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「エキソニモの『猿へ』」を見てきた(2):見えているからこそ,よりわからない

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「エキソニモの『猿へ』」2回目.「2005」の謎を解明しに行くためにというか,ひっかかりを探しに.あと「2005」セクションでの《断末魔ウス》のあり方を考えてみた. 「2005」セクションにあった《Object-B VS》(2006)[参考: WORLD B / 意識を裏返し、B面をPLAYせよ ]を結構長いあいだやった.銃を撃ちまくって,相手となる(?)転がっているヒトも何度も撃った.撃ちまくっているとスクリーンの向こうにある「オブジェクト」が動きだす.唸りだす.ずっとやっていくなかで感じる気持よさと,銃を撃っていることとオブジェクトの唸りが重なり「あちらの世界」との関係を感じたりする.なんとなく感じる「あちらの世界」.ヒトではないものが存在するあちらの世界.そんなあちらに向かって銃を撃ち続ける.実際の銃は撃ったことはないけれども,ここではあちらに向かって銃を撃ち続けている.と言っても,銃からでてくるのは「弾丸」ではなく,様々なオブジェクトであって,これはこちらの世界では絶対に体験できない. その後,《 DEF-RAG 》(2008)を見続けた.時間操作されたスクリーン.連続して流れる時間から切り離されたコンピュータの時間とそれを映し出す映像.この時間の「切り離し」を強調する時計と時間のズレなど関係なく存在していうような全く動かない自動車の衝突試験用のダミー人形.そして,映像にはかつていた自分が映しだされている.これは「メディアアート」と呼ばれるものにはよくある作品である.では,エキソニモの独自性はどこにあるのか.それは「見せている」ことなのかなと思った.スクリーンの映像をつくりだすコンピュータ,そこから伸びるケーブルの類がすべて隠されていない.コンピュータの基盤までは見えないけれど,ケーブルが見えるだけでも,ここから映像がつくりだされるということが分かるし,電源ケーブルで電気の流れも可視化される.作品を作り出している部分が露わになっており,映像に写り込んでいる.時計の裏を覗くと,時計を動かしている機構も見える.「あちらの世界」をつくりだすものがすべて「こちらの世界」にあることを示す.ケーブルで結ぶばれたかたちで「こちらの世界」にある様々な機械が「あちらの世界」をつくりだす.そして,ダミー人形は全く動かないことで「こちら」と「あちら」の双方の世界に「...

「実写」という見た目を超えて,そこに「演算」を見ようとした

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私は 古館健 さんの《Macro / Dynamics》を おおがきビエンナーレ で見たとき,これはコンピュータによってリアルタイムに生成されていると思っていました.そして次のように書いています. 「ある規則をもとに生成される像」自体にはコンピュータと現実とのあいだに違いはないでしょう.ですが,コンピュータによって生成されたものは,それが何かに似ているとか,見立てられたものであるとかの意味のフックがないかぎり,ヒトにとってまだ「意味」が見出だせない現象なのではないでしょうか. おおがきビエンナーレ 2013:2つの建物と3つの作品 後日,古館さん自身からこの映像が「実写」であるとのリプライを頂きました. @mmmmm_mmmmm 一点。書いていただいたご感想にもう一枚レイヤーをかぶせられる要素としまして、実際にあそこで映写していた映像は実は無加工、無編集の実写の映像なのです。そこからも「コンピュータービジョン」と「現実を観る僕らの目」との相違点/共通点は見えてくる気がしています。 — FURUDATE Ken (@anaggggg) September 26, 2013 とても不思議な感じがしました.「実写」かと見間違えるほどの「CG」は数えきれぬほど見てきましたが,今回はその逆でした.そして,古館さんに以下のように返信しました. @anaggggg 「実写」だったのですね! 「実写」というレイヤーを重ねてあの作品を考えると,見ながら考えていたことがさらに複雑になってきます.コンピュータの「演算」を見ようとしながら,それで納得していたものが,「実写」として提示されていたとなると,→ — mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) September 27, 2013 @anaggggg →「実写」に「演算」を当てはめていたことなり,古館さんが作品に付したテキスト通りに,「実写」と「演算」のもとには「本質的な違いは無い」ということになりますね.「規則」というのがひとつ重要なキーワードになっている感じがします.改めて考えてみたいです! — mizuno masanori (@mmmmm_mmmmm) September 27, 2013 私の眼は見ている映像がCGであるのか,実写...

「私」⇄「あなた」⇒「四人称」

「YouTube」では「私」が「あなた」となり.「Wii」で「私」が複数となって拡張していき「あなた」を呑み込んでいく.コンピュータを介すことによって,「私」と「あなた」の絶え間ない入れ替えが行われていく.さらに考えると,「YouTube」で「You」と呼ばれるのがヒトだとすると,ここでの「I」は,コンピュータによって構築されるシステムということになる.「私」=コンピュータは,いつでも「あなた」=ヒトを受け入れますよという状況が発生している.複数の「私」がシステムである「私」を作り上げ,「あなた」になる.ここでは,今まで確固とした中心であった「私」がひとつの「あなた」になっていると考えられる.そしてまた,個々の「あなた」となったヒトがシステムである「私」を通して,別の誰かと結びつき複数の「私」となり,それが再びシステムを介してその中の「あなた」になるといった感じで,コンピュータを介して,ヒトとの結びつきを繰り返す中で「私」と「あなた」を絶えず行き来して,その領域を拡張しいった結果として,そこには外部がない「四人称」的意識が生じると考えられる.

「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行する『 JunCture 』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました. この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです. はじめに コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。 このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。 藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。 きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。 《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再...

メモ:ヒトの行為は平面に対してのみ行われている

5個の点が,5本の指を表している.この点を操作する指の動きは,iPadのディスプレイのガラスの上で,粘土をこねるような力を加えているようにみえる.ここには,平面と立体とのあいだで生じる移行に関する不思議さがあるように思える. ヒトはディスプレイの中には入り込めない.どうしても,ディスプレイの表面の二次元に留まらざるを得ない.その際に,ヒトは自らの身体の一部を,ディスプレイ上のイメージに置き換える.今回の映像では,5本の指を5つの点に置き換えている.正確には,5つの指の「先」を5つの点に置き換えている.指の「先」だけで「粘土」みたいなイメージを「こねる」.その際に,iPadという平面的なものを傾けたりすることで,ディスプレイ上の立体物のイメージを動かす.平面的なものに触れたり,動かしたりすることで,立体的なイメージを操作する.それが最終的には,3Dプリンターで立体的なものになる. ヒトの指はもともと立体なものだが,それが平面上の点になり,そこでの行為が立体を生み出す.この時,行為の「結果」は平面と立体とのあいだを移行しているが,ヒトの行為は平面に対してのみ行われている.ここに不思議な感覚を覚えるのである.

「次元間移行」に関するメモ

今行っている論文修正で出てきた言葉「次元間移行」.平面と立体とのあいだの「次元間移行」ということとから,出来事の「次元間移行」を考えるべきかもしれない. ディスプレイ行為 は,出来事の「次元間移行」と関係しているのではないだろうか.出来事がディスプレイ上のイメージの次元とモノの次元とのあいだで,なめらかに移行するようになったから,新しい行為が発生した. そして,今までは「次元間移行」の「移行」をカーソルが担ってきた.iPhone ではどうか.カーソルがない.「移行」が起こらない.本当に「移行」は起こっていないのか.本当に「移行」は起こってないような気がする.そこが今までのパソコンとは,全く異なる感じを与えるところなのではないか.「次元間移行」を感じさせないということ.現実と仮想と,モノとイメージとがひと続きになっていること.