児嶋啓多『ネオ東京 徘徊と書』にテキストを寄稿しました🧐



児嶋啓多『ネオ東京 徘徊と書』にテキスト「「ニュートラルな空間」で拮抗するぐにゃぐにゃの情報体と四角四面な視界」を寄稿しました✍️

私はテクノロジーを使うことでヒトが見る以前の世界だったり,ヒトが視界を生み出す以前に「見ている」ものを表現できると考えていて,児嶋さんの試みは私の思考を視覚的に引っ張ってくれるなと思って,テキストを書きました.

また,英語の翻訳もしてくれました.英語のタイトルが「Neutral Spaces: Sites of Contention Between our Amorphous Information Gestalt and Rectangular Visual」です.本文で「情報体」という言葉を使っています.翻訳者がその単語の意味を私以上に汲んでくれて,「Information Gestalt 」と訳してくれました. 「情報体」が「Information Gestalt 」となったことで,このテキストは完成したと思います🙏

写真集はこちらで購入できます.
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冒頭の2段落です.

「ニュートラルな空間」で拮抗するぐにゃぐにゃの情報体と四角四面な視界

児嶋啓多は『Neo Tokyo』制作のために「体にカメラを取付け徘徊」した.児嶋は歩き続け,カメラは世界を撮影し続けた.このとき,カメラと同じように彼もまた世界を東京の街を見ていたはずである.しかし,カメラが撮影した画像を見るまでは,児嶋はその風景を鮮明に思い出せないだろう.児嶋だけでなく,私やあなたもそうである.私たちは起きてから寝るまで常に世界を見ているが,カメラのようにその全てを鮮明には覚えてはいない.

カメラで捉えた画像を見ながら,児嶋はかつて歩いた場所を思い出しただろう.その際,画像が示す鮮明さとは異なる感じとともにその場所のことが思い出されたのではないだろうか.なぜなら,ヒトは世界を見るだけではなく,聞く,触れるといった複数の感覚で世界からデータを受け取っているからである.カメラの画像が示す鮮明さは視覚データ以外を持たないがゆえに成立しているとも言える.私やあなたにおいても,画像のように視界を見ていると感じているが,それはその場所で得ている聴覚や触覚などの視覚以外のデータを抑制した結果かもしれないと疑ってみる.視界の鮮明さは,あなたが存在する場からあなたが得ている複数の感覚データをマスキングしていく.このように考えてみると,簡単に取れるものではないが「視界」という覆いをとってみると,ヒトと世界とのあいだには視界形成前の視覚データを筆頭にした複数の感覚が蠢く混沌とした情報体(Information Gestalt)が現れるはずである.

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