イメージ,痕跡,行為の結びつき

はじめに,マジック・メモとスケッチパッドとを論じるために,キャサリン・ハイルズの「刻み込みの技術」を参照したい.ハイルズは,『ライティング・マシーン』において,次のように「刻み込みの技術」について書いている.

ここで,「刻み込みの技術」という言葉の意味をはっきりさせておこう.印刷された本においては,ページに記されている文字は明らかに刻み込まれたものである.なぜなら,それらは,紙の上にインクの痕跡として形を形成しているからである.コンピュータは,電極を変化させ,それらをバイナリコードと組み合わせることで,C++ や Java といった高級言語の命令を実行し,蛍光物質をブラウン管に光らせることができる.このことから,コンピュータもまた,刻み込みの技術を用いていると考えることができる.つまり,刻み込みの技術として考えられる装置は,痕跡として読むことができる物質的変化を引き起こさなければならないのである.2-4)

ハイルズの定義をみると,「刻み込みの技術」とは,私たちに見える形としての痕跡を作り出す技術である.室井尚は,このような「刻み込みの技術」による痕跡付けという原理は,自然の中にも見出される現象であり,「古代からコインやメダルの鋳造や印鑑などにも用いられてきた技術でもあった」2-5) と指摘している.
ここで注意したいのは,「刻み込みの技術」の起源の古さとともに,その技術を用いて作り出された痕跡を,私たちが,どのように見てきたかということである.ウィリアム・アイヴァンスは,「昔の手作業の版づくりでは,製版のための線と報知のための線が同じであった」と書き,版画の歴史において,その技術の誕生からハーフ・トーン印刷という新しい方法が生み出されるまでの長い間,製版のために刻み込まれた痕跡そのものが,ヒトに視覚的な報知を行うための線として,印刷面にそのままのかたちで押しつけられてきたことを指摘している.2-6) また,ジル・ドゥルーズは,絵画の歴史を要約した箇所で,絵画においては,長い間,手覚的(manuel)なものが視覚的なものに従属してきたことを指摘し,それを「古典的従属関係」と呼んでいる.2-7)
このように,私たちは,紙の上のインクや,コンピュータ・ディスプレイ上に提示されている蛍光物質の変化を,装置によって刻み込まれた痕跡として見ているわけではなく,私たちに視覚的に何かを示してくれるものとして見ているということができる.そこで,ヒトの手,あるいは装置によって刻み込まれたものを痕跡,そこから派生する視覚的な総体を,イメージと呼んでいく.これらのことから,鋳造や印鑑,版画,印刷といった,古くからイメージを作り出してきた装置は,「刻み込みの技術」による痕跡付けを原理とし,痕跡とイメージとが強い主従関係で結びつく「古典的従属関係」によって,ヒトに,イメージを提示してきたと考えられる.そして,この装置が作り出す,痕跡付けによって生じる視覚的なものを,私たちは,伝統的にイメージと呼び,イメージを「描く」という行為は,痕跡付けのことだと考えてきたということができる.
ここで,私たちの行為は,キャンバスや紙というイメージを表示する面に対して,直接痕跡を刻むことである.「直接」とは,例えば,ペンの先を紙の上に,自分が描きたいところに正確に持っていき,ペンの先を紙の表面に接触させることである.それは,描きたいイメージに合わせて,手を動かすと,その手の動きに一致した痕跡が刻まれ,それがイメージとして提示されることを意味する.ここでは,行為=痕跡=イメージという関係が成立している.2-8)
しかし,この行為=痕跡=イメージという関係は,不変のものとして存在しているのであろうか.コンピュータという新たなイメージ発生装置が,この痕跡とイメージとの結びつきの間に起こりつつあった変化を明白なものにしてしまったのではないか.
ハイルズの言うように,プログラムによる指示通りに作動する電子機器がスクリーンの表面の蛍光物質に変化を与えることで,行為=痕跡=イメージを生み出しているのだとすれば,なぜ,私たちは,その行為=痕跡=イメージを,何度も,自由に書き換えることができるのであろうか.そこでの痕跡とイメージとの関係は,自由に書き換えることができない版画や活版印刷による書物などの痕跡付けをもとに生成される行為=痕跡=イメージという関係と同じと言えるだろうか.コンピュータという装置は,伝統的な「刻み込みの技術」の装置とは,明らかに異なる原理によってイメージを生成しているのではないかということを考えてみる必要がある.そのために,フロイトのマジック・メモとサザーランドのスケッチパッドを取り上げる.
この二つの装置が,「刻み込みの技術」と,どのような関係をもつ装置なのかということを示したい.フロイトは,マジック・メモに関して,次のように書いている.
マジック・メモは,古代において粘土板や鑞盤に記録したのと同じ方式を採用しているのであり,尖筆のようなもので表面を引っ掻くと,表面がへこみ,これが「記録」となるのである.マジック・メモではこの引っ掻く動作は直接行われるのではなく,ボードを覆った二枚のシートを介して行われる.シートの上から,尖筆でパラフィン紙に覆われた鑞盤の表面に文字を書きつける.このようにして形成された溝が,セルロイドの灰白色の滑らかな表面の上で,暗い文字として見えるのである.2-9)
また,サザーランドも,スケッチパッドに関して,「普通のペンとちがって,スタイラス自体は,直接,ディスプレイの表面に痕跡を刻むことはない.「ペンの先」と「紙」の間には,コンピュータが存在している」2-10) と述べている.マジック・メモとスケッチパッドにおいて,筆記具の先が,イメージを表示している表面に対して,「直接」痕跡を刻むことがないということが,フロイトとサザーランドの言葉からわかる.このことは,この二つの装置が,イメージを表示する表面に,直接,痕跡を刻み込むことでイメージを生成してきた従来の装置とは異なること示している.ここに,イメージを発生させる装置の新しい可能性をみることができる.しかし,マジック・メモとスケッチパッドのそれぞれにおいて「直接,痕跡を刻まない」ということが意味していることには違いがあり,そのことが,これら二つの装置における,イメージ発生装置としての基本的性質を全く異なるものにしている.そして,イメージと痕跡とが,それを生み出す私たちの行為に密接に関わっている以上,その変化は,「描く」行為の変化をもたらすと考えられるのである.

2-4)
2-5)
2-6)
2-7)
2-8)
この関係は西洋と東洋では多少異なっているかもしれない.石川は,アジアの軟筆・毛筆には行為と痕跡との間にあそび=ずれがあるとしている.だが,軟筆・毛筆においても,行為=痕跡=イメージの関係は基本的に成立していると考えられる.

西欧の硬筆と東北アジアの軟筆は,西欧思想と東北アジアの思想との違いを明らかにしている.筆尖が硬く,硬い対象に対して傷をつける硬筆の尖筆は,明らかに人間の側が一方的にふるまうことのできるものと考えている.…… これに対して,東北アジアの軟筆は,加えた力と反発する力との間にあそび=ずれがあって<触覚>は微妙である.軟筆においては書き手のふるまいとそこに生まれる<痕跡>とのあいだには,最初からずれが生じることが前提となっている.(石川九楊,『筆蝕の構造』,筑摩書房,pp.173-174
2-9)
2-10)
Ivan E. Sutherland, ‘Computer inputs and outputs’, Scientific American 215.3 (September 1966), p.95

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