カーソルの先


「カーソルの先」のメモ
E. H. ゴンブリッチ『芸術と幻影』1972
すべてイメージの再認は投射や視覚的予期などとかかわりありとする可能性は,近年の諸実験の結果強まっている.もしもあなたが観察者に,指差している手とか矢を見せると,彼はなんとかしてその位置を運動の方向に移したいと思うものらしい.このように,予期のかたちで潜在的な運動を見ようとするわたくしたちの持っている性向がなければ,美術家たちは,静止しているイメージのなかに,速力の暗示を決してつくり出すことはできなかったであろう.(p.310)
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奥井一満(監修)『ディスプレイの情報世界:シミュレーションと擬態の構造』1990

ディスプレイの効果とは知らず知らずのうちにある状況を安定させていくような効果です.そういう意味で,ディスプレイは,むしろシミュレーションに近い.シミュレーションに同質化する効果がある.A と A’ というようにまったく同質に近づけてしまう.ところが擬態は A と B が似たように見せる術です.この二つには本質的にちがいがある.擬態は同種間では少なくとも生物学的には意味がない.(p.264)

相手がわからない不安が出発点だから,それが確認できる状況になるまでもっていかなくてはならない.それが信号であり,ディスプレイなんでうすね.オスとメスと出会いの出発点に,「向こうから来る相手は何だろう」という不安がある配偶戦略としてはマイナスですから,それを明確にしていくために,初めから信号を出そうということになる.(p.271)

現代になって,エレクトロニクス・ディスプレイとでもいうべきディスプレイが生まれてきましたね.

奥井
それは人間の脳に似たような機械であるコンピュータの出現で,当然生まれるべくして生まれたものでしょう.CRT ディスプレイが出るまでは,コンピュータは紙に数字やドットで情報を打ち出していた.それまでは,いわば計算機,そろばんの進化したものでしかなかった.
しかし,CRT ディスプレイによって,視覚的なものですが,人間との擬態的なコミュニケーションが可能になったんですね.それで人間と機械との間のディスプレイが開発されるようになったんですが,それも,これまで話してきたディスプレイの原理にもとづいているです.(p.283)

ディスプレイ自体は個人的でも一般的でもどちらでもいんですよ.つまり「提示」することがディスプレイなんですね.その意味づけは受ける側の問題です.「提示」と「受け手」の間で初めて,社会的な意味をもつ.つまるところ,ディスプレイとは「存在」の自己主張あるいは自己表現です.空間のディスプレイといわれるものも,そこに存在するすべての主張です.自然界ではごく当たり前に「存在」するものが,うまくディスプレイ的配置をしている.人間はこれに手を加えて「つくる」作業をしている.そこに面白さと無理が共存するのでしょう.(p.284-285)
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藤幡正樹『art&scienceの現在形(2)メディア・アートの未踏領域』2005
インターフェイスが振りまいてきた幻想は,ヴァーチャル・リアリティばかりではない.身近なコンピュータ・インターフェイスであるマウスでさえも,コンピュータ内のありとあらゆるデータに,クリック一つで触れることができるかのような幻想を与えた.(p.116)

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