「光るグラフィック」展から考えた「光」への感受性

光るグラフィック」展を見てきた.タイトル通りグラフィックが光っていた.「光」を放つというだけで,それが動いても動いていなくても,どこかモノとしての重さから離れていたような気がした.だから,光るグラフィックは動いて当然で,中村至男さんの作品のようにグラフィックが動かないとそれだけで注目してしまう.少し前に「モーション・グラフィック」がでてきてグラフィックが「動く」ということが強調されていたが,それとは違う段階に入ったのかなと思った.このことは宮越裕生さんによるインタビューでラファエル・ローゼンダールさんも同じようなことを言っている.

- 今回のテーマは「光るグラフィック」ということですが,そういったアイデアは以前から意識されていましたか? 
僕の表現の中に,そういった側面はあったと思います.ただ今回,田中さんのキュレーションによってその側面がある文脈に入り,色々なことに気づかされました.たとえば静止画であっても動画であっても,その絵の後ろから自分に向かって光が投影されている.そういう時代なんだと思いましたね.
宮越裕生さんによる「光るグラフィック展」レポート 

動く,動かないに関係なく光るグラフィックが当たり前になってきた今だからこそ,今回の展示を構成する「RGB/CMYK」というグループ分けが可能になったといえる.いや「光るグラフィックが当たり前」と書いたけれど少し違うかもしれない.「RGB」や「CMYK」の違いということはデザイナーの人は常に意識してきたはずであって,それは紙であれウェブであれ変わりはないだろう.そういった意味では「RGB」と「CMYK」の違いはだいぶ前から当たり前であったわけで,これらの違いを「光るグラフィック」というフォーマットで一度同じ平面に置いてしまおうとする意識が出てきたのが2014年ということになるのかもしれない.だから,セミトランスペアレント・デザインの田中良治さんがその意識を具体化させる展示を実現させたことはとても重要になってくる.田中さんを含め制作側からの意識にキュレーターや研究者は追いついていけているのだろうか.あるいは別の視点をあなたたちは出せますかと求められている感じもする.

ということで,別の視点を出せるかどうかわからないけれど,今回の展示で気になったふたつの作品,新津保建秀さんの《frame / camera obscura》と渡邉朋也さんの《画面のプロパティー》を考えてみる.

正面の右側が新津保建秀の《frame / camera obscura》,左の奥が渡邉朋也さんの《画面のプロパティー》
from 宮越裕生さんによる「光るグラフィック展」レポート:http://www.redbull.com/jp/ja/stories/1331636384236/art-blog-yu-miyakoshi-140228

今回の人選のなかで新津保建秀さんがCMYKに入っていることは,自分的には意外であった.なぜなら,私にとって新津保さんはデスクトップのスクリーンショットなどで構成された写真集『\風景』を撮影した人という認識だからである.もちろん新津保さんは他にも多くの作品を手がけているので,この認識はあくまでも「私個人にとって」ということにすぎないけれど,『\風景』の写真集のデザインをしたのが田中さんだったことを考えると,新津保さんはどこかRGBな感じを重要視している写真家であるということに少なからずの人が頷いてくれるのではないだろうか.いや,田中さんは写真集をデザインしたからこそ,スクリーンショットを最終的に「印刷」するという意味で新津保さんをCMYKに入れたとも考えられる.あるいは,田中さんと新津保さんの関係性云々ではなく,「写真」というメディア自体がCMYKと強く結びついているということかもしれない.

新津保さんは今回の展示では「\風景」の展示バージョン「\風景+」で出していた「カメラ・オブスキュラ」の映像から切り取った画像の作品《frame / camera obscura》を提示していた.「\風景+」ではプロジェクターによって提示されていたものが,今回は「光るグラフィック」のフォーマットに則ってディプレイで提示されていた.それ自体が発光するディスプレイでの表示によって,「カメラ・オブスキュラ」がとらえた光はより鮮明になって,あたかも直接その光を見ているように感じた.新津保さんの「カメラ・オブスキュラ」の作品に関しては,私は一度もCMYKで見ていない.それがCMYKのグループに分類され置かれている.ここには「RGBがあって,CMYKもあるけど,今はその括りをただ便宜的に使いますよ,その代わりにそれを光らせることで見えてくる,あたらしい括りを考えようよ」という田中さんからの問いかけがあるように感じられる.

新津保さんの作品から通路を挟んだ隣に展示されていたのが渡邉朋也さんの《画面のプロパティー》でした.この作品は床に置かれたMacBookのディスプレイの1ピクセルを顕微鏡で拡大したものをデジタルカメラが捉えて付属のディスプレイに写し,その画像をビデオカメラで撮影したものを展示の同一フォーマットのディスプレイに表示するものであった.RGBを構成する赤・緑・青の一揃いの光がディスプレイに表示される.拡大されて,どこか輪郭がぼやけた赤・緑・青の光が黒い平面のなかに浮かび上がって見える.光るグラフィック展の多くの作品の根底には渡邉さんが提示する赤・緑・青に光るグラフィックがある.光によって鮮やかによって提示されている他の作品に比べると,渡邉さんの作品はどこか滲みがあってピクセルの枠をはみだしている.それはRGBの根底を写しだしながらも,少し「印刷」されたような質感を示しているように感じられた.その質感には,赤・緑・青の1ピクセルを捉えるために光学的に拡大してディスプレイに映し出し,それをまた光学的に捉えて映像化しているというプロセスが影響していると考えられる.「カメラ」というCMYKと強く結びついていた装置を映像化の流れのなかに挿入しているから.最終的な出力にCMYKぽさがあると言えればいいのだが,それは思い込みでしかなくて,ここでのカメラは「デジタルカメラ」という撮影したもののほとんどをカメラ付属のディスプレイやコンピュータで見て,その多くは紙に印刷されない装置である.デジタルカメラにとってはCMYKなんてものは,最後に仕方なく付け足されるものにすぎない.けれど,私はこの作品にCMYKぽさを感じた.普段は理念としてだけ存在しているような1ピクセルをそこにあるものとして具体的に提示するために介在した光学的プロセスの連続にCMYKぽさを感じているのかもしれない.これもこじつけであろう.結局ここでもCMYK/RGBという分類は便宜的なものにすぎなくて,要はそこに光っているものをどのように感じ/考えるかという「光」への感受性が問題視されているのではないだろうか.


ここでもう一度,宮越さんによるレポート記事からお借りしたインスタレーションビューの写真を見てみると,新津保さんの作品はそこに何が表示されているのかわからないくらいに白く光っているのに対して,渡邉さんの作品は赤・緑・青の少し滲んだ光がしっかりと見えている.ライトボックスとディスプレイでの作品提示は,実際に見ているときにはともに光っているということで同列であったものが,カメラの眼で捉えられるとここまで違いがあるものとして提示される.宮越さんの記事での他の画像を見てみても,ライトボックスで提示されている作品は白い光となっている.光は光でも,ライトボックスの光とディスプレイの光はここまで異なる状態でカメラに写し取られるのであれば,私たちの眼もまたこれらの光への感受性を高めることで,光そのものの質感を見極めるような能力を獲得していくことになるのかもしれない.

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昔,ディスプレイの光について書いたもの→電子的視覚表示装置が放つ明るすぎない光

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