,スクリーンの左端を横切る電車が全く通りすぎないことであり,公園では誰も乗っていないブランコが延々と揺れていることである.電車とブランコがループしている,ということに気付いたとしても,それが技術的に可能なことはすぐに分かるので,目の前の日常的風景から受ける印象は,やはり退屈なままである.
白いワンピースの少女が,ポットからティーカップへと紅茶を注ぐ映像はとても心地がよい.少女が注ぐ紅茶は,なぜかいつまでも注がれ続ける.紅茶が注がれるあいだ,少女は様々な場所に立つ.2面スクリーンがそれぞれ違うショットを映し出す.少女の全体の姿と注がれる紅茶のアップであったり,少女と観覧車だったりと映す対象は様々であるが,2面にそれぞれ異なるショットが映されることで,映像のあいだに関係が生まれ,そこから心地よいリズムが生まれている.
しかし,作品を見ている時と,それについて書いているときとで,3つの映像に対する印象が異なるのである.見ているときは,少女が紅茶を注いでいる映像が心地よく,一番印象的であった.あとの2つは面白いなとは思ったが,退屈さを感じておりあまり印象に残らなかった.けれど,映像について考え始めると,電車とブランコの映像の方が,白いワンピースの少女よりも興味深いのである.
「いまここ」へ集中する矢印
ショットのつながりで作られた映像に,私たちは慣れている.ショットを小刻みに刻んでいけば,「いまここ」は簡単にあいまいになっていく.それが2つのスクリーンで行われれば尚更である.2つのスクリーンでひとつの対象を異なるアングルで捉えた映像を同時に流したり,ひとつのスクリーンは対象を映し出し,もうひとつが全く関係ない情景を示したりする.鑑賞者はこれら2つの映像を自由に結びつけていく中で,時に心地よさを感じ,時にわからなさを感じるだろう.
ショットのつなぎで作られていく映像では,出演者も制作者も,いま自分が行っていることがひとつの断片であり,いずれ別の断片とつなげられて映像作品となっていくことを知っている.鑑賞者も,予め断片化されることが決まっていた断片をつないだ映像を見ていることを知っている.ここではすべてが予め断片化されている.
予め断片化された映像が示す「いまここ」は,別の断片とつながれると物語を作り出す.線形的な物語ではないけれど,異なるショットは見る人によって自由に,勝手につなげられ,そこに物語が生じる.ショットごとの「いまここ」の在り方は異なっているにもかかわらず,それぞれが結びつけられて重層的な「いまここ」が構成される.それは,指している方向がバラバラの矢印が多くあり,それらがいっせいにひとつの方向に向けられることで,今までなかった対象が生まれ,それに意識が集中するようなものである.そのとき,意識は矢印の先に生じたひとつの対象にのみ向けられる.映像が2つのスクリーンで構成されていて,それぞれが異なる「いまここ」の向きを示しているとしても,映像は鑑賞者の意識をひとつの時間・空間へと導く矢印を作り出す.最終的に,映像は見ている人を「いまここ」の中に導いていく.「いまここ」に導かれた見る人は,映像が構成する矢印が示す先にある対象となる.
白いワンピースの少女が紅茶を注ぐ映像は,物語を排除した映画のような映像であるが,ショットの切り替えという構造ゆえに,私たち見る人を中心にしてそこに多様な「いまここ」が流れ込んでくるような物語を作り出してしまう.手前に突き出るように設置された2つのスクリーンも,鑑賞者を指し示すひとつの矢印的構造物として機能している.線形的なクライマックスはないが,中心をもつがゆえに盛り上がりを持ってしまう映像.そして,中心に位置するのは鑑賞者であり,そこに映像が示すすべての時間と空間とが流れ込み,滞留する.映像を見る人は,自分の周りに滞留している「いまここ」を自由に結びつけることができる.その自由さゆえに,鑑賞者は滞留する「いまここ」に心地よさを感じる.それは,映像に囲まれて生活する多く人が慣れ親しんでいる「いまここ」の心地よさである.
「いまここ」の複数性とループする矢印
白いワンピースの少女の映像とは異なり,電車とブランコを示す2つ映像はショットが切り替わることはない.固定ショットの中で,あるひとつの範囲に存在する電車とブランコが延々と動き続けるように加工されている.
固定ショットの映像では,そこに写り込んでいる「電車」と「ブランコ」の「いまここ」が断片化される.そのひとつの断片を延々とループするように時の流れの向きが変えられる.向きが変えられるのは「選択範囲」の中だけであり,選択範囲外には全く影響がない.それ以外の人やものは自分たちが属している「いまここ」の向きで存在している.「選択範囲」と「選択範囲外」のあいだには全く干渉がない.異なる世界になっている.映像の中に選択範囲を作ることで,もうひとつの世界が生じる.
すべてを選択するのではなく,一部を選択すること.選択した一部の範囲をループさせること.そこだけに,「いまここ」が滞留する.ここでは2つのスクリーンは何も示すことがない矢印のようなものである.つまり,何も意味を示していない.それはただ意味ありげに,そこにありもしない「いまここ」を鑑賞者の方に指し示しているだけである.
世界の一部をカメラで切り取った映像は,すでに「いまここ」が断片化している.世界を断片化する映像の一部に選択範囲を指定して,そこだけ「いまここ」の在り方を変えて,さらに断片化する.画面の中に滞留する「いまここ」を作り出す.映像を見る人はそこに注目する.なぜなら,通常は過ぎ去っていく「いまここ」が滞留しているからである.ループする「いまここ」に人々は注目する.それは,普段体験することがない「いまここ」の在り方だからである.それゆえに,滞留する「いまここ」に,鑑賞者は注意を向ける.それが技術的に操作されることで生みだされたループという,何も指さすことがない矢印のようなあいまいな「いまここ」の在り方であっても.さらに,そのあいまいな「いまここ」の滞留の中心に自分がいなくてもである.このループによる「いまここ」,鑑賞者から映像の中心という位置を奪い取るのである.
ループによって滞留した「いまここ」に意識がいくほど,今度はそれ以外の画面に展開する,見る人と同じ流れていく時間と空間を示す普通の「いまここ」の在り方が気になり始める.普通の「いまここ」の在り方が,意識を向けられるもうひとつの時間と空間となる.特別なわけではないが,「もうひとつの」という言葉が与えられることで,普通の「いまここ」の意味は変化する.なぜなら,選択範囲が一度決まることで,「選択範囲を反転する」という選択肢が生じる.そして,反転された選択範囲は,「すべてを選択」していたときとは異なる意識を見る人に与えるからである.
ここで作品を見ていた時に感じた「退屈さ」を考えたい.ループする「いまここ」の在り方が「退屈」なのだろうか.それとも,ループする時間と空間に入り込めそうで,入り込めずに普通の「いまここ」の中にいることが「退屈」なのか.普通でもなく,ループしているわけでもなく,かといってショットの切り替えから生じる滞留する「いまここ」の中心にいることもない,といった居場所のなさからくる「退屈さ」とも考えられる.自分という「いまここ」の中に確かにいるのだけれど,そこに居場所を定めることができない.作品を見ているときに覚えた「退屈さ」は,居場所がなくなり,映像が構成する「いまここ」との関係が切れてしまったことで,すべての対象が自分と関係なくなってしまったことに起因するのかもしれない.自分が全く選択されていない.自分が点線で囲まれていないことからくる「退屈さ」.この「退屈さ」は,自分の「いまここ」から離れる契機となる「もうひとつのいまここ」を示す.それは新しい「いまここ」の在り方を示しているのかもしれない.