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三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(3)_ヒトとコンピュータとの共進化

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三輪さんとのトークとのために自分の立ち位置を確認する必要があるのではないかと思いつつ,なかなかできないでいるのでとりあえずのメモを書く. インターフェイス研究で知ったエンゲルバートのヒトとコンピュータとの「共進化」というのが,僕の基本的的スタンスを決定している.コンピュータという「種」が出てきたことによって,人間が「ヒト」という生物種として進化する可能性がでてきた.もちろんコンピュータがなくても進化するものだけれど,「知的」というか「論理」を扱うもうひとつの種が出てきたことで,それまで唯一の種であったヒトにこれまでとは異なる進化の可能性がでてきたということ. ヒトがコンピュータをつくったと考えるのが普通だが,コンピュータがヒトに自らをつくり出させたと考えても面白いのではないかと思う.現時点ではヒトがコンピュータをつくったということになっているけれども,1000年後には立場が逆になっているのかもしれない.コンピュータがつくられるためにヒトが存在したというふうに. 生物種の「ヒト」ということになると,今朝,エキソニモのセンボーさんが「理解できないほど複雑すぎるものは生物と呼んでいい」という感じのツイートしていて,なるほどと思った.コンピュータが複雑になればなるほどそれは「生物」と見なされる.生物種となったヒトとコンピュータとは共進化していく.インターネットも生態系と呼ばれているから,ここにも生物が生まれている. 昔、EXONEMONSTERとかAnimal Festivalとか作品とかバンドやってた時に考えてたのが、とにかく理解できないくらいに複雑にしていくと、それはもはや生物と同じことなんじゃないかということで。生物と非生物を分けるのは、理解できるか出来ないか、みたいな — センボー (@1000b) October 5, 2013 ICCでEXONEMONSTERを見せてた時に、初めて鈴木健さんと会って、打ち上げでそういう話をして盛り上がった記憶がある。理解できないくらい複雑だったらそれは生物と呼んでもいいって切り口はちょっと面白い。初音ミクとかも、もはや全体像が把握出来なくらい複雑で、それが生物 — センボー (@1000b) October 5, 2013 トークのタイトルにもなっている「コンピュータがもたらした世界」とは,ヒト...

講義ノート:「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」

今年度も東京藝術大学の 芸術情報センター(AMC) で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています. 講義ノート: 「インターネット」をめぐるひとつの「ポスト」 −− 講義後に思ったこと DJプリプリ=金太郎が[インターネット アート これから]展のなかで,もっともポスト・インターネット的な作品ではないのか? アーティ・ヴィアーカントのイメージオブジェクトでの「オブジェクト」は,最小限の意味しかもたないように作られた存在なのではないのか? Google,Facebook,Twitterを考えてから,Tumblrを改めて考察すると何が見えてくるのか?

講義ノート:「ヒューマン」をめぐるひとつの「ポスト」

今年度も東京藝術大学の 芸術情報センター(AMC) で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「ヒューマン」をめぐるひとつの「ポスト」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています. 講義ノート: 「ヒューマン」をめぐるひとつの「ポスト」 −− 講義後に考えたことのメモ マウスとカーソルという組み合わせは,ヒトがコンピュータと触れ合うための「最小限の干渉」なのではないかということ.画面上のある「1点」を指し示すために,手の自由度を制限するのがマウスという道具. そして,「最小限の干渉」というところが, 秋庭史典 さんの『 あたらしい美学をつくる 』にでてくる「ハーネスの思想」と通じるところがあるなと思っています. 一般に, ハーネスということばは,馬の遮眼帯などのように,自然の力をうまく利用して(当の自然に苦痛を与えることなく),人間に有用な流れに自然を導く, という意味があります.(羊の群れを追い込む羊飼いになぞらえて「シェパーディング」,あるいは流れを導くという意味で「ガイダンス」という言葉を使うこともあります.)それは, 最小限の人為(人工物,たとえば遮眼帯)の投入により,自然のシステムを動かし,動き始めた自然のシステムが今度は人工物を含めた自然の全体を動かしていくことを目指したもの なのです.(p.155) マウスとカーソルも最小限の人為によって,ヒトとコンピュータとのあいだの情報の流れを整える.マウスを開発したエンゲルバートは,この干渉をまさに「最小限」のものだと考えていて,更に「干渉」する道具を開発することで,よりヒトとコンピュータとの関係が進化すると考えたけれど,結局,マウスとカーソルの干渉が「最小限」であるがゆえに,エンゲルバートの思惑を超えてしまった. このときにヒトがマウス・カーソルを開発したと言えると同時に,コンピュータがヒトの介入を最小限するにするためにこのモノとイメージとの組み合わせを利用したと考えることができるのではないか. また,「情報の流れ」「最小限の干渉」ということを考えていると,JPEGやGIFなどが作っていた情報の流れに,最小限の干渉として「リブログ」を備えたtumblrが出てきたのではないかとも考えた.これは...

講義ノート:「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」

今年度も東京藝術大学の 芸術情報センター(AMC) で「情報美学概論1」を担当させてもらっています.そこで,《「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」》ということを考えていました.そこで使った「ノート」です.誰でもコメントがつけられるようになっています. 講義ノート: 「ヒトとコンピュータとの関係」をめぐるひとつの「歴史」

イメージという触覚|カフカ『変身』|運動能力_コメント

講義のために,以前書いたテキスト「 イメージという触覚|カフカ『変身』|運動能力 」を自分でコメントをつけながら読むということをした.何もないところから考えるよりも,きっかけがあるほうがやはりはかどります.ちょっと前の自分からほとんど考えが「成長」していないなということもわかってしまいますが… これがその結果(誰でもコメント可になっています) https://docs.google.com/document/d/1qXgtF13a2Un8udYQ173IufvdBtPGyQkMINei7c-ynz8/edit 以下はコメントの抜き出し. 僕たちはもう「100回」もの寝返りをしたのだろうか.試行錯誤の段階を超えたのだろうか.あたらしい身体になることを目指しているのだろうか.記憶の外部化だけではなく,行為の外部化も起きているのではないだろうか.行為を外部化した結果,そこにあるのはグレゴールのような「虫」の身体なのではないだろうか.「虫」は「怪物」と呼ばることになる. −− ここには「コントロールできない身体」がある.長い年月をかけて親しんできた身体を手放した結果が「コントロールできない身体」となる.ラニアーはどんなアバターでもすぐに慣れてしまうということも言っている.どちらなのだろうか. 人というのは,自分とはまったく違う,おかしな体にもすぐに慣れ,その体で仮想世界を楽しめるということがわかったのだ.では,体をどこまでおかしくしたら精神がついてゆけなくなるのだろうか.そう思ったので,手足を大きくしたり変な物を手足にしてみたり,いろいろと実験をしてみた.傑作はバーチャルロブスターだ.ロブスターは体の両脇に三本ずつ,小さな腕を持つ.人間の体にも同じような腕があれば,その動きを測定して制御すればいい.(p.325) 人間はガジェットではない:IT革命の変質とヒトの尊厳に関する提言,シャロン・ラニアー −− ポスト・ヒューマン的な観点だといえる.徐々に進行する行為のポスト・ヒューマン化.では,タッチはどうなのか? 以前から考えているように,タッチはヒトの手のカーソル/マウス化であって,ここでの「タッチ」はヒトに固有のものではない. −− ヒトにない器官への想像力をもつことが重要.自分では理解できない器官,運動能力など「わからない」というところ...

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

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東京藝術大学 芸術情報センター で8月20・21日に開催された公開講座「 グリッチワークショップ 」を見学しました. 「データを壊す」ってどういうことなんだろうと疑問から見学させてもらったのですが,とても興味深い内容でした. ucnv さん, 林洋介さんによるグリッジの技術的な講義と 針谷周作 さんによるグリッチの歴史とその可能性を示す講義といった,グリッチをめぐる技術と概念を端的に学べました.ワークショップ参加者は,技術を学んだあとに,グループごとに作品作りをしていたので,単に見学していた私よりもはるかに深く「グリッチ」のことを理解できたのではないかと思います.制作には参加しませんでしたが,私自身もこれから自分がメディアアートを考える上で役に立つような「グリッチ」という概念を得たような気がします. ここからはワークショップに参加した私の個人的な感想です. ucnv さんがグリッチの定義として「データは壊れているけれども再生できる」と言われていて,ここでの「壊れている」って何だろうと思いました. バイナリエディタで画像ファイルを開くと,その画像を構成しているデータが文字と数字ででてきて,この時点で自分的にはファイルが「壊れている」と感じてしまうわけですが,それは,画像を構成するデータの別の見え方であるわけです.「攻殻機動隊」や「マトリックス」で,緑の文字・数字が画面を覆い尽くすことのイメージや,概念では画像データを文字・数字で示すことは知っていても,バイナリエディタで画像ファイルを開くだけで,それが文字・数字ででてくると,やはりそれまでとは違って,やはりそうだったのかということを感じます.その文字・数字を適当なところで消したり,コピペなどで編集,保存して,その画像ファイルを画像として開くと,画像が変な感じになっている.バイナリエディタでやっていることは,自分の感覚からいうと「編集」という行為ですが,その結果生じた画像は「壊れた」と感じる.「編集」から「破壊」が生じるという変な感覚です.さらに,コンピュータにとっては別にそのデータが「壊れている」というわけではなくて,それをデータ通りに画像として表示しているわけです. 元画像 バイナリエディタで編集 (ちょっとした)グリッチ画像 コンピュータはデータは壊れ...

「情報美学概論A」を終えて

この春から東京藝術大学 情報芸術センター でやっていた「 情報美学概論A 」が終わった.私自身がインターフェイスからメディアアートへと研究の領域を広げようと思っていたところに,藝大のこの講義の非常勤講師の公募があったので申し込み,採用された.とてもいい時期だった.GUIというここ30年使っているインターフェイスと接する中で,ヒトの身体に蓄積されていった感覚がメディアアートに反映さているのではないかという考えから講義を組み立てていった.インターフェイス→メディアアート(もうメディアをとってアートと言ってもいいかもしれないが…)という身体感覚の流れは,学生にとっても新鮮だったようで,これだけでも示せたのは良かったかなと思っている. しかし,である.講義の中盤でインターフェイス→メディアアートという身体感覚の流れの最後に「カーソル」を持ってきて,エキソニモの《断末魔ウス》を例に説明するというところまでは良かったのであるが,その後が問題だった.「インターフェイス|メディアアート」のあいだの身体感覚の往来という軸だけでは「情報美学概論A」という講義を成立させることはできなかった. 軸がなくなった後も講義は続く.その中で徐々に出てきたのが「思考の流れ」という言葉である.「思考の流れ」が出てくる前に,コンピュータの「他者性」を強く主張するコスタス・テルジディスの『 アルゴリズミック・アーキテクチャ 』に出会った.そこには,ヒトの思考の終端からコンピュータとともに思考を始める「人間の思考のサイボーグ化」やコンピュータによるヒトとは全く異なる思考を「allo」と呼ぶことなどが書かれていた.私自身もコンピュータは全くの「他者」で,その「全くの他者」とのあいだにコミュニケーションをどのように成立させてきたのかということを理解したくて,インターフェイスの研究を進めてきた.その際にマウスの発明者であるダグラス・エンゲルバートの思想:ヒトとコンピュータとの身体レベルでの交わりの変化が,徐々にヒトの思考を変えていくことが研究の大きな推進剤となっていた.エンゲルバートの思想とそこから得た自分の研究に,テルジディスの「他者性」及びその思考に対する「allo」という考え方を結びつけることで,ヒトとコンピュータとのあいだの理解が自分のなかで更に進むと思いながら講義を進めていた.そして,...

スライド|情報美学概論A 最終回|終端→

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東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 最終回|「終端→」→ スライド 参考資料 エキソニモ 可能世界空間論:空間の表象の探索,のいくつか ICCのエキソニモとメディアアートへの私見 ssuge さんのツイート 包まれるヒト―“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4) iPhoneアプリ〈arrow to ggg〉 クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》 クワクボリョウタ インタヴュー by 原田優輝 国立国際美術館年間スケジュール「世界制作の方法」 コメントのコメント エキソニモの《↑》は「〈視覚化を拒む理解〉を視覚を通して行っている」と言えるのではないか,今日,歯医者の治療を受けながら考えた.〈視覚化を拒む理解〉というのは講義でも取り上げた保坂和志さんの言葉であるけれども,それは言葉は言葉の流れでしか理解できるものではないというもので,それを「アート」に当てはめることがいいのかどうかはわからないが,なぜかそう思った.コンピュータという「allo」を経由することによって,〈視覚化を拒む理解〉を視覚化することができているのではないだろうか.ヒトではない「視覚」を示すコンピュータ.体験者が見ているものはヒト単体では〈視覚化を拒む理解〉を示すものであるものが,コンピュータとヒトとが複合体となることで,それが「視覚化」された状況として体験することができるようになる.ここには異なる視覚と異なる身体性があるような気がしてならないけれど,それをはっきりと講義では示すことができなかったし,これからもできないかもしれない. 作品は「文脈」から逃れることができないのかもしれない.メディアアートは今まで「メディアアート」であることで「現代美術」の文脈から逃れることができていたのかもしれないが,また,逆に言えば,現代美術が文脈を逃れるために「メディアアート」に近づくこと.この方法も双方の領域が混じり合うことで出来なくなってきている.現代美術という文脈によって作品の価値が決まってしまうゲームの中にメディアアートが混じり合っていくなかで,すべてが文脈によって理解されようとしているのかもしれない.でも,ヒトの理解は文脈だけで決まるものでもないし,コンピュータとい...

スライド|情報美学概論A 第13回|もうひとつの世界

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東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 第13回|もうひとつの世界→ スライド メモ:仮想世界空間とみえないちから 関連するかもしれないテキスト: 「↑」がヒトを試す 参考資料 可能世界空間論:空間の表象の探索,のいくつか ICCメタバースプロジェクト:市川創太×松川昌平[メール対談]「建築とメタバース」 ICCメタバースプロジェクト:池上高志「可能世界としてのメタバース」 みえないちから フォルマント兄弟のお化け屋敷:機械厄除御守 動きが生命をつくる―生命と意識への構成論的アプローチ 藤崎圭一郎さんのツイート1 藤崎圭一郎さんのツイート2 量子の社会哲学 革命は過去を救うと猫が言う 量子力学の反常識と素粒子の自由意志 (岩波科学ライブラリー) 包まれるヒト―“環境”の存在論 (シリーズ ヒトの科学 4) ひとさじの記号論,ジュディ・アニア ICCのエキソニモとメディアアートへの私見 ssuge さんのツイート ssuge さんの tumblr→ sugelog iPhoneアプリ〈arrow to ggg〉 コメントのコメント テクスチャーは身体的で,その働きかけに呼応する言葉は「わかる」.物語は感情的,もしくは論理的で,その働きかけに呼応することは「理解する」.この違いは確かに面白いです.ここには言葉の「決まらなさ」と「精密さ」が出ているような気がします.言葉を書くことは,言葉をつなげていくこと.そのつながりは何も意識していなくても,精密になされているけれど,そこを意識する.つまり,言葉のつながりを意識して書いたときに,それを書く自分の思考も言葉のつながりの精密さに引き寄せられると同時に,それを読む人の思考も言葉によって整序される.(ここで私は「整序」という言葉を使ったが,普段使うことがない,おそらく今まで一度も使ったことがないこの言葉をなぜ,今,ここで使ったのかということはわからない)←このカッコのなかが言葉の「決まらなさ」でもあると思う.他者の書いた言語には,そこに確実に「決まらなさ」があるけれど,自分の書いた言葉にもそこには確実には,自分がすべて決めたとは言い切ればい「決まらなさ」がある.それは言語が「精...

スライド|情報美学概論A 第5回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998-2010

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東京藝術大学 芸術情報センター :情報美学概論A 第5回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998-2010→ スライド ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998−2010 (『 メディアアートの教科書 』の年表をもとに作成) メモ:1998年から2010年のあいだとこれから (講義スライドを作り終えて,まとめ代わりにtwitterでつぶやいて,それをまとめたものです.書いているうちに,311以後を生きる33歳の私にとってのメディアアートについても考えました) 「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相 (私が書いた藤幡さんに関する論文です.興味があったらお読みください:論文の「はじめに」と,最後の方に論文ドラフトへのPDFへのリンクが貼ってあります) 参考資料 書籍 アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか ルソーの時―インタラクティヴィティの美学 Web Designing (ウェブデザイニング) 2010年 07月号 [雑誌] フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた) ICC DOCUMENTS 1997‐2000―NTTインターコミュニケーション・センター活動の軌跡 映像・作品 ベンジャミン・フライ《Valance》 エキソニモ《FragMental Storm》 ラファエル・ロサノ=ヘメル《Body Movies》 01001011101101.org《Life Sharing》 藤幡正樹《Simultaneous Echos》 藤幡正樹《モレルのパノラマ》 ラファエル・ロサノ=ヘメル《アモーダル・サスペンション》 三上晴子&市川創太《Gravicells》 ディヴィデュアル《TypeTrace》 クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》 コメントのコメント 建築でも「見えない空間」≒気配を可視化させることが注目されていることはとても気になります.講義の最後のほうはアルゴリズム建築を実践している柄沢祐輔さんや,今日もとりあげたダブルネガティブ・アーキテクチャの市川創太さんの考えから,新しい空間が「アルゴリズム」や「ログ」から組み立てられていく...

スライド:情報美学概論A 第12回 主観的|間主観的|客観的:人称のゆらぎ

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東京藝術大学  芸術情報センター :情報美学概論A 第12回 主観的|間主観的|客観的:人称のゆらぎ→ スライド 参考資料 クラウド化する世界 アルゴリズミック・アーキテクチュア FORM+CODE -デザイン/アート/建築における、かたちとコード ダブルネガティヴスアーキテクチャー|塵の眼 塵の建築 (現代建築家コンセプト・シリーズ) 市川創太×松川昌平[メール対談] フィロソフィア・ロボティカ ~人間に近づくロボットに近づく人間~ アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか -- 主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待Great Works) 合理性の諸問題 (現代哲学への招待 Great Works) デイヴィドソン ~「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス -- コメントのコメント 「わからない」ことを講義すること.「わからない」ことを「わかりたい」と思うこと.今回の講義は前でしゃべりながら,いろいろと気づくことが多かった.本当はそれを予め理解して,咀嚼して,もっと分かりやすいかたちで提示すべきなのだが,これが今のところ自分の限界である.そして,未だに講義で気づいたことをまとめきれていない. テルジディスが『アルゴリズミック・アーキテクチャ』の中で書いているコンピュータの「他者性」と,それに伴う「思考のサイボーグ化」.そして,サイボーグ化した思考がつくりだすあらたなノーテーションとしての「Super Eye」.ヒトが考えが終わったところからはじまる世界の把握.ヒト中心主義から脱却.これは頭,テキストとしては理解できても,まだ実感として理解出来ない.ここで「身体」をもちだすことが,よくないのかもしれないが,それでも「身体」という言葉をだしてしまうこと. 私はテルジディスとは異なる形で,コンピュータは「全くの他者」だと考えていた.ヒトはコンピュータという「全くの他者」とコミュニケーションをするために,両者が触れ合う部分のインターフェイスの改良を行った.マウスというモノや,メタファーという概念を使って,ヒトの身体をコンピュータの論理に組み込んでいくこと.それは「全くの他者」に「身体」を与えることであったと言える.しかし,である.今,コンピュータに組み込まれた「身体」が...