「機能の不在」を体現するカーソル

IKEA の批評性はふたつある.まず第一に,ディズニーランドのように演出的でありながら,キャラクターのような記号に頼っていないこと.そして第二に,人々のふるまいを厳密に規定し,コントロールするように形態が決められていることである.IKEA ほど明快に形式化されていないにせよ,一般的に商業空間では全体を見渡すことのできる視覚的な一望性や,決まった通路を歩かせるなど身体的な局所性を定義する方法として建築が盛んに用いられているにもかかわらず,既存の建築論は視覚的なシンボル性や,「売り場」「倉庫」「通路」などの室名に還元されるような抽象的な機能と空間の関係以上の意味を発見してこなかった.(pp.88-89)
グーグル的建築家像をめざして:「批判的工学主義」の可能性,藤村龍至 in 思想地図 vol.3 特集アーキテクチャ,東浩紀・北田暁大編
この文章を読んだ時に,私はディスプレイ上の矢印,カーソルのことを考えた.カーソルという普段矢印の形をしているものは,「キャラクターに頼らない」記号であり,矢印から時計や色鮮やかな風車,ペンなど様々に形を変えることで私たちのコンピュータへの振る舞いを厳密に規定している.「IKEA = 人間工学的建築の可能性」と書かれた少見出しのもとに引用した文章はある.私が研究している建築ではなく,ヒトとコンピュータとのインターフェイスであるが,そこでは「使いやすさ」という名のもとに,私たちの行為を「人間工学的」に分析している.その結果を用いて,私たちの行為を巧妙にコントロールしたインターフェイスが生み出されている.

私たちは,今まで,マウスやトラックパッドなどのデバイスと密接に結びつき動くカーソルを常に動かすことでコンピュータを使ってきた.手はデバイスを動かし,目はカーソルを追う.視線は手を見ることなくディスプレイ上のカーソルを見続け,手は目が見ているカーソルに基づいて動く.実際に動いている手を見ることなく,手とともに動くカーソルを見続けて作業を行う.

マルチタッチ・ジェスチャーは,カーソルをディスプレイ上に置き去りにする.手の動きに基づいて画面上のイメージが動くのだが,カーソルだけはそのとき動かない.今までぴったりと手の動きに寄り添ってきたカーソルが全く動かくなる.カーソルの存在が突然,宙に浮いてしまう.私たちがジェスチャーを行った瞬間,今まで特権的な存在だったものが,突然その他のイメージになってしまう.カーソルは,私たちの行為を厳密に規制するものではなくなる.



そのときとても不思議な感覚がカーソルから発せられているような気がする.今まで担ってきた行為を規制するという責務から解放された安堵感,責務を取り上げられた寂しさなどを漂わせディスプレイ上で動かずにあるカーソル.

ともに「使いやすさ」の名のもとにデザインされているカーソルとマウスなどのデバイスのつながりと,それらを無効にするマルチタッチ・ジェスチャー.この狭間で,ディスプレイ上で一瞬居心地悪そうに映し出されるカーソル.このときカーソルに明確な機能はない.ただそこにあるだけである.マルチタッチ・ジェスチャーを行っている際,なぜカーソルは消えないのか? 直前の行為の痕跡を示すため.私たちの身体と一瞬その関係性を切り離されても,それでもなお直前の関係を示し続けるカーソル.それゆえに,私たちはまたすんなりとジェスチャーから離れ,カーソルとマウスとのつながりに入り込める.人間工学的に決められたふたつの行為の間を行きつ戻りつするヒトのふるまい,その中継点としてのカーソル.以前書いたものとは異なる意味での中継点が,マルチタッチ・ジェスチャーという参照項ができたために生じた.
何も指差していないカーソルが指示する「ここ」「これ」というのが,デスクトップ画面全体という「無意味な極限という理念的存在」を指示している,と.カーソルは,郡司がオープンリミットと呼ぶ指示詞の機能を取り込んだイメージとして,その機能から何も指していなくても無意味ではないことを,私たちに示すのである.さらに,この→のイメージをした指示詞は,言葉の指示詞と違い,常に表示され動くことができる.そのため,理念的存在と具体的個物の間のつなぐ過程を,私たちに見せることができる.私たちが,何も指差していないカーソルという→のイメージを,アイコンやメニューの上に移動させようとしているのは,「意味を指定せよ」と指示詞にツッコミを入れる過程を見ていることを意味する.特定の何かを指しているわけではないが無意味ではないカーソルと,何かを確かに指定しているカーソル,どちらも私たちの手がマウスを通して動かす,「これ」「ここ」という指示詞の機能を取り込んだ→のイメージであることには変わりがない.そして,それは,私たちが意味を求めて動かすことで,その指差す対象が次々に変わり,その意味は次々に変わっていく.私たちは,その過程をすべて見ることができる.つまり,カーソルは,指定すると「意味を指定しろ」と喚起される「意味の不在」を指定することも含めて,ディスプレイ上のイメージの配置の中で,「これ」「ここ」の意味を指定するためのプロセスをすべて見せるイメージといえる.それゆえに,GUI には,そのはじまりから終わりまで,カーソルを中心にして,緩やかではあるが途切れることのないイメージの相互関係が生じる.
GUI に生じる、緩やかではあるが途切れることのないイメージの相互関係:カーソル/指標記号/指示詞
「意味の不在」を指定するカーソルと「機能の不在」を体現するカーソルとの間を行き来することで,インターフェイスに「抽象的な機能と空間の関係以上の意味を発見」することができるのではないか?

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