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お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_25

記事を書きました→ エヴァン・ロス氏が新作《No Original Research》を公開 エヴァン・ロス氏の新作について書きました. 作品の解説・考察でテキストが長くなってしまったのですが,できればロス氏スタジオ移転についても書きたかった. − 今回の展示を知ったのはロス氏のeメールによるニュースレターだったのだが,そこにはロス氏がスタジオを移転したとの知らせもあった.スタジオ移転を知らせるブログは「 Hello World... 」というタイトルで,そこにはGoogleMAPで所在地が示されていて,もちろんストリートビューでその場所を見ることができる. さらに,ロス氏のスタジオのシャッターにはアーティストの Mathieu Tremblin氏のよってペイントされていて,そこには, READY PRINT "HELLOW WORLD!" HELLOW WORLD! READY. ■ と描かれている.そのシャッターの様子はGIFアニメで見ることができる.さらに,アラム・バートル氏がフォーマットをつくった「Offline Art」のノードが備えられているので,ロス氏のスタジオ近くに作品を体験できるかもしれない.そして,私も含めてパリになかなか行けない人は,Tor Browserさえインストールすれば,デープネットにあるロス氏のスタジオにアクセスできる. スタジオをストリービューで見せて,さらにGIFアニメというオンラインでのスタジオ擬似訪問,リアルに現場に行かないと体験できないOffline Art,ネットはネットだけれども普通にはたどり着けないディープネットと盛りだくさんのスタジオ移転報告であった.URL=http://www.blog.ni9e.com/hello-world-studios/をみると「studios」と,しっかりと複数形になっていた.今やスタジオがあるのはリアルだけとは限らないし,ネットも複数あるという時代になっているのかもしれない.

三輪眞弘さんとの対談ためのメモ(4)と告知_身体とオリジナル/リミックス

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三輪さんとのトークが近づいてきた.「コンピュータがもたらした世界」というタイトルのもと考えをまとめようとしているのだが,どううまくまとまらない.身体とコンピュータ,身体と演算,身体とテクノロジー.音楽とオリジナル,アルゴリズムとオリジナル,三輪作品におけるオリジナル.音楽だからリミックスといったほうがいいのかもしれない.三輪さんがリミックスされる可能性.あるいは,ブラッド・トルメルが言う起源・オリジナルを失うことを良しとするプログレッシブ・バージョニングが三輪作品に適用される可能性. 身体 三輪さんの作品における身体は極めてシンプルな行為を行っている.コンピュータが登場するまで身体は複雑な動きを行うように訓練されてきた.しかし,コンピュータとともにある身体は,ボタンを押すというシンプルな行為のみを要請される.その要請はカメラが出てきた時から行われてきた.ヒトがボタンを押し,コンピュータが演算する.この「最小の行為と組み合わされた演算」によって複雑な情報がつくられる.普段,コンピュータを使っているときは「演算」はヒトの外部にあるコンピュータに委託されている.けれど,三輪作品ではヒトが「演算」を行わなければならない.行為自体はシンプルかもしれないが,そこで同時に演算が行われている.しかし,それは外から見たときには,その行為が演算でその都度決定されているものなのか,あるシーケンスが予め決まってそれに沿って行われているのかが,わからない.三輪さんの作品の意図を知っている人は演奏を「演算」の結果として聴くだろうが,そうでない人はどうだろうか.さらに,演奏者が熟練者であり,演奏がスムーズに移行していけばいくほど,三輪さんの作品意図を知っていても,そこに「演算」を聴くことは少なくなっていくのではないだろうか.アルゴリズムによって規定された行為を自ら演算して次々に行っていく身体は,その行為自体はシンプルかもしれないが,これまでの演算なしで行為していた身体とは別のものに変化している.しかし,ヒトは演算とともにある世界で生活をしていながら,演算をコンピュータという外部に委託しているので,多くのヒトには演算そのものを看取する能力がまだほどんどないと考えられる. オリジナル/リミックス 三輪作品のリミックスというのはどういうものになるのであろうか.アルゴリズムが決まっていて,そ...

メモ:モクモクと湧き出る画像とともにある行為

「画像とともにある行為」ということが思い浮かんだ.画像というのはもう何か表現していることがメインではなくて,その後の行為が重要ということを考えた.「写メール」がその先駆け的な言葉なんではないかと思う.「写真+メールする」ということ.今だと,インスタグラムで「写真+フィルターをかける+共有する」ことや,Tumblrでいい画像が流れてきたら「画像+リブログ」みたいな感じ.これらの流れがアプリやウェブサービスのなかでワンセットになって, 途切れなく 行われるところが重要だと思う.. 博論 で考えた「ディスプレイ行為」もヒトとコンピュータとがディスプレイ上の画像を介して,途切れなく行為を行なっていくことが重要だとしていた.GUIやテレビゲームと向き合うなかで,ヒトは自分の身体と画像とが滑らかにつながりながら行為をするディスプレイ行為に慣れていった.そして,その慣れた行為とともにイメージで溢れかえるインターネットでヒトが行いはじめたのが「画像とともにある行為」と考えてみる.インターネットととにもこの行為が始まったわけではないけれど,近頃の画像をめぐる状況の変化によって,私たちがイメージに何を期待するのかが変わってきているのではないのかということ. その期待の変化の根本にあるのは,イメージに対して「コピー・オリジナル」意識がなくなっているということ.ネット上ではそのイメージに対してどこかに「スペア」がある感じがある.「コピー・オリジナル」と「スペア」という言葉の違いを明確にする必要があるのだけれど,コピーだとオリジナルには成り得ない感があるけれど,スペアだとオリジナルと同等というか,それに成り代われる感じがあるし,オリジナルももともとスペアが前提になっていると,「これがオリジナル!」という感じが少くなるような気がする. 「スペア」ではなくて「ソース[源]」なのかもしれない.ラファエルが自分の作品を「ガスのような作品」と言ったところから考えたガスの「ソース=ソースコード」.そうすると,画像が確固としたひとつのかたちをもつ「固体」であるという認識を捨てて,それはどこかの「ソース」からモクモクと湧いてて,その枠組みによって様々なかたちに変化していく「気体」だと考えるとおもしろい.ソースから湧きでた「気体」にあるひとつのかたちをつけるために何かしらの行為が用意されていて,そ...

ラファエル・ローゼンダールの「ガスのような作品」

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昨日, 川崎市民ミュージアム で ラファエル・ローゼンダール と インターネット・リアリティ研究会 でのトークをしてきました.トークに来てくれた方ありがとうございました! トークはとても興味深いものでうまくまとめて紹介したいのですが,自分も登壇者だったのですべてをまとめる余裕がないので,トークの紹介というよりもトークで自分が気になったことろ及びローゼンダールの展示から考えたことを書いていきたいと思います. 展覧会でローゼンダールが展示していたのは《 looking at something 》でした.ネットでも体験してもらえるとすぐにわかるのですが,カーソルやタッチのインタラクションに応じてブラウザに表示されている天気が「晴れ」や「雨」,「雷雨」に変わるというものです.展示は3つの画面がプロジェクションされていて,それぞれを映像の正面に置かれた展示台上の「トラックパッド」でコントロールするというものでした. インスタレーションとネット上の作品のちがいは画面の大きさやその数などありますが,「カーソルの有無」が個人的にはとても気になりました.インスタレーション版ではカーソルはありませんが,ネット版ではパソコンで体験するとカーソルがあって,スマートフォンではカーソルはありません. スマートフォンで体験 パソコンで体験 自分のなかではカーソルがあるパソコンでの体験が一番作品とインタラクションを行なっている感じがします.自分の指の行為がカーソルに反映され,それがしっかりと「カーソル」の位置として見えているからなのだと思います.カーソルがないタイプだとスマートフォンの方がよりインタラクトの度合いが深いかなという感じです.インスタレーション版は,プロジェクションされた画面とトラックパッドとのあいだの距離があり,自分で動かしているのは確かなのだけれども,そこには本当に自分が画面をコントロールしているのかという小さな疑念みたいなものが浮かんでくるというか,インタラクションで「自分と画面とがつながる」,インタラクションの研究者・ 渡邊恵太 の言葉でいうと「 帰属感 」を感じるまでにわずかに微小な時間のズレがあるという感じです. インタラクション版に感じたズレが「悪い」というわけではなくて,作品を体験する環境によって微妙に...

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_12

今年度も メディア芸術カレントコンテンツ に記事を書くことになりました. 今年度最初の記事→ 作品をコピーしあう仲間たちのクラブ:《The Copy Companion Club》 《The Copy Companion Club》は現存作家の作品をコピーし続けます.デジタル情報になったら「⌘C+⌘V」でコピーできるのだから行為の上では「オリジナル」がなくなったように感じつつも,サイト上でオリジナルとコピーの作品を並列することで「オリジナル」の存在を強く押し出している感じもする.しかし,そこに掲載されている「オリジナル」の作品はデジタルデータ化されたものであるから,それ自体がコピーであるとも言えます. 《The Copy Companion Club》の創設者のひとり Caroline Delieutraz はネットを流通している画像を用いて作品をつくっているアーティストです.自己紹介文に次のような一文が書かれています.  彼女は「オリジナル」の消去と呼ばれることや,それと関連するコピー・アンド・ペーストの世界という概念を恒久化しようとしているのかもしれない.しかし,画像データのオリジナルや他の人によってつくられた作品を否定するわけではない.それどころか,大本の画像は彼女の作品に統合され,重要な部分になる. She might be perpetuated what could be referred to as the deletion of the "original", a relative concept in a world of copy-and-paste, but she does not negate neither the origins of these data nor the work done by the others. On the contrary, direct sources of images are an integral and significant part of her work .  彼女の言葉からは「オリジナルなんてものはもうない」という意識と「いやいや,つくった人いるのだからやはりオリジナルはあるでしょ」という意識とが衝突しているようにみえる.「コピー・アンド・ペーストの...

オリジナルか,コピーか? 「PSD」が示す微妙な感覚

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Width: 700px; Gallery  で Michael Bussell の個展《Original Copy》が開催されている.《Original Copy》は2012年の作品であるが,今回のオンライン展示に合わせて再解釈され,作りなおされている. Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにいくと作品の画像が展示してあり,画像のタイトルをクリックするとPhotoshopのファイル「PSD」をダウンロードすることができる.Busselは展示されている画像そのものではなく,ダウンロードした画像を編集してもらうなどのインタラクションにフォーカスが移ってきていると考えている.そして,Bussellはこの考えをWidth: 700px; Galleryの展示で自らの作品を改変することで実践している. Bussellのウェブサイトの《Original Copy》のページにある画像 Width: 700px; Galleryでの展示 Bussellの考え方自体は作品を見るためには「PSD」ファイルをダウンロードしなければならない「 The. PSD Show 」や展示作品を改変可能でネットにアップした展覧会「 new jpegs 」などにも通じることがあり,ポスト・インターネット的状況においては「当たり前」となった考え方といえる. ここで注目したいのはBussellの作品タイトルに使われた「オリジナル」と「コピー」という言葉である.Bussellが書いているように,Photoshopは現在の暗室のような存在であり,そこで使用される「PSD」ファイルは写真の「ネガ」のような「オリジナル」的存在である.しかし,その「オリジナル」は劣化なしで「コピー」可能である.Bussellの《Original Copy》ページから「オリジナル」の「PSD」ファイルをダウンロードした場合,それはデータ的には「オリジナル」な感じがあり,心情的には「コピー」という感じがする.ファイル形式が「JPEG」ならそれはもう「コピー」という感じになるが,「PSD」だと微妙な感覚である. Width: 700px; Gallery Width: 700px; Galleryでの展示は会場に合わせて低解像度の画像が展示されていることもあり...