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トークしてきました

三輪健太朗著『マンガと映画 コマと時間の理論』刊行記念トークショー「メディアの狭間から考える」 に出て,トークしてきました. 私の役割は「マンガ・映画以後」ということで,三輪さんが著書のなかで「フレームの可変性」ということ言っていて,でも,マンガでは読者が「コマ」を直接は変えられないよねということで,ブラウザのウィンドウの可変性を強く意識している ラファエル・ローゼンダール さんの作品を紹介しました. トークではうまく話せませんでしたが,ローゼンダールさんは初期のアニメの「動き」も強く意識している作家です.感覚的に気持ちいい「動き」をとても考えていて,自身のブログにいくつかテキストを書いています.初期のアニメについてはトークでも増田さんが取り上げていたので,この辺りからもネットアート,もしくはブラウザ上の表現と「マンガと映画」を考えることもできたかもしれません. いつもながら,自分のトークには反省だらけですが,司会の松谷さん,岩下さん,増田さんのそれぞれの専門からの問題提起,そしてそれに対して見事に応答していた三輪さんのおかげでとても刺激的な時間を過ごすことができました.ありがとうございました! −− 最後におまけと自分のためのメモ トークでのスライド(ボツスライドつき) ウィンドウって,大きさを変えられますよね? 最初はクワクボリョウタさんの影絵シリーズも取り上げようと思っていました.クワクボさんは影絵をメディアとして使いながら,「フレーム」をなくしつつ線路という一本のラインに沿って「物語」を想起させる作品形態から,影をフレームで区切り,ループした抽象的な表現へと変化させました.この変化は「コマ」と近代の時間性と関係があるのかどうかを考えていました. また,ローゼンダールさんは可変的なフレームをもつ抽象的な非物語的な表現を行い,クワクボさんもフレームをつくることで影を抽象化して非物語的な表現を行っています.あと,拡大縮小自由な影は「ベクター」画像になるでしょう.色彩は全く異なりますが,このふたりは作品が「クリーン」な感じも似ている感じがあるので,また改めて考えてみたいです.

お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_18

記事を書きました→ 「いま、映像でしゃべること?- Orality in Moving Image -」が開催 12月7日、8日に渋谷ヒカリエ 8/ COURTで開催された東京藝術大学大学院映像研究科オープンラボ「いま、映像でしゃべること? – Orality in Moving Image -」presented by GALAXY Lab. について書きました. 記事のなかで「私はここ1年くらいのあいだ,スマートフォンを使った作品に対して言語化できないモヤモヤしたもの感じていた」と書いていますが,このモヤモヤのキッカケは今回も出品していた谷口暁彦さんの個展「 思い過ごすものたち 」でした.この展示を見てブログを書いたのですがそのタイトルが「 ユラユラフラフラしているモノ 」なので,ユラユラフラフラしたモノに対してモヤモヤをずっと抱いていたといことになるでしょうか. 「いま、映像でしゃべること?」ではサムスン電子のGALAXY というスマートフォンが使われていました.タッチ型インターフェイスを備えたデバイスですが,今回は「タッチ」という部分ではなく,その板状のかたちがフィーチャーされていました.板状のデバイスがつくることができる映像の可能性を探るという感じです.ただその際に「映像」だけが取り上げられていることが気になりました.1日目のトークに出ていた徳井直井さんは私とは逆の観点ですがこのことを上手く指摘してくれています. モバイル端末を使った映像表現というとどうしてもOSが取り込んだ映像データをソフトウェアの上でごにょごにょすることを考えがち.  一方で開発者でない芸大生はまず端末を設置するフレームをレーザーカッターで作ったり,カメラにつけるアタッチメントを作ったり,端末をのせて走らせるラジコンを作ったりと、 OSがデータとして取り込む前の映像,そしてディスプレイに表示され出力される映像の見せ方,端末の「外」を最大限に利用していました. Nao Tokui loves to write.  私は徳井さんとは逆に端末の「外」を利用したものよりも,「センサーをハックする」というテキストを会場で販売されていたブックレットに書いていた谷口さんの作品のように端末の「内」も最大限に利用したものに惹かれました.それは目の前にある一枚の...

グリッチの表と裏:「幸村真佐男 glitch」展を見て

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名古屋の ギャラリーノイボイ で開催された「 幸村真佐男 glitch 」展を見てきた.ギャラリーの壁面に大きくプリントされたグリッチの画像が展示されていた.そのなかで特にガラス面に展示された作品が興味深かった.ガラス面のほうにグリッチ面=印刷された面を向けているので,展示室内からみると印刷面の裏を見ることになる.単に印刷の裏面なんだけれども,グリッチの「裏」を見ている感じがして面白かった.「グリッチの裏」ってなんだろうという疑問自体が面白い. ヌケメ さんのグリッチ刺繍の裏側とかも面白いかもしれない.見たことはなけれども,表はグリッチで,裏もグリッチぽい感じでも1本の糸がつながっている感じではないだろうか. Exhibition of Glitch Embroidery in ARS Electronica Center Main Gallery | 2013 works | Until the End of this Nov. | Photo:Dorita 幸村さんのは画像をプリントしたものだから,表と裏とではズレがないというか,表の画像が裏に透けているだけなのだけれど,裏から見たグリッチは異質な感じがした. 作品を見ていて,幸村さんが「デジタル写真はCGだ」と言っていたことを思い出した.今回のグリッチの展示はその「CGさ」が際立っていた.データの不具合が表出されたことによって,データを具現化していく演算との関係が見えてくる.不具合を起こすことでそこに「演算」が見えてくる.グリッチの裏側を見ることは「演算」の裏を見るということには直に結びつきはしないけれど,表が「演算」を強く意識させればさせるほど,裏の意味を考えてしまう. 印刷されたものの表と裏.データの印刷の表と裏.グリッチの印刷の表と裏.データの表と裏.グリッチの表と裏.表があったら裏があるのか? 表もなければ裏もない.そんな世界もあるのではないか?

GIF 3D Galleryの考察:最前面の画像の立体感/モノ感

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谷口暁彦さんの「 GIF 3D Gallery 」.気になっていたけれど,取っ掛かりがなくてそのまま.そのあいだに 海外のサイト にも紹介されていて,それでもなかなか考えられずにいて,多分今もそうなんだと思う. 「GIF 3D Galleryの考察:最前面の画像の立体感/モノ感」というメモ書きが,僕のMacのディスプレイにあります. GIF BOOK で「 The Gif Connoisseur 」を考察したときに,「最前面−前面−背面−最背面」という重なり=距離の問題を指摘しました.GIFをみている「おじさん」は「最前面」でGIFを見ているということを考えました.そのあと,GIF論文を書きながら,GIFを見ている「おじさん」は,GIFを見ているのではなくGIFと衝突しているのではないかと考えました.でも,よくよく考えてみると「衝突」はしていない,だけど「遭遇」はしていると考えるようになりました.「見る」というよりも,もう少しなんか「モノ」というか,そこに存在するものに出くわすという感じ.そして,ディスプレイにGIFを見ている「おじさん=私」も,GIFと遭遇しているのではと考えたわけです. おじさんが最前面にいるように,ディスプレイを見ている「私」も「最前面」にいるという感じ.「レイヤー=層」というような別々の平面にいるのではなく,同一平面にありながら,重なり順が異なるという感じ.Illustratorを習得するときに,オブジェクトの重なり順というのがイマイチ体感できかなった.「レイヤー」はすんなり理解できたけど,オブジェクトの重なり順は違和感があった.でも,考えてみれば,描いた順に重なるというのは,リアルの世界で出来事に近いというか,そのものなんですね.でも,それに対して違和感を懐いた.「レイヤー」という程には明示されない感じに違和感を感じたのだと思う.Illustratorのレイヤーのウィンドウを開いて,さらにひとつのレイヤーを見れば,オブジェクトの重なり順を確認することができるから,レイヤーと同じと言えば同じなんだけれど… レイヤーのなかにレイヤーがあるような入れ子になっている部分に違和感を感じているのかもしれないと,書きながら思った.で,言葉もちがう.「レイヤー」と「オブジェクトの重なり」.言葉がちがうのであればその存在のニュアンスもやはりちがう. ...

新津保建秀さんの写真集『\風景』のレビューを書きました

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行している「 JunCture 超域的日本文化研究 」の第4号「特集:インタラクトする風景」に,新津保建秀さんの写真集『\風景 』についてのレビュー「 『\風景』で体験する居場所がはっきりしないフラフラした感覚 」を書きました. 新津保建秀さんの写真集『 \風景 』をはじめに見たときの衝撃をどうにか言葉にしたくて,このレビューを書いていました. 「\風景=風景」を眺める|「\風景」をスクリーンショットで撮る|写真集『\風景』をめくる ,という小見出しでレビューを書きました.以前ブログに書いていたものをまとめればどうにかなるだろうと思っていたのですが,ブログと印刷物というメディアのちがいが影響して,全く異なるものになりました.その結果,レビュー自体も最後は「写真集」というモノとそこにある「\風景」との関係を探るものになりました.(これは逆ですね.レビューをそのように考えて書いたら,いまここに「ブログと印刷物というメディアのちがいが影響して」と書いているのでしょう,本当のところは.じゃ,そうやって書きなさいという感じですが,なんかこの書き方の順序が面白かったので,このままカッコ書きをいれてみます) そして,「\風景」についてはいろいろと書いてきました.いろいろと書いてるうちに,「\風景」は写真集だけではなく,展示というかたちになり,電子書籍になりました.そして,それらについても考えました.まだまだ「\風景」の体験を言葉に移すことはできていないですが,リアルとネットというか,データというか,そんな感じのものを含んだ「あたらしい風景」を捉えるための言葉を考えていきたいなと思っています. 『\風景』から感じたざわついた感じをいつかまとめるためのメモ 他人のディスプレイに表示された,無造作でだらしないウィンドウの配置とその枠に記された情報を読むこと 「\風景=風景」あるいは「システム=風景」 お仕事:メディア芸術カレントコンテンツへの記事_5 「\風景」電子版:「\landscape」と「\landscape_archive_7.5」 新津保建秀氏の個展「\風景+」が開催 最後に,興味がありましたら,『JunCture』は 笠間書院 を通して書店やネットで販売されております...

invisible loophole 展のギャラリートークの前|後

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invisible loophole 展のギャラリートークの前 カーソルという「見えない記し」.フロイトが示したような意識と無意識の2層構造.ここで,マジックメモに注目すると,3層構造がでてくる.カーソルはヒトとコンピュータとが作り出す3つめの層.カーソルの層|意識|無意識.という3層.意識の方向付けを行う「カーソル層」.意識の流れ.志向性.意識の方向.意識と無意識に影響を与える「向き」を示す層.ヒトとコンピュータとが融合することでできた新たな層.でも,それは「見えない」,見えているけど,見えない.だから,「見えない記し」.この見えない記しが見える記しを動かし続け,何かが記され続ける.  マウスからグリッチへ.  データが直接破壊されるグリッチ.すべてが記号の中で破壊が遂行される.ヒトのみが記号の破壊を認識できるのかといえるのが,コンピュータも,アプリケーションごとにその破壊を認識している,という面白さ.記号の破壊.見える破壊と見えない破壊.  グリッチからiPadへ.  iPadはデータとともに粉々に砕け散る.フィジカルに散る.リモートなし.現実にべったりとマッピングされたガジェットとしてのiPad.べったりだけど,その表面は記号の世界.現実にべったりとしたフィジカルな記号の世界.それゆえに,iPad Head Girl では「顔」から「その他のもの」に変わった時に,それが「フィジカルな」記号であるがゆえに,フィジカルと記号とが引き離されるのを見ることになる.だから,とても違和感を感じる.  invisible loophole 展のギャラリートークの後  昨日は,invisible loophle という展覧会のギャラリートークをした.トークしている中で,カーソルというヒトとコンピュータとの複合体の最前面を介して,コンピュータがヒトをまねているし,ヒトもコンピュータをまねているのではないかという考えがでてきた.コンピュータの反復性を,ヒトが行うようになる.コンピュータの思考にまねる.コンピュータの身体性をまねる.  映像に関して.今まで映像は,深層と表層から成り立っていたと考えられる.そこにコンピュータ...

リアルタイムと3Dにかんするメモ

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リアルタイムに関するつぶやき 身体に関わる「今」,現実の高解像度化,コンピュータの計算,速度ーリアルタイムーコントロール,身体・情動への作用. http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/42121427368947712 空間を消滅させるリアルタイム:ヴィリリオ,身体・情動をコントロールする微少化しながらも,情報によって拡大される「今」:ハンセン,コンピュータ時間がヒト時間を浸食してきている→「今」の不確定化:複数化 http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/42121639109857280 不確定化・複数化した「今」を安定させる「再帰」という行為・アーキテクチャ,「再帰する今」の中で,ヒトとコンピュータとは同じ時間軸に存在するようになる,コンピュータと同じ時間にあること=ただひとつの時間の形成→リアルタイム http://twitter.com/mmmmm_mmmmm/status/42121762955214848 マーク・ハンセンの情動と「今」との関わりのなかでは,ヒトの身体はデジタルイメージと協働する「プロセッサ」という今までとは異なる役割をになうことになる.それは,新しい身体をつくり出すこと.不確定化・複数化した「今」とともに,身体も不確定化・複数化する.複数化した「今」と「身体」とのなかで,それぞれのひとつひとつが結びついて,ただひとつの「タイムライン」を形成するのかもしれない. ヒトとコンピュータとで共有される「タイムライン」の中でのリアルタイム.リアルタイムが空間を排除するとヴィリリオが指摘したが,今度は空間を排除した時間の空間化が起こっている.オブジェクト指向における情報隠蔽のように,時間を空間が隠蔽する.そして,「新たな平面:タイムラインを表示するディスプレイ」が生じている.というか,コンピュータには「空間」というものがないかもしれないので,ヒトとコンピュータとの「あいだ」という関係における時間という属性をサンプリングして,空間化しているのかもしれない. 3Dに関するつぶやき 立体像がほぼ完全に「現実」を「映像」としてコピーできるようになり,現実と立体像とが融合する.そして,その立体像に立体視がつけ加わることにより,私たちは「現実」が「3D」つまり...

「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相

名古屋大学大学院文学研究科付属日本近現代文化研究センター が発行する『 JunCture 』第2号に「「薄さ」を与えられた平面:藤幡正樹の作品における平面の諸相」が掲載されました. この論文は藤幡正樹の作品《禁断の果実》《Beyond Pages》《未成熟なシンボル》における「平面」の性質を GUI の「平面」などとと対比しながら考察したものです. はじめに コンピュータと出会い、コンピュータ・グラフィクスにとりつかれてとうとう十年経ってしまった。私にとってアニメーションというメディアがコンピュータへの入り口であったなら、立体物を作ることはそこからの出口であるのかも知れない1。 このテキストは、アーティストの藤幡正樹が今から20年前に書いた「四次元からの投影物:デュシャンのオブジェからアルゴリズミック・ビューティーへ」の冒頭部分である。しかし、藤幡はこの立体物《禁断の果実》(1990)を作った後も、ZKMのパーマネントコレクションになった《Beyond Pages》(1995-97)ほかコンピュータを用いた作品を作り続ける。そして、いまでは日本のメディアアートを代表するひとりとなっている。 藤幡正樹と言えば、コンピュータを用いたインタラクティブな作品を誰もが思い浮かべる中、2006年にアニメーション作品《未成熟なシンボル》が発表される。自らコンピュータからの出口と書いた《禁断の果実》の制作後もコンピュータを使い続け、インタラクティブな作品で世界中の評価を得た藤幡が2、なぜインタラクティブではないアニメーション作品を作るのであろうか。 きっかけから言えば、平面性という問題なんです。トランプは平面でできています。写真などをはじめとするイメージ画像というものは、平面であることが前提になっていますので、平面的な物はイメージと実体のあいだの行き来が可能ですが、立体的な物は扱い難いんです。その意味で、テーブルとトランプという組み合わせは、イリュージョンを作りやすいということがあったんです3。 《未成熟なシンボル》をつくるきっかけのひとつに「平面性」の問題があったと藤幡は述べている。アニメーションという平面から作品を作り始めて CG に行き着き、CG を立体化した彫刻を作り、インタラクティブな作品を数多く作った後に、再...

メモ:ヒトの行為は平面に対してのみ行われている

5個の点が,5本の指を表している.この点を操作する指の動きは,iPadのディスプレイのガラスの上で,粘土をこねるような力を加えているようにみえる.ここには,平面と立体とのあいだで生じる移行に関する不思議さがあるように思える. ヒトはディスプレイの中には入り込めない.どうしても,ディスプレイの表面の二次元に留まらざるを得ない.その際に,ヒトは自らの身体の一部を,ディスプレイ上のイメージに置き換える.今回の映像では,5本の指を5つの点に置き換えている.正確には,5つの指の「先」を5つの点に置き換えている.指の「先」だけで「粘土」みたいなイメージを「こねる」.その際に,iPadという平面的なものを傾けたりすることで,ディスプレイ上の立体物のイメージを動かす.平面的なものに触れたり,動かしたりすることで,立体的なイメージを操作する.それが最終的には,3Dプリンターで立体的なものになる. ヒトの指はもともと立体なものだが,それが平面上の点になり,そこでの行為が立体を生み出す.この時,行為の「結果」は平面と立体とのあいだを移行しているが,ヒトの行為は平面に対してのみ行われている.ここに不思議な感覚を覚えるのである.

コントローラの問題 for touch-touch-touch

「コントローラに関するメモ」を書くきっかけになった講義のためのスライドのブログヴァージョン. コントローラの問題 for touch-touch-touch View more presentations from Masanori MIzuno .

ゲームのコントローラに関するメモ

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ゲーム&ウオッチ「ドンキーコング」 ファミリコンピューターのコントローラ 薄型のゲーム&ウオッチにジョイスティックを納めて,なおかつ確実に押している方向がわかるということから考案したんです.  橫井軍平ゲーム館:ゲームボーイを生んだ発想力,橫井軍平・牧野武文 講義の準備をするために読んだ本からの引用.近頃考えている「薄い」という言葉がでてきている.考えてみれば,ファミコンのコンピュータは薄かった.それに十字ボタンが貢献していることを知る.ファミコンの二次元の世界には,「十字ボタン」というジョイスティックを平面化したデバイスが 有効であった.ディスプレイ上の世界が二次元なら,それを操作するコントローラも平面的な「薄い」ものであった.二次元と平面/薄さの対応関係. NINTENDO64のコントローラ 家庭用ゲームに「奥行き」が出現し始めたとき,その空間を操作するインターフェイスも「3D化」が迫られた.ニンテンドウ64の3Dスティックは形としてはジョイスティックを小さくしたものだが,それをコントローラの中央に大きく据えたことで,左右どちらかの「親指で操作」することを可能にしたのだ. 「テレビゲームのインターフェイス」,桝山寛 in BIT GENERATION 2000 ゲームの世界が立体化していくと,コントローラも厚みを帯びて立体化していく.このコントローラは,ファミコンのように「平面的/薄い」ものではなく,立体的なオブジェである.握りやすさを考慮したひとつのオブジェ.オブジェは言い過ぎかもしれないが,少なくても平面的なものではなくなっている. NINTENDO64の1年半前に発売された,3Dグラフィックスの描画を特長としたプレイステーションのコントローラには「3Dスティック」はついていないが,これももはや「平面的」ではない. プレイステーションのコントローラ(初期型) スーパーファミコンのコントローラは,真上からみれば「平面的」であるが,上面にLRボタンがついたために『立体化』の兆しが見える. スーパーファミコンのコントローラ コントローラを「平面/立体」で考えてみると何か見えてくるだろうか.アタリ 2600 のジョイスティックも考えると,ファミコンのコントローラが示す「平面性」は家庭用ゲームのコントローラでは異...

キーボードにおける「薄さ/平面」という切断

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http://gtokio.tumblr.com/post/865929130/evolution-of-apple-keyboards 2007年に発表されたアップルのキーボードを見ていると,平面の上に平面を重ねている感じがしてくる.重ねられた平面がキー/ボタンなわけでだが,キー/ボタンという言葉から感じられるモノとして質感が,このキーボードから感じられない.平面の重なりという印象が強い.キー/ボタンがモノから平面になっている.そして,上の平面が引き剥がされてひとつの平面としてトラックパッドがでてきているような.この見方は,1984年からのキーボードを順々に見てきても思い浮かばない.2010年のトラックパッドから,2007年のキーボードを見たときに思い浮かんだ.2007年のキーボードと,それまでのキーボードのかたちとのあいだにには,「薄さ/平面」という切断がある気がする. 「薄さ/平面」以前のキーボードは,どこまでもキーボードであり続ける.「薄さ/平面」以後のキーボードは,平面の重なりを変えればキーボードにもなるし,トラックパッドになるというように,何にでもなることができると考えることはできないだろうか.

カフェで平面についていろいろと考えたメモ

カーソルがあるGUIとカーソルがないタッチにおける平面の差.これは単にインターフェイスの問題だけなのだろうか. カーソルを動かし,スクロールバーを上下させて,平面を上下させる.スクロールバーを手で動かしている感じ.対象を掴むという感覚.対象は,平面から独立している. タッチの場合は,対象が載っている平面自体を動かすという感覚.平面が動くから,その上に載っている対象も動くという感じ.平面の上に載っている対象は,対象として独立していない.載っている平面に結びつけられている. 平面に対する感覚の違いは,インターフェイスの問題だけにとどまるものであろうか.ここからアートやアニメの問題に広げて行けば,ひとつの平面論が構成できるのではないだろうか. 石上純也のとても薄い天板を持つ《テーブル》における,極限にまで薄い平面とそれを支える構造との関係. 藤幡正樹のインタラクティブではない作品《未成熟なシンボル》におけるプロジェクションが作り出す極限にまでに薄い映像世界とモノの厚さとの関係. 藤木淳の《無限回廊》における二次元と三次元とのあいだの関係. パターンがはめ込まれたアニメにおける平面.(このパターンが二次元と三次元とのあいだにある次元を作り出していると指摘する論考があるらしいので読んでみる.) これらは二次元と三次元とのあいだに漂う新しい平面の問題を提起しているような気がする. カーソルをもつGUIの平面は,二次元でもなく三次元でもない新たな平面を作り出したと言われるが,タッチのインターフェイスは,とても二次元的な気がする.どこまでも二次元だけで成立している平面.これはこれで今までとは異なる仕方で,平面が構成されている気がする. GUIが一般化して,それがタッチに変わろうとするときに,建築やアート,ゲーム,アニメの領域でそれぞれ新しい平面を示すような作品が生み出されていること.ここに共通する何かを見つけ出すことはできるであろうか.コンピュータによって可能になったGUIが示してた新たな平面.そして,その新たな平面を自ら更新するコンピュータ. 二次元と三次元とのあいだに漂う新たな次元を探る一方で,二次元であり続ける平面が生み出されてきていること.

二重肯定の世界のコピペ

もうひとつの ブログ に書いた文章.気になったのでこちらにもコピペ. ディスプレイは見ているときには,単なる平面で, 触れてた時には,モノ,立体的になる. でも,モノになっても,やはり平面なんだよな. 触れていても,見ているから. 触れてもいるし,見てもいる. 平面でもあり,モノである. Aでもあり,Bでもあること. 二重記述の世界.しかも二重肯定の世界. 二重肯定の世界? またまた無責任だけれど,自分的には面白い言葉. どんどん世界が,二重肯定の世界になっていっている. Aでもあり,(同時に)Bでもある. 同一性が前提とされない世界. マルチモーダルな世界. ちょっと違うか. 同時に複数の存在でありえる世界. 多が多であり続ける世界. 当たり前のようだけれど,なんかひっかかる. 平面が平面のまま,立体であること.または,その逆.ディスプレイの中の出来事.机の薄さ.アンフラマンス.次元のあいだの移行.半透明.あいまいさの境界. コピペして,もう少し考えようとしたらけれど,こちらではあまり考えがまとまらない.まだ,そういう段階だということかもしれない.

再びの .review

.reviwe にアブストを書いてみた. http://dotreview.jp/abst/ iPhone と  Apple wireless keyboard の組み合わせで比較的長い文章を書いてみる実験.そこから見えてくるかもしれない,新しい平面の感覚の輪郭をなぞれればいいなという試み.

「側面」についてカフェで書いたメモ

側面が気になる. 横の「平面」.平面を支える側面. 同じ「面」なのに,側面と平面では扱いが違う. 平面をはだいたい,というかほぼ正面からみた面. メインの面.でも,側面は横にあって,普段は目立たない. でも,側面がなければ平面はなりたたない. それが水平であっても,垂直であっても. モノとしある時点で,平面には側面がある. でも,コンピュータのなかには,側面がないような. デスクトップメタファーには平面しかない. 側面がないのではないか.これが面白い点. 自分で勝手に面白がっているだけなのかもしれないが. 側面が薄いと,それは側面とは呼ばれなくなる. 面という意識がなくなるから. 側面がなくなって,単なる平面になる. 実際には極薄の側面があるのだけれど, ヒトはその極薄の側面を無視する. 側面.デスクトップではカーソルを横から眺めたらどうだろうという疑問を思い浮かべる.こんなことを思うのヒトは少ないかもしれないが,確実にいるはずです.では,iPhone とかのディスプレイの中を横から眺めるということを思い浮かべるヒトはいるだろうか.少なくとも,これを書く今のいままで,そんなことを思ったことはなかった.iPhone のディスプレイの中には側面を想像させる,側面というか,横から眺める・覗くという発想を呼び起こすモノや出来事がないのかもしれない. カーソルが作る半透明な層みたいなものがないからかもしれない.平面は重なると側面を作る.

緑の風景

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すべてがグリーンに囲まれた世界がひとつあって,そこに様々な別の世界が当てはめられていく映像のほとんどがコンピュータを用いた合成で出来てることを知ってはいても,このクロマキーについての映像を見ると,とても不思議な気分になってくる.世界そのものが平面で構成されているという感覚.レイヤーの重なりというのものとも違う.ただ平面の組み合わせで出来ている.世界が平面になっているという感覚.重なりもない. 撮影している時は,緑の壁があってその先がないのに,編集・合成時に緑の壁に道路が現れる.壁の先があるようにみえる.でも,実際には道路の先がない.この映像で東洋人の人がタイムズスクウェアの中心にいる映像があるけれども,実際は緑の壁に取り囲まれているだけ.その先には何もない. 緑の薄い壁が組み合わされて,世界が出来上がる.「薄い」といっても実際は薄くはないけれど,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.出来上がった映像に映し出されている,しっかりと厚みをもった世界と比べると,緑の壁は「薄い」.このような緑の壁は,コンピュータの中では「レイヤー」として扱われている,まさに厚さをもたない極薄の層なのであろう.しかし,現実には確かな厚みをもつ平面的なモノである. 緑の「薄い」壁が組み合わされて世界が出来上がる.「薄い」といっても実際には薄くはない.しかし,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.その「薄い」緑の壁を撮影して作り出されるのは,しっかりと「厚み」をもった世界である.映像という「平面」的なイメージの中で緑の「薄い」平面から「厚み」をもった立体の世界が生じる.[2010.11.14 書き直し] クロマキーに関する映像を見ていると不思議な感じが残り続けるのだけれど,それが何なのかはまだはっきりとしない.少し書いてみても,まだはっきりとしていない. この緑の風景は,コンピュータの中で起こっていることを,現実の世界に持ち込んだような風景なのかもしれない.