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「インターフェイス」に意識を向ける(4)

界面の消滅 小室はインターフェイスと一体化してしまったゆえの悲劇になりましたが,界面そのものを消滅させてしまった人たちがいます.それは,理事長と小山内です.彼らはテクノロジーを自らのうちに取り込んでしまうことで,インターフェイスを消滅させてしまったのです. 物語の終盤で,敦子は理事長の家へと向かいます.そこには温室があります.ガラスでできた温室は,外部の環境から切り離されたもうひとつの世界を作り上げています.敦子はその世界へと入っていきます.夢からさめた後にくるのは現実です.しかし,誰もが一度はその現実もまた夢ではないかと疑ったことがあるのではないでしょうか.理事長の温室のなかで,再びの夢というか,これもまだ夢の続きであることに気づいた敦子は誰しもが持っているインターフェイスの存在に気づきます.それは,理事長とともにいた小山内が気づかせてくれたと言ったほうがいいのかもしれません.そのインターフェイスというのは「皮膚」です.その場面の詳しい説明の前に,インターフェイスと皮膚とを結びつけたテキストを情報科学の分野から引用してみます. ビットとアトムの融合は,現実との接点でも発生すると予測される.たとえば現状のコンピュータディスプレイはネットワークと現実の界面(interface)であり,コンピュータ(ネットワーク)上の情報をピクセルとして現実世界に放射する「サーフェイス」である.人間の入力のセンシングとと合わせて,ディスプレイは「ビット入出力界面」として機能している.筆者は,この考えを一歩進めて,全ての人工物の表面は生物の「皮膚(skin)」に相当するという発想のシステム「スマートスキン(SmartSkin)」を提案している.  (暦本純一「サイバネティックアースへ――サイボーグ化する地球とその可能性」『オープンシステムサイエンス』195−196頁) ビットとアトムというはじめての言葉ができていますが,何となく理解できると思います.簡単に言ってしまえば,ビットがコンピュータで,アトムがヒトということです.ディスプレイがひとつの表面(サーフェイス)であり「ビット入出力界面」となっています.そして,それを進めていくとそれらは生物の「皮膚」に相当するものになっていくという流れは,とても刺激的です.逆に,コンピュータのインターフェイスというあたらしい...

「インターフェイス」に意識を向ける(3)

界面との一体化 DCミニによって立体化された界面で,パプリカは現実と同じうように自由に動きますが,異なる点は面から面への移動です.そして,夢と現実とのあいだの界面も自由に行き来します.しかし,この行き来に失敗した人が出てきます.それが,小室です.小室は悪夢に似た狂乱した夢を見続けていますが,その夢は小室本人のものではないことが判明します.小室は夢から出れなくなってしまっていたのです.小室は夢から脱しようとします.しかし,その移動は失敗に終わります.その失敗は次のように描かれてます.遊園地で空から落ちてきた小室はガラスの天井をぶち破り,地面に激突します.その際,DCミニは暴走しており,小室の顔の皮膚のなかへに入り込んでいます.ここでのDCミニは蟲のように蠢いています. 小室は夢から現実へと戻るさいに,ひとつの界面(ガラス)を破壊して,その先にあるひとつの面(地面)に激突します.そのとき,DCミニという有機的なかたちにデザインされたインターフェイスが暴走している.そして,ヒトの内側に比喩的な意味ではなく,文字どおりに入り込んでいる.小室はインターフェイスと一体化してしまっていたのです.ここでは,夢そのものではなく,その夢との界面であるインターフェイスと一体化することの意味を考えていきたいと思います. 敦子はパプリカとガラス/鏡ごしに会話していることがあります.DCミニを使っていなくても,鏡を介せば会話できます.あるいは,会話していると思っています.ここでは,古来から私たちの姿を映してきた鏡というテクノロジーがインターフェイスとして大きな役割を担っています.おそらくDCミニに侵食された小室は,鏡に映る自分の姿を認識することができなかったのでしょう.あたらしいテクノロジーは,ヒトの奥へ奥へと作用します.それはヒトの表面をただただ写し出していた鏡とは大きく異なります.しかし,鏡は表面にとどまるからこそ,見ているヒトの内面をそのヒト自身の力で探しだすことができるように作用してきたとも言えます.あたらしいテクノロジーは,私たちの表面ではなく奥の方に直接作用していきます.それゆえに今,インターフェイスが問題になっているのかもしれないのです.なぜなら,あたらしいテクノロジーがもつ奥へ奥へと作用する力を隠すかのように,インターフェイスが私たちの意識に対して最も手前に位置する最...

「インターフェイス」に意識を向ける(2)

界面を立体化させるインターフェイスのかたち 私たちはパプリカのように夢の世界には意識を保ったままいくことができませんが,多くの人は夢を見るし,また,コンピュータとのインターフェイスを通して仮想世界と呼ばれもうひとつの世界は行ったことがあるような感覚はもっていると思います.ディスプレイという面の上に対して,マウス.キーボード,カーソル,あるいは最近では自分の指を使って,「仮想世界」というもうひとつの世界とのインターフェイスとなっている面を自在に動いているように見えます.しかし,同時にディスプレイという「面」が「仮想世界」への移動を妨げているように見えます.このことを考えるために,私たちはディスプレイという平面だけではなく,マウスやキーボードのことも「インターフェイス」と呼んでいることに注目してみましょう.それは「界面」というイメージでありませんが,そのように呼ばれています.それはなぜでしょうか.それらはコンピュータとの関係において,私たちが自在に動くことを許してくれている面を立体化して,「界面」に「奥」をつくり出すように助ける装置なのです. 私たちが日々使っている「マウス」を考えてみましょう.アップル社のマジックマウスは丸みを帯びていて,有機的と言えなくはないかたちをしています.マジックマウスと同じ機能を果たすマジックトラックパッドは,単なる一枚の板みたいなデザインです.これは私個人の感覚ですが,マジックマウスの方が意識せずにディスプレイ上の世界にアクセスできるような気がします.ディスプレイという面の上までのアクセスにすぎないですが,そこでの行為がヒトの手のかたちあわせてある有機的なかたちをもつマウスの方が,トラックパッドという一枚の板よりも世界に入り込めるような感じがします.あるいは逆に,面には面をということで,トラックパッドのほうがしっくりくる人もいるかもしれせん.どちらにしても,界面へ作用を及ぼすモノのかたちが意味をもっているのです.マウスはもうひとつの世界を私たちの身体に合わせるインターフェイスで,トラックパッドはその逆なのかもしれません.これらのモノによって,単なる面であった界面が立体化するのです.立体化した界面によって,私たちはその向こうの世界に対してより奥深くまで作用(これが「幻想」かもしれません)を及ぼすことができるようになるのです. (問い...

「インターフェイス」に意識を向ける(1)

面から界面へ 今敏監督の「パプリカ」のオープニング映像は,プロジェクション・マッピングのようにスタッフの名前が様々なモノに映し出されています.名前が映し出されるのは,ビルの壁面,自動車のドア,横断歩道,ハンバーガー屋の柱などで,あらゆる平面に文字が映し出されます.ここで使われている手法は,厳密にはプロジェクション・マッピングではなくて,平面にただ文字を投射しているにすぎません.プロジェクション・マッピングのように面の凹凸を計算して,それに合わせて映像を生成して,映像とモノの面とを一体化してしまうような厳密さはないのです. プロジェクション・マッピングのような厳密さをもたないオープニングのスタッフロールは,どこか別のところから投射された映像という感じがします.「パプリカ」自体がアニメーションという描かれた映像ですが,スタッフロールの名前はそこで描かれたモノと一体化していません.どこか別のところから来た存在という感じがあります.何が言いたいのかというと,ここには「映像」と「モノ」があり,それぞれが「面」を介して向かい合っているということです.つまり,ひとつのように見えるのですが,よくよく観察してみるとふたつであり,そして実際にふたつの存在があるということが,オープニングで示されているのです.このことは何を示しているのでしょうか. ひとつがふたつ.ひとつに見えるかもしれないが,ふたつであること.ここには私たちとテクノロジーとの関係が示されているのです.映像とモノとのあいだに「面」が出現しています.あるいはは,「面」を介して映像とモノというふたつの存在が接しています.モノ|映像のあいだにある「面」,ふたつのあいだにあるそれらを出会わせる「面」.それは「界面=インターフェイス」と呼ばれる特別な面なのです.ここでいくつかこの「界面=インターフェイス」について書かれたテキストを引用してみたいと思います. この段階[シミュレーション映像が日常に入り込んできた]に至って,私たちはイメージと現実との関係に大きな変化が起きていることに気がつきはじめている.それは「見る」という行為が,感覚信号を受動的に処理する,一方的な経験であることを超えて,見ている対象を直接的に動かしてゆくような,物理的な意味で能動的な経験の領域へとシフトしてい...