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2023の投稿を表示しています

2023年の振り返り👀✍️

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2023年はこの投稿を含めて23本の記事を書いています.2022年が9本だったから,結構増えました🥸 ただ,そのうちの10本が Tumblr に書いていた記事を転載したものになります. ちなみに note には26本の記事を書いています.こちらも他のウェブ媒体で書いていた記事の転載とかもあるので,0から今年書いたというテキストは少ないですね.でも,なんであれ合計して49本の記事が書けたのは良いとしましょう. 2023年は2022年にやった授業資料を公開するところから始まりました. メディアアート論(2022年度)の授業資料 メディア映像史 (2022年度水野担当分)の授業資料   2023年度もふたつの授業を担当していますので,また資料をあげたいと思います.メディアアート論は「作家紹介」をする回をつくったので多少は多少はあたらしくなっていると思います. 新年5日から私の担当が始まるメディア映像史は,デジタルオブジェクトを介して「情報体」を体験するという枠組みで書き直しています. 写真ウェブマガジン「iiiiD」に連載していた 「フラットネスをかき混ぜる🌪」の5回目を掲載しました.この後, 「iiiiD」は活動を停止しました.転載の許可をもらったので,テキストを加筆修正しつつnoteにまとめています. 「フラットネスをかき混ぜる🌪(5)認知負荷ゲームとしてのエキソニモ「Sliced (series)」(2) ──《A shot computer keyboard, sliced》から認知プロセスを透かし見る👀」が公開されました  noteのマガジン: フラットネスをかき混ぜる🌪️ アーティストの山形一生さんへのインタビューをもとにした論文「 山形一生へのインタビューとともに考える「デジタルオブジェクトのリアルな感じとその生と死」 」が大学の紀要として出版されました. 紀要論文「山形一生へのインタビューとともに考える「デジタルオブジェクトのリアルな感じとその生と死」」  日本映像学会の学会誌「映像学」に掲載されていた論文が J-Stageに掲載されました. 「映像学」に掲載された論文がJ-Stageに掲載されました👻  紙媒体で残るのもいいけど,思い立ったときに検索してすぐに論文が読めるのはとても大切なことだと私は思っています.その思いもあって,ずっとブログ

ÉKRITS連載_カーソル・ラバーハンド錯覚・スワイプ ── 「画面帰属感」がつくる自己を画面に帰属させたミニマルセルフ - インターフェイスを読む #8

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エクリでの連載「インターフェイスを読む」を更新しました.第8回目のタイトルは「 カーソル・ラバーハンド錯覚・スワイプ ── 「画面帰属感」がつくる自己を画面に帰属させたミニマルセルフ 」となります. 先日参加した, 表象文化論学会オンライン研究フォーラム2023のシンポジウム「皮膚感覚と情動:メディア研究の最前線」 の発表原稿に加筆修正して,エクリに掲載してもらいました.そのため,連載で使ってきた「合生的」という言葉が使われていません.しかし,最後で現れる「画面帰属感」という言葉は,これまで連載で書いてきた「合生的行為」や「合生的出来事」の源にあるit-from-bit,情報主導の世界を紐解く端緒になるかなと思っています. 「合生的行為」や「合生的出来事」は, ヒトが画面に帰属した先に情報への帰属を感じながら,意思と予測情報とが入り混じった感じを抱きながら行う行為であり,その感じとともに現われる出来事なのではないかということです. 科研「 生命と物質に関わる理論的調査と制作実践 」で 「物質としてのインターフェイスの生命化」ということを考えて来たら,物質と生命を統合する情報に帰属するヒトという考えができ来た感じです.

児嶋啓多『ネオ東京 徘徊と書』にテキストを寄稿しました🧐

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児嶋啓多『ネオ東京 徘徊と書』にテキスト「「ニュートラルな空間」で拮抗するぐにゃぐにゃの情報体と四角四面な視界」を寄稿しました✍️ 私はテクノロジーを使うことでヒトが見る以前の世界だったり,ヒトが視界を生み出す以前に「見ている」ものを表現できると考えていて,児嶋さんの試みは私の思考を視覚的に引っ張ってくれるなと思って,テキストを書きました. また,英語の翻訳もしてくれました.英語のタイトルが「Neutral Spaces: Sites of Contention Between our Amorphous Information Gestalt and Rectangular Visual」です.本文で「情報体」という言葉を使っています.翻訳者がその単語の意味を私以上に汲んでくれて,「Information Gestalt 」と訳してくれました. 「情報体」が「Information Gestalt 」となったことで,このテキストは完成したと思います🙏 写真集はこちらで購入できます. Augmented Books👉 https://www.augmentedbooks.jp/ -- 冒頭の2段落です. 「ニュートラルな空間」で拮抗するぐにゃぐにゃの情報体と四角四面な視界 児嶋啓多は『Neo Tokyo』制作のために「体にカメラを取付け徘徊」した.児嶋は歩き続け,カメラは世界を撮影し続けた.このとき,カメラと同じように彼もまた世界を東京の街を見ていたはずである.しかし,カメラが撮影した画像を見るまでは,児嶋はその風景を鮮明に思い出せないだろう.児嶋だけでなく,私やあなたもそうである.私たちは起きてから寝るまで常に世界を見ているが,カメラのようにその全てを鮮明には覚えてはいない. カメラで捉えた画像を見ながら,児嶋はかつて歩いた場所を思い出しただろう.その際,画像が示す鮮明さとは異なる感じとともにその場所のことが思い出されたのではないだろうか.なぜなら,ヒトは世界を見るだけではなく,聞く,触れるといった複数の感覚で世界からデータを受け取っているからである.カメラの画像が示す鮮明さは視覚データ以外を持たないがゆえに成立しているとも言える.私やあなたにおいても,画像のように視界を見ていると感じているが,それはその場所で得ている聴覚や触覚などの視覚以外のデータを抑制した

表象文化論学会オンライン研究フォーラム2023のシンポジウム「皮膚感覚と情動:メディア研究の最前線」に参加します(11/23追記:発表資料です🥸)

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表象文化論学会オンライン研究フォーラム2023のシンポジウム 「皮膚感覚と情動:メディア研究の最前線」に参加します. 2023年11月11日(土) 16:00-18:20 「皮膚感覚と情動:メディア研究の最前線」 飯田麻結(東京大学), 平芳裕子(神戸大学), 渡邊恵太(明治大学), 水野勝仁(甲南女子大学), コメンテイター:高村峰生(関西学院大学), 司会:難波阿丹(聖徳大学) 参加登録はこちら→ https://www.repre.org/conventions/2023/ 私の発表タイトルは「 カーソル・ラバーハンド錯覚・スワイプ 」です.『 融けるデザイン 』の 渡邊恵太さんの前で「自己帰属感」を話すというチャレンジングが状況です.渡邉さんの「自己帰属感」を軸に,小鷹研理さんの『 からだの錯覚 』で紹介されている「ラバーハンド錯覚」の話を絡めて,最後に小鷹さんの「皮膚としての身体」を介して「スワイプ」を考えて,スワイプで起こっているのは「自己帰属感」ではなく「画面帰属感」ではないかということを話します. 以下は,今回の発表のために書いた「カーソル・ラバーハンド錯覚・スワイプ」の冒頭です.私がスワイプに対して抱いた違和感や不安はなんだったろうということをカーソル=自己帰属感経由で探りたかったのです🥸 -- ホーム画面をスワイプする体験の「わからなさ」 2007年にiPhoneが登場して以来,私たちは日常的に画面に直接触れるようになった.ディスプレイに表示されているアイコンをタップしてアプリを起動したり,写真をスワイプして次の写真を見たりしている.タップはマウスやトラックパッドのクリックを代替するものであり,特に違和感もなく受け入れた人が多いだろう.では,スワイプはどうだろうか.スワイプは「iPhoneユーザガイド」の「iPhoneの操作に使う基本的なジェスチャについて」で「画面の上で1本の指を素早く移動します.例えば,ホーム画面を左にスワイプすると,ほかのアプリが表示されます」と説明されている.こちらもほとんどの人があたらしい操作方法として受け入れただろう.しかし,私はiPhoneのホーム画面のスワイプに大きな違和感を持っていて,そのことを認知科学の研究者小鷹研理とメディアアーティストの谷口暁彦とのトークで話した.小鷹が私の話を次のようにまとめてくれている

日本映像学会の会報198号(PDF版)に発表の報告文が掲載されました

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日本映像学会の会報198号(PDF版)に日本映像学会第49回大会できりとりめでるさんと共同で発表した「 「モノとディスプレイとの重なり」の振り返りから考える日本のポストインターネット・ アートにおける「ディスプレイ」の役割 」の報告文が掲載されました. 会報198号(PDF版) https://jasias.jp/wp-content/uploads/2023/10/JASIAS_NewsLetter198.pdf

tumblrmemo900-999

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memo900 ​​モノとイメージとを一元的に扱うための平面,あるいは支持体として記号的なデータが存在する.そしてそれらは,表裏一体の存在になっている.それがもっともはやい段階でかたちとなったのがディスプレイである.モノと画像という二項対立を支えるソースコード/データという構造.データは表裏一体を形成する平面を透過してモノと画像とソースコードとのあいだを行き来する.​​モノとイメージとがソースコード/データという平面と表裏一体の存在になった.モノ|イメージ=光とソースコード/データとがひとつになったかたちとしてスマートフォンがあり,それを手にもつヒトがいる. 清水さんの『実在への殺到』を読んでいたときにでてきた「経験一元論」と「記号一元論」とその先のアニミズム的世界.このことをいち早く見せていたのが,コンピュータと接続したディスプレイだと考えられる.そして,今,ディスプレイはコンピュータが解放され,「経験一元論」と「記号一元論」とが表裏一体に重なり合う理念的な場になりつつある.モノとしてのディスプレイが理念的なディスプレイ場へとスライドして,ソースコードはあらゆる記号的存在に書き換えが可能であることが示されつつある. ​​ディスプレイにおいて,モノとイメージとの二項対立がソースコード/データによって操作可能になる.そして,モノであるディスプレイ自体に「霊=データ」が宿るようなアニミズム的状況が生まれる.この状況はディスプレイにとどまることなく,他のモノにも波及していく.そこで生じるのがディスプレイ場というモノとイメージとを一元的に扱える場なのである.ディスプレイでイメージを自由に扱うように,モノが操作されていく.世界のディスプレイ化といえるかもしれない. ​​モノとイメージ,そして,それらを照らす光は物理空間に遍在している.あとは,これらにちょっとした変化をあたえると,モノの変化が光を変化させ,イメージを変化させて,さらに,モノを変化させて… という循環的な連鎖反応が物理空間に起こる.そのなかでディスプレイはソースコード/データと一体化した存在として特別なものでなくなり,あらゆるものがソースコード/データと表裏一体の存在となっていき,世界のモノとイメージとそれを包む光の関係を変えていく. memo901 紀要論文は新視覚芸術研究会の発表をテキスト化しようと思い始めて