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​​​多摩美 メ芸 卒制展「#00000000」「画像」トーク​🎤

3月3日に 多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース卒業制作展 「#00000000」 で,写真家の港千尋さん,セミトランスペアレント・デザインの田中良治さん,そして,多摩美の学生の竹久直樹と 「画像」についてのトークをしました. このトークをして,私は「画像」そのものではなく,インターフェイスに組み込まれた「画像」というのをいつも考えているのだなと感じました.なので、私が考える「画像」はジェスチャーとともにあるのかなと思いつつも,「画像」がデータの圧力によって変化して,「厚み=バルク」を持ち始めているのではないかとも考えているので,インターフェイスからはみ出す「画像」も最近は考えているのかなとも感じています. トーク🎤ためのノートです(トークでは全く使わなかったですが…) ​ ​ ​ 🎤 ​ 多摩美卒業制作展# 00000000  トーク

それはヒトでなくても,犬でもカメでもウォンバットでも,あるいは電動ドリルでもいいかもしれないが,ヒトじゃないとそんなこと意識しないかもしれない_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(2)

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セミトラ「退屈」展の《6PC 1MC》.ひとつのマウスで5つのカーソルを動かす.どこか落ち着かない感じがしてくる.画像=記号を扱った作品がピクセルとそれが表す記号との「1対1」対応を崩したように(→ 再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1) ),ここでもマウスとカーソルとヒトとの「1対1」対応が崩れている.崩れた結果として,どこか落ち着かない. (いや,画像の作品は符号化と復号化の繰り返しだから,厳密に1対1対応をしようとするけど,コンピュータの外でそれを行おうとするから,どうしてもその対応がズレていくのが興味深いということかもしれない) マウスの作品に戻ると,これは今回の退屈展で,ヒトがコンピュータのなかに入り込める,これは言い方がおかしいかもしれない.ヒトがコンピュータを操作するという実感がもてる唯一の作品になっている.でも,セミトラはその前提であるマウスとカーソルの「1対1」対応を崩しているから,そこにズレが生じる.今回,ズレが生じるのはヒトの感覚である.普段,マウスとカーソルを使っているヒトが多いからこそ,そこにズレが生じる.コンピュータにとっては何一つズレていない.1つのマウスで5つのカーソルが動くようにプログラムされているので,その通りに動いているだけ.カーソルがディスプレイの枠の外にでてしまうのも,そのようにプログラムされているから.5つのディスプレイとその周りの空間がXY座標で区切られていて,その座標とマウスの動きとが対応しているだけのこと.でも,ヒトは5つのカーソルと,ディスプレイの枠の外にでるカーソルを見ると「あれっ」っと思う. 「退屈」展は作品の多くが再帰的構造をとっているが,その再帰のプロセスをヒトは眺めるだけであったり,意図せずそのプロセスに入り込んでノイズとして「機能」したりするのだが,《6PC 1MC》ではヒトは入力ソースとして機能している.再帰構造の画像の作品はヒトを必要としていないと書くのは大げさだけれども,この作品はコンピュータの論理構造をノイズあふれる世界に構築してきて,その反応を見る作品と考えられるので,そこではヒトも温度や湿度,地震によるカメラの揺れなどといった論理世界を表現した回路に対するノイズのひとつにすぎない.しかし,...

再帰のなかで現われるピクセル感_セミトランスペアレント・デザインの「退屈」展(1)

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ggg で開催されている セミトランスペアレント・デザイン の「退屈」展の1階にはモニター,プロジェクターはない.RGBの世界で主に活動してきたセミトラが自らの作品をCMYKに変換している.といっても,これまでつくってきたRGBの作品のスクリーンショットをプリントしているわけではない. スクリーンショットを拡大して見えてくるピクセルをひとつひとつ絵具に変換している.その変換には多くの時間が掛けられているのだろうし,それは「退屈」な作業だったのではないかと想像される.ウェブサイトはそのままのかたちで展示すると,普段,家で見られるものをわざわざ会場で見ることになり,その体験はとても見る人にとって退屈なものである.だからといって,ウェブサイトを「絵画」に変換されても,それはそれでつくる人にも見る人にも退屈なものになってしまうのではないだろうか.最初にそこにあるものが人の手で描かれたものだと知ったときの驚きはあるだろう.しかし,それを長く見ることがあるだろうか.ウェブがリアル絵画になるとそれはすぐさま比較対象がこれまでに圧倒的な歴史をもつ絵画群のなかでその立ち位置を問われて,リアルの前に敗北して真に退屈なものになってしまう. セミトラは簡単に敗北しない.セミトラは「退屈」を引き伸ばす.1階のブルーバックの前に掛けられた絵画は,カメラに撮影され,地下1階に送られ,映像として表示される.絵画は低解像度の画像になる.セミトラはRGBのウェブサイトをCYMKへ,そして再びRGBへと次々に変換していく.ピクセルを絵具に置き換えていったヒトの痕跡があたかもなくなったかのように「ピクセル感」が強調化された低解像度の画像が最終的に出力されている.「ピクセル感」というのは物理的なピクセルを示しているわけではなく,その画像が「ピクセルで成り立っているような感じ」というアバウトな意味である.「RGB→CMYK→RGB」という再帰的な流れの果てに「ピクセル感」が現われる. ブルーバックに合成されているセミトラのアーカイブもそれぞれの作品が徐々にズームアウトされていき,最終的にひとつのピクセルになって,次の作品の一部になるかのような映像になっている.それが「RGB→CMYK→RGB」を示す画像の背景として流れていく.このように...

お仕事:「IDEA No.366 : ポスト・インターネット時代のヴィジュアル・コミュニケーション」に記事を書きました

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「 IDEA No.366 : ポスト・インターネット時代のヴィジュアル・コミュニケーション 」に「ポスト・インターネットというプラットフォーム上で自生をはじめた複雑な生態系」という「ポスト・インターネット」の状況整理するテキストを書きました. 私の他にも,谷口暁彦さんの個人史に近い「ググっても出てこない,ぼくが知りうるネットアートについての歴史の断片,そして最近のこと」や,髙岡謙太郎さんの的確なまとめ「ウェブサービスにおけるヴィジュアル・コミュニケーションの進化」が載っています. 巻頭を飾るラファエル・ローゼンダールさんについてのテキストをセミトランスペアレント・デザインの田中良治さんが「退屈とクリエイション」というタイトルで書いています.「退屈」,いいキーワードです.あと,ローゼンダールさんのブログの テキスト を日本語訳してくているのがとてもうれしい.ローゼンダールさんのテキストは,ネットと表現の関係が的確に書かれているので,それが日本語で読めるのはとてもいいです. もちろん「ポスト・インターネット」のヴィジュアルも多数載っています! 普段はディスプレイで見ているものですが,紙に定着された状態で見るのもまた新鮮です. あと「光るグラフィック」展も取り上げられているので,本当に盛りだくさんの「ポスト・インターネット時代のヴィジュアル・コミュニケーション」になっています. −− 以前,「光るグラフィック」展について書いた記事→ 「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

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「 光るグラフィック 」展を見てきた.タイトル通りグラフィックが光っていた.「光」を放つというだけで,それが動いても動いていなくても,どこかモノとしての重さから離れていたような気がした.だから,光るグラフィックは動いて当然で,中村至男さんの作品のようにグラフィックが動かないとそれだけで注目してしまう.少し前に「モーション・グラフィック」がでてきてグラフィックが「動く」ということが強調されていたが,それとは違う段階に入ったのかなと思った.このことは宮越裕生さんによるインタビューでラファエル・ローゼンダールさんも同じようなことを言っている. - 今回のテーマは「光るグラフィック」ということですが,そういったアイデアは以前から意識されていましたか?  僕の表現の中に,そういった側面はあったと思います.ただ今回,田中さんのキュレーションによってその側面がある文脈に入り,色々なことに気づかされました.たとえば静止画であっても動画であっても,その絵の後ろから自分に向かって光が投影されている.そういう時代なんだと思いましたね. 宮越裕生さんによる「光るグラフィック展」レポート  動く,動かないに関係なく光るグラフィックが当たり前になってきた今だからこそ,今回の展示を構成する「RGB/CMYK」というグループ分けが可能になったといえる.いや「光るグラフィックが当たり前」と書いたけれど少し違うかもしれない.「RGB」や「CMYK」の違いということはデザイナーの人は常に意識してきたはずであって,それは紙であれウェブであれ変わりはないだろう.そういった意味では「RGB」と「CMYK」の違いはだいぶ前から当たり前であったわけで,これらの違いを「光るグラフィック」というフォーマットで一度同じ平面に置いてしまおうとする意識が出てきたのが2014年ということになるのかもしれない.だから, セミトランスペアレント・デザイン の田中良治さんがその意識を具体化させる展示を実現させたことはとても重要になってくる.田中さんを含め制作側からの意識にキュレーターや研究者は追いついていけているのだろうか.あるいは別の視点をあなたたちは出せますかと求められている感じもする. ということで,別の視点を出せるかどうかわからないけれど,今回の展示で気になったふたつの作品, 新津...

2013年の振り返り

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「エキソニモの『猿へ』」の会場写真 2013年にはこの投稿を含めて95本の記事を書いています.そして,この投稿がブログ全体で499本目の投稿になります! 2013年は 新津保建秀さんの写真集『\風景』への考察 と 21_21 DESIGN SIGHTで行なわれたセミトランスペアレント・デザイン とのトークからはじまり, GIF BOOK 及び 恵比寿映像祭 への寄稿,インターネット・リアリティ研究会の座談会「 [インターネット アート あれから] と つづき 」への参加と,最初の3ヶ月に多くの活動していました. また,メディア芸術カレントコンテンツで月1でメディアアートの紹介してきました. [2012年度] 新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催 (1月11日更新) 書評『イメージの進行形───ソーシャル時代の映画と映像文化』 (1月11日更新) 制作者から見た「GIF」:『GIF BOOK』と「GIFアニメ再起動!」 (2月8日更新) The World's First Tumblr Art Symposium がニューヨークで開催 (3月15日更新) 《Data Centers Grand Tour (This Data Belongs Here)》が示す地球の上の「データの場所」 (3月29日更新) [2013年度] 作品をコピーしあう仲間たちのクラブ:《The Copy Companion Club》 (6月26日更新) リアクションが全く生じないメッセージアプリ「ETHIRA」 (7月24日更新) オリア・リアリナ氏が新作GIFアニメ《Summer》を公開 (8月21日更新) OKFocusが顔文字ジェネレーター「Newmoticons」を発表 ლ,ᔑ^人^ᔐ.ლ (9月19日更新) デジタルアートのオークションPaddles On!が開催中 (10月9日更新) アートユニット・エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」が福岡で開催 (11月13日更新) 「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催 (12月11日更新) メディア芸術カレントコンテンツでも取り上げたけれども, エキソニモの個展「エキソニモの『猿へ』」 は, 三輪眞弘さんとのト...

カンバセーション Semitransparent Design,水野勝仁

昨日(1月13日), 21_21 DESIGN SIGHT で セミトランスペアレント・デザイン とカンバセーション(=トーク)をしました. セミトラの田中さんとの打ち合わせで,「ばらばら」と保坂和志方式で話そうということになっていたので,スライドは用意しつつも,それを最初から終わりまで流すのではなく,スライド全体を見せつつ,話の流れにあわせてスライドを提示するという方法で話しました.なので,下にスライドを置いておきますが,そのすべてについて話したわけではありません(むしろ使ったスライドの方が少ない) スライド: 田中一光→セミトラ カンバセーションは田中さんによるセミトラの活動紹介からはじまりました.そこでの話をうけて,私は「仮想と現実とを地続きにする」というのがセミトラの特徴であり,現在のリアリティのひとつなのかなということを,ポスト・インターネット的なアーティスト,アーティ・ヴィアーカントの「イメージ・オブジェク」の紹介などをしながら話しました. 自分で話したことをまとめようとしたのですが,「ばらばら」と話をすすめたため,やはりその場で出てきたものはその場のもののようでうまくまとめられないので,補足というか,昨日のカンバセーションからの考えを書いてみたいと思います. カンバセーションでは話すことができなかったのですが,「仮想と現実とを地続きにする」ということを,脳神経学者の藤井直敬さんが「 SRシステム 」でのトークで言っていました.SRシステムは,ヘッドマウントディスプレイを巧みに使って,仮想と現実の認識を曖昧にしてしまうものです.藤井さんはそのトークで「現実の解像度を落とす」ことで,「仮想と現実とを地続きにする」と言っていました. 「仮想」の解像度をあげるのではなく,「現実」の解像度を落とすというところが興味深くて,この問題は田中さんがディスプレイでなされるデザインが,印刷でなされるデザインに情報量が劣るがゆえに,もうひとつの次元として「時間」を導入したということにも通じる感じがします.「仮想」の解像度を上げて「現実」に追いつこうという今の私たちの多くが追求しているものではなく,藤井さんの「現実」の解像度を下げるというのでもない.操作可能性が「現実」よりも大きい「仮想」にパラメータを追加して「現実」と地続き...

告知とメモ:「カンバーセション Semitransparent Design,水野勝仁」

21_21 DESIGN SIGHTで開催されている「田中一光とデザインの前後左右」の関連プログラム「 カンバーセション Semitransparent Design,水野勝仁 」が,2013年1月13日(日)に開催されます.お時間がありましたら,是非お越しください. まだ時間があると思っていても,もう1ヶ月を切っているので,少しずつその場で話すかもしれないことを考えていかなければという感じです. −− ということで,以下,メモ. 展覧会のカテゴリーに「文字,タイポグラフィの追求」があって,そのなかに「活版文字と写植文字」という項目があります.そこに「ゆらぎ」や「にじみ」という言葉が書かれた部分があります. 「第八回産経観世能」のプログラムでは,小さな級数で打った写植文字を原寸大に引き伸ばし,そこで生じた微妙な紙焼きの調子をかすれやちぎれとして写しとり,フリーハンドの微かな ゆらぎ を愉しんでいた.こうした風合いを,活版の圧力に求めたのが,続く「第九回産経観世能」のポスターである.活版用初号活字を粗目の紙に印圧をかけて印字し,拡大して現れるインクの にじみ をもとに,その線の太さやとぎれに着目して,毛筆の文字のイメージに仕上げた.(p.12)[強調引用者] , 田中一光とデザインの前後左右 田中一光は,活版文字と写植文字を極端な方法で用いることで生まれる「ゆらぎ」や 「にじみ」に着目して,デザインを仕上げています.このことから連想したのが,写真家のトーマス・ルフの「 jpegs 」という写真集です.この写真シリーズは,ネットからルフが取得したJPEG画像を再び極度に圧縮した際に生じる「アーティファクト」と呼ばれるノイズにデジタル独自の「美」を見出したものです.田中とルフともに「極端」な行為を行うことで生じる「ノイズ」を表現に仕上げていて,デジタルとアナログとを跨ぐ形で,このふたりのあいだには一本の線がひけるのではないかと考えるわけです. 田中一光|印刷:引き伸ばし・印圧|文字のゆらぎ・にじみ トーマス・ルフ|JPEGの圧縮|画像上のノイズ[アーティファクト] セミトランスペアレント・デザイン(以下,セミトラ)は,デジタルにおける「劣化」を作品のなかで表現しているという意味では,田中・ルフとつながる感覚がある感じがする.ただセミトラの...

2つのメモ:「セミトラ=ディアファネース」となるのでしょうか

少し前に「 田中一光→セミトランスペアレント・デザイン 」を書きました,今回はその続きを考えるためのメモ. 上のテキストを書いた後に,展覧会「 田中一光とデザインの前後左右 」のカタログを読みました.そこに中沢新一さんの「田中一光の妖怪」というエッセイが載っていました.その中の一文. 妖怪的構造をした美の現象は,永住をめざさない.妖怪は神ではないから,「無」と「有」のあいだを往復しながら,つかの間の生命を享受することを好む.(p.67)  もうひとつ. 私たちは琳派の描く自然の中に,具体と抽象の間を行くような,形態となる以前の自然という理念的なものの表現を見出すことになる.(p.67) 中沢さんのこのようなテキストの直後に「継ぐものたち」のセクションが置かれ,三宅一生+Reality Lab. とセミトラが紹介されています.ここに編集の意図を感じてしまいました.とても簡単につなげてしまうと,三宅一生+Reality Lab.は「2次元と3次元とのあいだ」を,セミトラは「ネットと現実とのあいだ」を行き来しているということになるのでしょうか. セミトラの作品における「妖怪的構造をした美の現象」や「形態となる以前の自然という理念的なものの表現」を考えてみることはとてもおもしろいかもしれないです. あともうひとつメモ. 「セミトランスペアレント=半透明」ということで,以前読んだ岡田温司さんの『 半透明の美学 』を再読.岡田さんは「半透明の美学」は「プロセス/移行の美学」と書いています.岡田さんは,アリストテレスの「ディアファネース」という概念を「透明性のさまざまな度合い」と捉えてあれこれ考察して,「視覚のうちに「分解」や「変化」をもたらすことこそが「ディアファネース」の積極的な働きなのである」(p.63)と書きます. 田中一光さんがつくり出した「形態となる以前の自然という理念的なものの表現」を,「半透明」の意味を示すセミトラがデジタルを介して「分解」し「変化」させていくこと.「セミトラ=ディアファネース」となるのでしょうか.

田中一光→セミトランスペアレント・デザイン

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先日,「 インターネットヤミ市 」に参加しました.そこでの戦利品の紹介などは後日書くことにして,今回は 21_21 DESIGN SIGHT で開催されている「田中一光とデザインの前後左右」で展示されている セミトランスペアレント・デザイン (以下,セミトラ)の作品について考えてみたいと思います. 田中一光という日本を代表するデザイナーについての展示については「すごい」というしかないという感じします.そんなグラフィックデザイナーの回顧展のなかにウェブ中心に活動しているセミトラが参加しているのが興味深いのですが,田中さんはデジタル表現についてとても興味を持っていたとセミトラの作品キャプションに書いてありました. セミトラの作品は「三宅一生+Reality Lab.」とともに「継ぐものたち」と名づけられたコーナーにありました.その作品は,まず田中一光のポスターが展示してあります. ポスターの横にディスプレイが2台あって,ひとつはピクセル状の映像が表示されていて,さらにその横に上の画像に「グリッチ」をかけたような映像が映されています.ポスターの前に立つと,横のピクセル状の映像が乱れますと同時に,グリッチ状の画像も乱れます.この3つの画像が連動していることに気づきます. ポスターとディスプレイとは逆の壁面を見ると2台のカメラが設置されています.キャプションを見ると,1台のカメラがポスターを撮影して,その画像をコンピュータで非可逆圧縮するそうです.それがピクセル状の画像で,この画像をもうひとつのカメラで撮影して,復元したものがグリッチがかかったような画像となっているということです.だから,ポスターとカメラのあいだに人がたつと,「田中一光のポスター+鑑賞者」が映像として捉えられ,圧縮変換され表示されて,さらに復元されて表示されるので,映像に変化が生じるわけです. ここで興味深いのは,体験者がポスターの前にたった時と,ピクセルの映像の前にたったときで,最後の映像の表示具合が異なることです.ピクセルの前に立ったほうが最後の映像の変化が大きかったと思います.「ポスター→ピクセル→復元映像」という流れで,鑑賞者が圧縮過程に干渉するか,それとも復元過程に干渉するかで異なる映像は何を示しているのでしょうか. そんなことを考えてい...