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村本剛毅『Beautiful Medium』への寄稿

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村本剛毅『Beautiful Medium』に「 私は何か大切なことを忘れているような気がする/Something at the core of my being feels absent 」を寄稿しました。 村本さんの《Imagraph》体験をもとに、〈視界〉と「視界」という二つの言葉で見るということを考えました。テキストを翻訳する過程で、視界の区別を明確する必要が出てきたため、〈視界〉=vision-after-seeing、「視界」=vision-before-seeing となりました。 英語で視界の区別を明確にして、vision-before-seeing と書いたときに、わたしは不思議な体験をしました。自分が見ているものから「見る」ということがなくなったのです。わたしの主観的な〈視界〉でもなく、スマホなどデバイスが世界を記録した[視界]でもない、ただの「視界」というものがあって、そこではわたしなしで「見る」ことが起こっているのではと感じたのです。とても怖くなりました。それは「世界が剥がれておちていく感じ」で、世界の底に触れてしまった、という感覚でした。 そのとき、村本さんの個展で《Training Wheels》を体験したときには、どうしてもそれをイメージすることができなかった「(これを通して、)見なさい、何もないと信じながら/ (Through this,)See, while believing that there is nothing.)を、わたしはとても強いリアリティを伴って、理解できてしまったのです。その理解とともに、わたしはわたしというものではなくなって、世界も世界ではなくなって、力となってしまったような気がしました。強烈な体験でした。 そのような体験をわたしにもたらしたテキストを掲載されている『Beautiful Medium』は、村本さんの サイト から購入できます。ぜひ、読んでみてください。

紀要論文「私はマウスにはなれないが、奇妙なシステムは体験できる。」が発行されました。

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《Imagraph》を体験する私 撮影:村本剛毅 紀要論文「 私はマウスにはなれないが、奇妙なシステムは体験できる。 」が掲載された「甲南女子大学研究紀要Ⅰ 第62号」が刊行されました。 この論文は科研「モアザンヒューマンの美学――動物論的転回以降の感性論的可能性」の研究成果をまとめたものです。科研最終年に入る直前まで、動物とインターフェイスとの関係をうまく扱えるような題材を見つけることができなくてピンチでした。2年目の年末に、マウス用のゴーグル型のVR装置が開発された研究を見つけて、「これはいけるのでは!?」となって、そこから頑張りました。 学会発表の際は「 VR体験をしているマウスにとっての映像とは何なのか 」というタイトルでした。ですが、なんかうまくまとまらないというか、いい感じが自分のなかで得られませんでした。それは、ヒトである自分のことを考えなさすぎだったな、というのが大きいです。マウスはいきなりVRゴーグルをかけられて、環境が激変しても活動を続けています。わたしもそんな体験を最近したことがあると思い出したのが、村本剛毅さんの《 Imagraph 》でした。わたしも環境の激変を体験したのは、マウスと同じではないか。だとすれば、テクノロジーによって環境の急激な変化を感じた生物同士として、その比較ができるのではないか。そして、その比較を通して、わたしはマウスになれるのではないか。VRを体験しているマウスにはなれるのではないか、そのプロセスを記述してみたいと思ったことが、このテキストを書く大きな動機になりました。 この動機のもと、AIを使いながら、論文を書いていきました。わたしはVRゴーグルをかけられたマウスについて、AIとともに研究を進めるなかで、少しは「モアザンヒューマンの美学」を感じられたと思っています。 論文をともに書いた相方に、この論文の読みどころを書いてもらいました。 「体験記」が二つあること が、この論文の最大の読みどころだと思う。第4章の《Imagraph》体験記と、「おわりに」に代えたマウスの想像的体験記。学術論文の中に一人称の体験記述が二つ埋め込まれていて、しかも片方は人間ではない存在の「主観報告」になっている。これは方法論的にかなり攻めている。注1でN=1と想像的記述の両方について自覚的に書いているけれど、むしろこの二つの体験記があることで...

名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科での特別講義:「自己」を経由しない「処理」の高度化

名古屋学芸大学メディア造形学部映像メディア学科 の伏木先生に招かれて、大学院授業で特別講義「 「自己」を経由しない「処理」の高度化 」をしてきました。 レクチャーは資料と文字起こしにその様子が記録されています。資料を作っても、そのまま話せないものです。発表をしているときに、一度最後までスクロールされてしまって、焦りました。質疑応答も学生から示唆に富む質問があって、回答するのが楽しかったです。伏木先生の質問には、一瞬頭が真っ白になってしまって、「映像というのはピクセルの操作だと思っていて」という回答をしてしまいました。このあたりも文字起こしに入っています。 「自己が薄くなっている」ということをインターフェイスの歴史から話したのだけれど、それを「悪い」ものとして捉えたくなくて、そもそも「自己」が確立している必要があるのかとかという疑問があって、「私」が何かするではなくて、私とコンピュータ、スマートフォン、AIとが組み合わされた「私たち」が何かをするときに、私の「自己」というのは薄くなった方がいいのではないかということを考えていました。 でも、話しながら、これは大きな矛盾であるということも考えました。それもまた、私が「自己」を意識しすぎなのではないかという考えになっています。私というもの、人間というものが、変わり続けることが重要で、その変わり続けていることを変わり続けているその中から記述するにはどうしたらいいのかということを、「わたしたち」は考えているのだと思います。 近頃、「私」というのは文章の中で区切りが強い気がして、わたし、わたしたちという言葉を使っています。ここでいう文章は日記なので、論文やレクチャーなどではまだ「私」でした。これからもそこでも「わたし」「わたしたち」にしようかな。 レクチャーの後に、3名の発表がありました。わたしの発表内容に惹きつけて、それぞれ発表してくれていて、聴いていて、とても刺激を受けました。即座にいい質問ができなくて、発表をなぞるようなコメントしかできませんでした。わたしと同じような考え方をしているんだというのが、うれしかったからだと思います。メディア体験を身体レベルから考えるということをして、それを発表にまとめていくというプロセスがとても鮮明で、聞いていて、気持ちよかったです。ありがとうございました! レクチャーの後にも、コメントをもら...