「サブシンボリックな知能」と Doing with Images makes Symbols
下條
「環境知能」と言うとき,比較的欠けているなと思った視点は,身体や皮膚の感覚,あるいはシンボリックにいく前のサブシンボリックな知能なんです.どういう意味かというと,子供がおもちゃに対してインタラクトしているとき,そのおもちゃにどういう機能があるかなんていう表象を頭のなかにつくらなくても反射的に手を出しているわけです.あるいはそこに本があれば何となくページをめくっているとかね.そうした,ピアジェが言うところの,表象より前の段階の感覚運動知能みたいなものは,安全な言い方をすればそういう研究は将来必要となるでしょう,という言い方になるのですが,そんなことをいっているあいだに,近未来において粗暴なかたちで吹き出てくるんじゃないかなという気がしているんです.(pp.150-151)
ここで言われている「サブシンボリックな知能」という言葉で,昔の発表をまとめ直してみたいと思っている.プレシンボリックな知能/行為|Doing with Images makes Symbols|アレゴリー的思考
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インターフェイス再考:アラン・ケイ「イメージを操作してシンボルを作る」は何を意味するのか.
Re-thinking the interface: What is the meaning of Alan Kay's"Doing with Images makes Symbols"
水野勝仁
Masanori MIZUNO
名古屋大学大学院情報科学研究科博士後期課程
Nagoya University, School of Information Science
Abstract Alan Kay created a slogan for development of user interfaces: Doing with Images makes Symbols. This reveals the essence of the Graphical User Interface (GUI) which millions of people now use all over the world. This paper examines how GUI, based on Kay's slogan, has changed our communication with the computer. In order to explore this topic, I focus on Azuma and Turkle’s argument of "interface value" intuit for thinking about the relationship between our action and new sign surfaces. Next, Kay’s slogan is considered from the viewpoint of its formation process. Finally, I refer to Sperber and Wilson's Relevance theory. I conclude that GUI demands that we, along with computers, act for ostensive-inferential communication in a mutual cognitive environment.
キーワード GUI, アラン・ケイ, 行為,イメージ,シンボル
1.はじめに
アラン・ケイが提唱したスローガン「イメージを操作してシンボルを作る [Doing with images makes symbols]1」は,現在のグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)につながるアイデアを簡潔に表現し,GUI の開発に大きな影響力をもった.ケイのスローガンは,ヒトとコンピュータとのコミュニケーションをどのように変えたのであろうか.現在,世界中に,GUI を実装したコンピュータは数えきれないほどあり,私たちはそれを使って日々の作業を行っていることから,ヒトとコンピュータの関係の変化は,ヒトのコミュニケーションそのものへも影響を与えているのではないだろうか.本論考では,上記のことを考えるために,まずは,一般化した GUI がどのような影響をもっているのかを確認するために,東浩紀とシェリー・タークルの議論を考察する.次に,ケイが,どのような影響のもとで,上記のスローガンを掲げるに至ったのかを明らかにする.最後に,スペルベルとウィルソンの「関連性理論」を参照して,GUI が私たちに提示したコミュニケーションの手段を考える.
2.インターフェイス的主体とブリコラージュの再評価
哲学者の東浩紀は,『サイバースペースはなぜそう呼ばれるのか』の中で,現在のユーザ・インターフェイスの主流を占めているグラフィカル・ユーザ・インターフェイスについて興味深い議論をしている.東は,ジャック・ラカンとスラヴォイ・ジジェクの精神分析の理論をもとにして,シェリー・タークルが1990年代のコンピュータ文化を特徴づけるために用いた「at interface value」という語を分析する2.タークルによると,洗練されたグラフィカル・ユーザ・インターフェイス(GUI)環境をもったアップル社のマッキントッシュが登場する以前のコンピュータ文化は,スクリーン上の情報を背後で操作する主体が問題になっていたのに対して,マッキントッシュが一般化した1980年代後半では,多くのユーザがスクリーンの背後に関心がなく,そこに映っているものがすべてであり,それらを「額面通りの価値(at face value)」で受け取るような態度になった3.東は,この背後を認めない「at interface value」に依存する主体を「インターフェイス的主体」と呼び,「インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも,他方で(言葉で)現実だと信じる4」と書いている.このインターフェイス的主体の起源を,東は1973年にパロアルト研究所で開発された Alto に設定する5.Alto 自体は従来のコマンドライン・ユーザ・インターフェイス(CUI)で動くものであったが,アラン・ケイを中心したグループが開発したオブジェクト指向型プログラミング言語 Smalltalk によって,Alto は GUI 環境を実装することになるからである.その Smalltalk の開発の中心を担ったアラン・ケイが,ユーザ・インターフェイスの開発の目的を「イメージを操作してシンボルを作る」と表現したことに対して,東は次の指摘をしている.
イメージによってシンボルを操作すること --- つまり,スクリーンの上の記号,エクリチュールを操作して「見えないもの」を扱うこと,この単純な発想は,おそらく見た目よりはるかに大きな認識論的な変化を通過している.ラカンは前述のように,イメージをシンボルへ飜訳することだけを考えていた.「見えるもの」を「見えないもの」によって,つまり経験されたもの(現象)を超越論的条件によって基礎づけようとするその企ては,哲学的伝統にきわめて忠実なものだ.しかし GUI の開発者たちはむしろ,見えるものと見えないものとが区別されないスクリーン,イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない「エクリチュール」に満たされた,新たな表面の概念から出発しているように見える6.
東は,GUI 以前と以降にひとつの断絶をみている.この断絶ゆえに,スクリーンの背後を認めない「インターフェイス的主体」が生まれるというのが,東の仮説である.東は,「見えるもの」と「見ないもの」の区別や,「目」と「言葉」との違いにはとても敏感である.だからこそ,ケイの「イメージを操作したシンボルを作る」という言葉に反応しただが,ここでは,もうひとつの「操作」ということが掲げられている.確かに,東も引用の中で,「イメージもシンボルもその操作的な効果でしかない」ということ述べているが,「操作」の扱いは「イメージ」と「シンボル」に比べて,明らかに低い.それは,近代では分割されていたイメージとシンボルが,ポストモダン化した世界では,「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」になったという記号レベルの「きわめてラディカルな変容」を示すことに,東の目的が設定されていたからである7.そして,東の議論は,彼自身がたびたび書いているように,コンピュータ以前のメディア,主に映画に支えられた精神分析の理論に拠っていることから,「操作」というヒトの行為のレベルがどうしてもこぼれ落ちてしまのではないだろうか.
東が言及したタークルは,「at interface value」を生み出したマッキントッシュが,アイコンを使って「机の上」や私たちの対話によるコミュニケーションをシミュレートした世界では,世界をいじくりまわすことが重要だとして,レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」という概念を再評価している.
シミュレーション文化の中でブリコラージュを再評価することは,視覚化[ヴィジュアライゼーション]や,ヴァーチャル・オブジェクトを操作して直観を発達させることを,新たに重要視することでもある.あらかじめ規定されたルール一式に沿っていかねばならないのではなく,コンピュータ・ユーザーはどんどんシミュレートされたマイクロワールドをいじくりまわせばよい.そうするうちに,マイクロワールドとインタラクトしながら,ユーザーは何がどう働くのかを覚える8.
ブリコラージュとは,「ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る」ことであり,そこでの各要素は「具体的で同時に潜在的ないくつもの関係の集合を代表する.それらは操作媒体」と考えられる9.シミュレートされた世界の中で,ユーザは,ディスプレイに表示される具体的なイメージで構成された環境をいじくりまわし,そのことにコンピュータが反応して新たなイメージを表示する.この繰り返しの中で,ヒトは,その環境を理解し,コンピュータとのコミュニケーションを行っていく.すべては,ディスプレイに見えているありあわせのものを「操作」することで行われていく.私たちは,次々に,マウスとキーボード使って,イメージを操作していく.タークルは,ブリコラージュという概念を再評価することで,ヒトが自分の手でコンピュータの環境を操作することの重要性を示している.逆に,このことを東が言及していないことは,彼がヒトの行為のレベルを記号のレベルよりも低くみていることを端的に示しているといえる.このタークルの考えから,東が指摘する「イメージでもシンボルでもない新たな記号様態」を満たされた新しい表面を成立には,「操作」というヒトの行為が深く関わっていると考えることができる.
3.ユーザが操作することを通して学ぶ環境
次は,タークルが言及していないのに対して,東が GUI の理論的起源と設定した,アラン・ケイの「イメージを操作してシンボルを作る」において,「操作」というヒトの行為がどのように考えられていたのかをみていきたい.まずは,ケイがどのようにして「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンに至ったのかをみていきたい.ケイは,マーシャル・マクルーハンの『メディア論』を読み,コミュニケーション・メディアで最も重要な点は「メッセージを受けとることは,メッセージを復元することである10」と理解する.そして,メッセージの背後にあるものを「引き出す」には,ヒトは自分が使用するメディアを内在化しなくてはならないと,ケイは考えるようになる11.マクルーハンを読んでまもなくして,ケイは,シーモア・パパートらが行っていた LOGO の実験を訪問する.LOGO は,子供にコンピュータ・プログラミングを教えることで,学習を促進することを目的にしたプロジェクトであり,実際に多くの子供によるデモンストレーションが行われた.そこでケイが学んだことは,「エンドユーザの特性を考えて設計された特別な言語の方が,勝手に作られた言語よりもうまくこと12」であった.パパートは,子供たちの考えをジャン・ピアジェから学んでいた.ピアジェは,子供は成人になるまでにいくつかの知的段階を踏むということを示した.そして,彼は,その知的段階を,運動の段階,視覚の段階,記号の段階の3つに分けた.パパートは,子供たちの知的段階に合わせたプログラミング言語を作ることで,子供たちの学習を促進することができることを明らかにした.このパパートらの試みは,子供たちに「とても良くできた『ミクロの世界』」を与えたとケイは考え,ユーザ・インターフェイスのデザインが,学習と密接に関係していることを理解する13.
マクルーハンとパパートを経て,ケイは1960年代にアメリカの教育界を牽引した心理学者のジェローム・ブルーナーの考えに出会う.「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンには,ブルーナーの考えが強く影響していることを,ケイは明らかにしている.その影響を考えていくために,ケイ自身の言葉を引用したい.
彼(ブルーナー)はピアジェの結果を継承し実証しているが,ピアジェとは異なる,より強力な方法ととっていた.たとえば,水を注ぐ実験では,子供が細長いコップの方がたくさん水が入っていると言った後に,ブルーナーは紙でそれを隠し,もう一度質問する.そうすると子供は今度は,「水はどこにもいかないから同じはずだ」と答える.ブルーナーが紙を外して細長いコップをまた見せると,子供はさっきよりも水が増えているとすぐさま主張を変えるようになる.
紙でまた遮ると,子供はまた主張を変える.子供は状況を見ているときに一つの推論のプロセスを行い,見えていないときには別の推論プロセスを行う.ブルーナーのこのような実験における解釈は,ヒトに関連する設計の重要な基礎の一つである.私たちの精神は複数の,分割された異なる性質を持つ精神から成り立っているように見える.それらは異なった推論を行い,異なった技能を持ち,しばしば矛盾する.ブルーナーはピアジェの知的段階の各々をそれぞれ別の精神作用に従うものとみなした.彼はそれらの作用をそれぞれを,身体的(インアクティブ),視覚的(アイコニック),記号的(シンボリック)と呼んだ.彼はほかの精神作用の存在を認めながらも,この三つに注目し,実りのある学習環境の創造への重要なステップであるとしている14.
このブルーナーの「多重精神モデル」の影響のもとで,ケイは「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンを作る.そこに用いたそれぞれの要素について,「イメージ」とは視覚的なもので「認識し,比較し,形をつくり,具体化する」こと,「操作」とは身体的なもので「自分がどこにいるか知る,操作する」こと,「シンボル」とは記号的なもので「長い推論のチェインをつなげる,抽象化する」ことと説明している.そして,ここには「具体的な『イメージを操作する』というところから始まり,そしてもっと抽象的な『シンボルを作る』というところへとつながるという意味がある」と書く15.ここで注目したいのは,「複数の,分割された異なる性質を持つ精神」が互いに協力するようなユーザ・インターフェイスのデザインを,ケイが目指したということである.ケイが,パパートのようにピアジェではなく,ブルーナーの考えを重要視し,ヒトに複数の精神作用の存在を認め,それをひとつのインターフェイスにまとめるようなデザインをしようと考えることを可能にしたのは,コンピュータに対する彼のふたつのアイデアが大きく影響していると考えられる.それは,「メタメディア」と「パーソナル・ダイナミック・メディア」である.ケイは,アデル・ゴールドバーグとともに Alto をベースにした「暫定版ダイナブック」を紹介する論文「パーソナル・ダイナミック・メディア」を書き,その中でコンピュータについて次のように書いている.
あらゆるメッセージは,なんらかの意味で,なにかの概念のシミュレーションである.これは具象的にも抽象的にもなりうる.メディアの本質は,メッセージの収め方,変形方法,見方に大きく左右される.デジタル・コンピュータは本来,算術計算を目的として設計されたが,記述可能なモデルなら,どんなものでも精密にシミュレートする能力をもっているので,メッセージの見方と収め方さえ満足なものなら,メディアとしてのコンピュータは,他のいかなるメディアにもなりうる.しかも,この新たな“メタメディア”は能動的なので(問い合わせや実験に応答する),メッセージは学習者を双方向的な会話に引き込む.過去においては,これは教師というメディア以外では不可能なことだった.これが意味するところは大きく,人を駆り立てずにはおかない16.
ここで,コンピュータは「メタメディア」であり,かつ「能動的」な存在であることが宣言されている.コンピュータは,それまでのメディアをシミュレートすることで,様々なメディアをひとつの画面上に構成することができる.メタメディアとしてコンピュータを考えることで,今までは多くのメディアに分割されてそれぞれ表現されてきた「身体的,視覚的,記号的に分割された異なる性質を持つ精神」を協力させることが可能な環境が現れたことになる.しかも,このメタメディアは,多くのメディアのプラットフォームになるだけでなく,能動的な環境を私たちに提供することが重要なのである.ここには,マクルーハンからはじまるケイのメディアへの意識の変化をみることができる.コンピュータとは,多くのメディアをシミュレートできる「メタメディア」であるために,それを使用するヒトは,シミュレートされているメディアのそれぞれを「内在化」しなければならない.内在化とはそれぞれのメディアのメッセージを取り戻すためのコードを見つけることと考えられる.しかし,メタメディアであるコンピュータを使うために,それぞれのメディアのコードを切り換えるための,言い換えれば,コードをまとめる「コード」を見つけ出さなければならず,無限後退に陥ってしまう.そこで,ケイは,コードに変わるコミュニケーションの手段を,コンピュータの能動性に求めたのではないだろうか.
このことは,ケイが,現在の GUI の原型となった Smalltalk のユーザ・インターフェイスをデザインする際に起こった意識の変化を「『機能へのアクセス』から『ユーザが操作することを通して学ぶ環境』へ17」と表現していることから考えることができる.そこでは,ユーザが,自分の手を通して「インタラクティブに変形する道具18」を使うことで,理解できるようになっている.ここで,インタラクティブということを考えてみるために,ケイが,ブルーナーの水を注ぐ実験に注目していることを手がかりにしたい.そこでは,ブルーナーが紙で,水を隠したり,見せたりすることで,子供の推論が異なることが示されている.見えているものが異なると,ヒトは異なる推論を行う.そして,インタラクティブとは,こちらの行為にコンピュータが反応して結果を返してくれるということであるが,それは私たちの行為によって見えているものが変化するということを意味する.このことから,インタラクティブとは,見えているものを,私たちの行為に合わせて変化させて,私たちが異なる推論を形作ることだと考えることできる.このことは,ケイがスローガンで示したアイデアそのものといえる.つまり,ケイは「イメージを操作してシンボルを作る」で,コンピュータによるインタラクティブそのものを端的に表して,コードに変わるコミュニケーションの手段として採用したといえる.
ヒトの行為がイメージを変形させ,次々に新たな推論を導いていくようにデザインされたユーザ・インターフェイスでは,従来のメディアに欠けていた身体的な精神が「イメージを操作する」という形で,視覚的な精神と積極的に協力することになる,ケイは,自らのスローガンに基づいたユーザ・インターフェイスを「ユーザが操作することを通して学ぶ環境」として作り上げて,ヒトの行為を,記号を操作するという抽象的な形ではなく,イメージを操作するという具体的な形で,コンピュータに導入したものと考えることができる.
4.相互認知環境の中での行為
「イメージを操作してシンボルを作る」に基づいてデザインされた環境では,ユーザはコンピュータの情報処理に適した形でコード化されたプログラミング言語を使うのではなく,イメージを操作してコンピュータとのコミュニケーションを行う.しかし,コード化された言語を使わずに,イメージを操作する行為のみでコミュニケーションができるのであろうか.このことを考えるために,ヒトが「コード化された伝達」と「意図明示推論的伝達」という全く異なるふたつの様式の伝達を使用していると考える,ダン・スペルベルとディアドレ・ウィルソンの「関連性理論」を参照したい.
スペルベルとウィルソンは,私たちのコミュニケーションを考察するために「認知環境」という概念を導入する.私たちは,誰もが同じ物理的世界に住んでいるが,見えている現象は,その人の視力とその物理的環境によって決められている.つまり,認知環境とは,ヒトの認知能力とその人がいる物理的環境の関数ということができる19.この認知環境とコミュニケーションとの関係は,次のようになる.
伝達の研究では我々は概念的認知能力に関心があるので,目に見える現象が視覚認知に対して果たすのと同じ役割を,顕在的な事実が概念的認知に対して果たしていると提案したい.次のように定義しよう.(39)ある事実がある時点で一個人にとって顕在的(manifest)であるのは,その時点でその人がそれを心的に表示し,真,または蓋然的真としてその表示を受け入れることができる場合,そしてその場合のみである.(40)一個人の認知環境(cognitive environment)は当人にとって顕在的である事実の集合体である.そうすると,顕在的であるためには,知覚可能もしくは推論可能でなければならない.個人の総合的認知環境とは,その当人が知覚したり推論したりすることのできる事実すべての集合体,即ち当人に顕在的な事実全部の集合体ということである.個人の総合的認知環境とは,当人の物理的環境と認知能力の関数である.それは当人の物理的環境の中で当人が認識している事実全部だけでなく,認識可能な事実全部から構成されている.個人が実際にしている事実の認識,即ちこれまでに習得した知識は,もちろんさらに事実を認識する能力に貢献する.記憶された情報は認知能力の一部である20.
そして,この認知環境を共有することによって,相互認知環境を作り出して,私たちはコミュニケーションを行う21.この相互認知環境の中で,情報の伝達者は「聞き手の思考ではなく,認知環境を直接改変しようとする」が,「認知環境改変の実際の認知効果は一部しか予測できない.伝達者は,行為者一般と同様,ある程度達成を自分が作用できるような意図を形成する.即ち,伝達者は聴者の認知環境に及ぼす効果はある程度左右できるが,聴者の実際の思考に及ぼす効果は左右できる範囲がはるかに少ないので,それに従って意図を形成する22」ことになる.ここでは,思考には直接アクセスせずに,認知環境そのものを改変することが,コミュニケーションと考えられている.重要なのは,認知環境が共有されていることで,言語のようなコードではなく,互いの行為がその環境を改変していくということである.この行為を,スペルベルとウィルソンは「意図明示推論的伝達」と呼び,伝達者が「刺激を作り出し,この刺激によって聴者に想定集合 I を顕在化,もしくは,より顕在化する意図を持つことを自分と聴者相互に顕在化するようにすること23」と定義している.この「意図明示推論的伝達」は,相互認知環境でのヒトの様々な行為に適応され,それは必ずしも言語のようにコードを共有している必要はないとされる.そして,「意図明示推論的伝達は単独での使用が可能で実際に単独に使われることがあるが,コード化された伝達は意図明示推論的伝達を強化する手段としてしか使われない24」と,スペルベルとウィルソンは考える.なぜなら,「言語は,伝達にとってではなく,情報処理にとって欠くべからざるものであり,これこそが言語の本質的な機能25」だと,彼らは考えるからである.スペルベルとウィルソンは,行為,イメージ,シンボルの関係性を大きく変更してしている.シンボルが,イメージや,行為を秩序立て説明するためのものではなくなり,それらをあくまでも強化する手段になって,単独では使われないと考えられているからである.
スペルベルとウィルソンの新しいコミュニケーション理論は,アラン・ケイの「イメージを操作してシンボルをつくる」というスローガンや,GUI のパラダイムが提起した私たちとコンピュータとのコミュニケーションの在り方の変化の見取り図を与えてくれる.ケイが上記のスローガンで推しすすめたのは,コンピュータとヒトとのコミュニケーションを,コード化された伝達から意図明示推論的伝達へと変更していくことであったといえる.GUI は,コンピュータとヒトとをプログラム言語という情報処理に適したコードで結びつけるのではなく,両者の間に,イメージを操作するという具体的な行為が可能な相互認知環境を作り出すことであった.そのためには,ケイが,インタラクションに関してのパラダイム・シフトと呼ぶ「エンドユーザーが頭を働かせているかどうかよりも,どのように働かせているかを十分に理解すること26」が必要であった.それは,ユーザが行うであろう推論を,ディスプレイに表示して,ユーザの行為を導いていくことを意味した.その成功例が,今も私たちが使っている「オーバーラップ・ウィンドウシステム」だと,ケイは書いている.それは,重なっているウィンドウを,マウスを使って一番上に持ってくることで,そのウィンドウを使用環境にするということである.このシステムは,ユーザはいつでも望み通りの行動をとることができる.それは,一番上に来ているもので作業するというのは,私たちの認知環境の中で強い関連性を持つからである.ここでは,コードに基づいたコマンドは必要とされない.
そして,このケイのアイデアを更に推しすすめたのが,ゼロックスから,1981年に発表された事務作業を効率化することを目的とする Star というワークステーションであった.Star は,Alto と同じく,画像によるユーザとコンピュータのコミュニケーションを重視していた.Star の開発者たちは,オフィスのメタファーをコンピュータ・スクリーンに導入した.それは,彼らが,物理的空間と同じような親しみやすい認知空間をスクリーン上に展開したことを意味する.そこには,オフィスを構成するファイル,キャビネット,プリンターなどが,アイコンとなって,電子的に表現されていた.彼らのもう一つのユーザインターフェイス設計の柱は,タスク分析であった.これは,ユーザがコンピュータを使って何を行うかを,予め分析することだった.その分析に基づいて,コンピュータを使って行う作業に関連するすべてを,目に見える形で,スクリーン上に表示することを目標とした.そこで,Star のデザイナーたちは,「許される行為」という言葉を用いている.これは,アイコンを選択したときに,次にできる作業を制限していくことであり,それを見える形で表したのであった.これらによって,ユーザは,スクリーンに見えているものに導かれ,迷わずに作業が行うことができるようなった.これらのことは,Star の開発者たちが,コンピュータ・スクリーンを,ヒトの短期記憶を補助する「視覚のキャッシュ・メモリー」と考えていたことが影響している.彼らは,すべてを見える形として,スクリーンに表示することで,スクリーンの世界が現実の世界となることを目指していた.それは,ヒトとコンピュータとの相互認知環境を作り出すために,スクリーンに「顕在的な事実の集合体」を映し出すことを意味する.
Alto から,Star へと継承し,マッキントッシュで一般化していく GUI には,ヒトとコンピュータとの間に相互認知環境を作り,行為によってその環境を変えていくという考えが根底に流れているといえる.つまり,アラン・ケイの「イメージを操作してシンボルを作る」というスローガンが示していることは,ユーザ・インターフェイスをデザインする際に,情報処理の論理に基づいたコードではなく,イメージの顕在性を基盤とした行為による意図明示推論的伝達をコンピュータ操作の主要手段として考えることであったといえる.
5.おわりに
本論考では,GUI によって,ヒトとコンピュータとのコミュニケーションがどのように変わったのかということを考えてきた.そのひとつの結論として,スペルベルとウィルソンの理論を参照して,ケイの「イメージを操作してシンボルを作る」というアイデアに基づいた GUI では,コードを必要としないコミュニケーションが行われているということ導いた.それは,ひとつの認知環境として「顕在的な事実の集合体」を,私たちに提示しつづける機能を,GUI が担っていることことを意味する.この論考をはじめるために,「インターフェイス的主体は仮想現実を一方で(目で)虚構だと知りつつも,他方で(言葉で)現実だと信じる」という東の考えを引用したが,ここには知るべきコードや,信じるべきコードの存在が前提されている.私たちの前にあるのは単純に「顕在的な事実の集合体」であり,そこには,コミュニケーションを成立させると信じられてきたコードが存在しない.私たちはただ提示されるイメージを自らの手で操作しつづけているだけなのである.
参考文献
1) Kay, A. (1990): ‘User Interface: A Personal View’ in Laurel,B. Ed. “The Art of Human-Computer Interface Design”, Addison-Wesley,上條史彦,小嶋隆一,白井靖人,安村通晃,山本和明訳,「ユーザーインターフェース:個人的見解」『ヒューマンインターフェースの発想と展開:人間のためのコンピューター[新装版]』,ピアソン・エデュケーション,2002.p.156.
2) 東浩紀. (2007): サイバースペースなぜそう呼ばれるのか,『情報環境論集S』,講談社,pp.265-282.[初出:第1章 サイバースペースは何故スペースと呼ばれるのか 5,『InterCommunication』25(1998年秋)号,NTT出版,1998年8月]
3) Turkle, S. (1997): “Life on the Screen”, Simon & Schuster,日暮雅通訳,『接続された心:インターネット時代のアイデンティティ』,早川書房,1998.pp.29-30.
4) 東,前掲書,p.280.
5) 東,前掲書,p.279.
6) 東,前掲書,p.334.[初出:第1章 サイバースペースは何故スペースと呼ばれるのか 8,『InterCommunication』29(1999年夏)号,NTT出版,1999年5月]
7) 東,前掲書,p.335.
8) タークル,前掲書,p.69.
9) Levi-Strauss, C. (1962): “La Pansee Sauvage”, Librairie Plon,大橋保夫訳,『野生の思考』,みすず書房,1976.pp.22-23.
10) ケイ,前掲書,p.151.
11) ケイ,前掲書,p.151.
12) ケイ,前掲書,p.152.
13) ケイ,前掲書,p.153.
14) ケイ,前掲書,pp.153-154.
15) ケイ,前掲書,p.156.
16) Kay, A. and Goldberg A. (1977): Personal Dynamic Media, “Computer”, Vol. 10, No. 3, IEEE, 鶴岡雄二訳,浜野保樹監修『アラン・ケイ』,アスキー,1992.pp.35-36.
17) Kay, A. (1977): The Early History of Smalltalk, “ACM SIGPLAN Notices”, Vol. 28, No. 3, ACM, p.84.
18) ケイ,同上書,p.84.
19) Sperber, D. and Wilson, D. (1986, 1995): “Relevance: Communication and Cognition, 2nd Edition”, Blackwell,内田聖二,中逵俊明,宋南先,田中圭子訳,『関連性理論:伝達と認知 第2版』,研究社出版,1999.p.46.
20) スペルベル & ウィルソン,同上書,p.46.
21) スペルベル & ウィルソン,同上書,p.49.
22) スペルベル & ウィルソン,同上書,p.69.
23) スペルベル & ウィルソン,同上書,pp.75-76.
24) スペルベル & ウィルソン,同上書,p.75.
25) スペルベル & ウィルソン,同上書,p.209.
26) ケイ,「ユーザーインターフェース」,p.150.