メモ:1998年から2010年のあいだとこれから

1998-2010年のあいだでのインターフェイス|メディアアート|インターネットを考える際に,Googleを中心に置いてみる.Googleが生み出しだ「信仰」は,膨大なデータを扱うことができる.すべてを「データ」としても扱えるということ.

すべてが「データ」としても扱えると信じることで,「情報としての自然」というタイトルの展覧会が開催されたり,プログラムの変更が世界の変更でもあることをしめすようなエキソニモの《FragMental Storm》などが作られてきたのではないだろうか.

そうした中で,2005年にGoogle EarthとYouTubeが出てくる.ひとつはまさに神の視点から地球を眺めるかのような体験を与え,もうひとつは多くの視点が地球をそれぞれの座標から見ているという状態をつくり出した.神の視点と間主観的視点の往来可能性.

ネットアートで扱われていたプライバシーの問題が,Facebookのマーク・ザッカーバーグによって全世界的に実験され始めるようになった.アートではなく,インフラのようになっていっているシステムでのプライバシー実験.ザッカーバーグの信念に基づく実験はアートなのか?

2007年にiPhoneが発表されて「メタファー」に覆われていた仮想世界の世界が「リテラル」なものに移行していった.エキソニモの《断末魔ウス》は「メタファー」から「リテラル」への移行を示すかのように,カーソルというリテラルなインターフェイスの質感を示す.

1998-2010年のあいだのメディアアートは,その前の世代の作品が身体を仮想にフィットさせようとしていたのに対して,身体的・感覚的に現実と仮想とが重ね合わせられている部分における違和感を感じ取ろうとしているように思える.

現実と仮想とが重なりつつ,ぴったりとは一致することがないのは,そこに「不完全」なことがあるからだという意識.「不完全」という言葉,藤幡正樹さん,クワクボリョウタさんが使っている.藤幡さんは「不完全な現実」,クワクボさんは「メディアの不完全さ」.

Googleが完全無欠な神のような存在として君臨した1998年以後に,メディアが「不完全」であると,またマテリアルとしての「インターフェイスの質感」を意識するようになったこと.「完全」では捉えられないはみ出したもの,「みえないちから」とマテリアルへの意識.

ここまでは1998年と2010年のあいだ.そして,今は2011年.3.11以後.何を考えることができるのかは,まだわからない.

ただ1998年から2010年のあいだでメディアアートで起こっていたと思われる「不完全さ」や「インターフェイスの質感」への意識の変化は,3.11以後にとても意味のあるものだと思っている.3.11以後の私,今33歳の私は「違和感」を抱えながら生きると思う.現実の中でも,3.11という日をひとつのインターフェイスとして.そこに「以前|以後」というあいだが生じ,重なりあい,違和感が生じる.だからこそ,メディアを用いたアートが抱える「不完全さ」や「インターフェイスの質感」という意識は大切だし,重要になってくると思う.

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