Fragmentation メモ:「いまここ」へ集中する矢印

カットのつなぎにより物語を作り出す。線形的な物語ではないけれど、カットのつなぎはどうしても物語を作ってしまう。シーンごとの時間の流れの向きは異なり、矢印の向きはバラバラだけれど、それぞれが結びついて重層的な時間の流れを構成する。多くの向きがバラバラの矢印があり、それがいっときひとつの対象にその向きをいっせいに向けられることで、対象に意識が集中する。そのとき、意識はその対象にひとつにのみ向けられる。カットの連続で作られる映像は、矢印がいっせいにひとつの対象に向けられた時だけを切り取って、それを結びつけている。矢印が向けられている対象に位置は毎回異なるかもしれないが、矢印が異なる方向を示していることはない。

2つのスクリーンで構成されていて、それぞれが異なる時間の向きを示しているとしても、最終的には意識の矢印はひとつの時間・空間を指すことになる。最終的には、見ている人の「いまここ」の中に、映像は流れ込んでいく。2つのスクリーンの力をかりて、映像の「いまここ」は重なり合いあいまいになっていくが、見る人の意識の中で、ひとつの「いまここ」を示す矢印が生じることになる。ドイツのメディア学者のヴィレム・フルッサーが示す「いまここ」へと集中する矢印の図のような意識が生じているといえる。その意味で、2つのスクリーンとカットで構成された映像は、フルッサーが「テクノイマジネーション」と呼ぶものを示していると考えられる。線形的ではない意識、多くの視点をもち旋回しながら自分という中心に至る意識としてのテクノイマジネーション。線形的なクライマックスはないが、中心をもつがゆえに盛り上がりを持ってしまう映像。物語を排除した映画のような映像であるが、その構造ゆえに物語を作り出してしまう。

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