スライド|情報美学概論A 第5回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998-2010
東京藝術大学 芸術情報センター:情報美学概論A
第5回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998-2010→スライド
ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998−2010
(『メディアアートの教科書 』の年表をもとに作成)
メモ:1998年から2010年のあいだとこれから
(講義スライドを作り終えて,まとめ代わりにtwitterでつぶやいて,それをまとめたものです.書いているうちに,311以後を生きる33歳の私にとってのメディアアートについても考えました)
「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相
(私が書いた藤幡さんに関する論文です.興味があったらお読みください:論文の「はじめに」と,最後の方に論文ドラフトへのPDFへのリンクが貼ってあります)
参考資料
書籍
アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
ルソーの時―インタラクティヴィティの美学
Web Designing (ウェブデザイニング) 2010年 07月号 [雑誌]
フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
ICC DOCUMENTS 1997‐2000―NTTインターコミュニケーション・センター活動の軌跡
映像・作品
ベンジャミン・フライ《Valance》
エキソニモ《FragMental Storm》
ラファエル・ロサノ=ヘメル《Body Movies》
01001011101101.org《Life Sharing》
藤幡正樹《Simultaneous Echos》
藤幡正樹《モレルのパノラマ》
ラファエル・ロサノ=ヘメル《アモーダル・サスペンション》
三上晴子&市川創太《Gravicells》
ディヴィデュアル《TypeTrace》
クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》
コメントのコメント
建築でも「見えない空間」≒気配を可視化させることが注目されていることはとても気になります.講義の最後のほうはアルゴリズム建築を実践している柄沢祐輔さんや,今日もとりあげたダブルネガティブ・アーキテクチャの市川創太さんの考えから,新しい空間が「アルゴリズム」や「ログ」から組み立てられていくことを考えていきたいと思っています.物質的制約が圧倒的に強い建築で,どのように新たな空間を創りだしていくのかはとても興味深いことです.あと建築で考えてみたいのは,最初に「新しい空間」であったものが,もしそれが住宅であったりすると,そこに人が住んで空間に慣れていったときの感覚です.私は何でも「慣れた後」ということに興味があります.最初の驚きを過ぎた後,それが当たり前になったときに,ヒトはそれをどう感じているのか.なぜなら,ヒトは何でも慣れてしまうからです.慣れてしまっても,そこに違和感があるのか,ないとすれば,「新しさ」が持っていた感覚はどのように慣らされていったのか.身体感覚の可塑性みたいな感じです.
映像という言葉が示す範囲は,現在では広げようと思えばどこまでも広がっていくような気がします.それゆえに,今映像を作る人は,自分でどこまでが映像なのかの線引きをしなければならないと思います.私自身は,映画も映像,実験映像ももちろん映像,そして,なによりもインターフェイスも映像だと考えています.
まとめの部分は,これからの講義で深めていければと思っています.
メディアアートが示す多様な感覚の源がどこにあるのかを考えると,それは自分の身体に行き着くと思うのですが,その身体がテクノロジーと複雑に絡み合っているのが「現在」だと思います.そして,身体がテクノロジーと絡みあっていたことは,はるか以前からそうだったと思うのですが,コンピュータを筆頭するデジタル技術の登場によって,この状況がさらに複雑に入り組んでいったと思います.そして今までメディアアートは,その複雑に入り組んだ状態をそっくりそのまま作品として作り上げれば成り立っていたものが,現在では,その結び目を解く必要がでてきていると思います.
Future Cinema のカタログの厚さのドイツと日本の違いは,講義で私が述べたよりも複雑な状況があったみたいです.ですが,やはりあの厚さの差は圧倒的だと思います.それは作家側の問題というよりも,作品を受け止める側,つまり批評家や研究者の問題が大きいかなと思います.作家さんは世界的な人が多数いるのに対して,メディアアートを考えることができる批評家や研究者が日本にはほとんどいないのが現状だと思います.私も頑張らなくてはと思っています.
終えて
「人称」という観点からメディアアートとインターフェイスを考えるとすると,2005年の「Google Earth」と「YouTube」の登場が興味深い.Google Earthは地球を俯瞰する三人称視点から,ストリートビューの一人称視点までをとてもスムーズに移行していく.YouTube は「You」という二人称を掲げている.このあたりをきっかけにさらに考えていきたい.
第5回 ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998-2010→スライド
ユーザ・インターフェイス|メディアアート|インターネットの歴史 1998−2010
(『メディアアートの教科書 』の年表をもとに作成)
メモ:1998年から2010年のあいだとこれから
(講義スライドを作り終えて,まとめ代わりにtwitterでつぶやいて,それをまとめたものです.書いているうちに,311以後を生きる33歳の私にとってのメディアアートについても考えました)
「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相
(私が書いた藤幡さんに関する論文です.興味があったらお読みください:論文の「はじめに」と,最後の方に論文ドラフトへのPDFへのリンクが貼ってあります)
参考資料
書籍
アーキテクチャの生態系――情報環境はいかに設計されてきたか
ルソーの時―インタラクティヴィティの美学
Web Designing (ウェブデザイニング) 2010年 07月号 [雑誌]
フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)
ICC DOCUMENTS 1997‐2000―NTTインターコミュニケーション・センター活動の軌跡
映像・作品
ベンジャミン・フライ《Valance》
エキソニモ《FragMental Storm》
ラファエル・ロサノ=ヘメル《Body Movies》
01001011101101.org《Life Sharing》
藤幡正樹《Simultaneous Echos》
藤幡正樹《モレルのパノラマ》
ラファエル・ロサノ=ヘメル《アモーダル・サスペンション》
三上晴子&市川創太《Gravicells》
ディヴィデュアル《TypeTrace》
クワクボリョウタ《10番目の感傷(点・線・面)》
コメントのコメント
建築でも「見えない空間」≒気配を可視化させることが注目されていることはとても気になります.講義の最後のほうはアルゴリズム建築を実践している柄沢祐輔さんや,今日もとりあげたダブルネガティブ・アーキテクチャの市川創太さんの考えから,新しい空間が「アルゴリズム」や「ログ」から組み立てられていくことを考えていきたいと思っています.物質的制約が圧倒的に強い建築で,どのように新たな空間を創りだしていくのかはとても興味深いことです.あと建築で考えてみたいのは,最初に「新しい空間」であったものが,もしそれが住宅であったりすると,そこに人が住んで空間に慣れていったときの感覚です.私は何でも「慣れた後」ということに興味があります.最初の驚きを過ぎた後,それが当たり前になったときに,ヒトはそれをどう感じているのか.なぜなら,ヒトは何でも慣れてしまうからです.慣れてしまっても,そこに違和感があるのか,ないとすれば,「新しさ」が持っていた感覚はどのように慣らされていったのか.身体感覚の可塑性みたいな感じです.
映像という言葉が示す範囲は,現在では広げようと思えばどこまでも広がっていくような気がします.それゆえに,今映像を作る人は,自分でどこまでが映像なのかの線引きをしなければならないと思います.私自身は,映画も映像,実験映像ももちろん映像,そして,なによりもインターフェイスも映像だと考えています.
まとめの部分は,これからの講義で深めていければと思っています.
メディアアートが示す多様な感覚の源がどこにあるのかを考えると,それは自分の身体に行き着くと思うのですが,その身体がテクノロジーと複雑に絡み合っているのが「現在」だと思います.そして,身体がテクノロジーと絡みあっていたことは,はるか以前からそうだったと思うのですが,コンピュータを筆頭するデジタル技術の登場によって,この状況がさらに複雑に入り組んでいったと思います.そして今までメディアアートは,その複雑に入り組んだ状態をそっくりそのまま作品として作り上げれば成り立っていたものが,現在では,その結び目を解く必要がでてきていると思います.
Future Cinema のカタログの厚さのドイツと日本の違いは,講義で私が述べたよりも複雑な状況があったみたいです.ですが,やはりあの厚さの差は圧倒的だと思います.それは作家側の問題というよりも,作品を受け止める側,つまり批評家や研究者の問題が大きいかなと思います.作家さんは世界的な人が多数いるのに対して,メディアアートを考えることができる批評家や研究者が日本にはほとんどいないのが現状だと思います.私も頑張らなくてはと思っています.
終えて
「人称」という観点からメディアアートとインターフェイスを考えるとすると,2005年の「Google Earth」と「YouTube」の登場が興味深い.Google Earthは地球を俯瞰する三人称視点から,ストリートビューの一人称視点までをとてもスムーズに移行していく.YouTube は「You」という二人称を掲げている.このあたりをきっかけにさらに考えていきたい.