緑の風景



すべてがグリーンに囲まれた世界がひとつあって,そこに様々な別の世界が当てはめられていく映像のほとんどがコンピュータを用いた合成で出来てることを知ってはいても,このクロマキーについての映像を見ると,とても不思議な気分になってくる.世界そのものが平面で構成されているという感覚.レイヤーの重なりというのものとも違う.ただ平面の組み合わせで出来ている.世界が平面になっているという感覚.重なりもない.

撮影している時は,緑の壁があってその先がないのに,編集・合成時に緑の壁に道路が現れる.壁の先があるようにみえる.でも,実際には道路の先がない.この映像で東洋人の人がタイムズスクウェアの中心にいる映像があるけれども,実際は緑の壁に取り囲まれているだけ.その先には何もない.

























緑の薄い壁が組み合わされて,世界が出来上がる.「薄い」といっても実際は薄くはないけれど,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.出来上がった映像に映し出されている,しっかりと厚みをもった世界と比べると,緑の壁は「薄い」.このような緑の壁は,コンピュータの中では「レイヤー」として扱われている,まさに厚さをもたない極薄の層なのであろう.しかし,現実には確かな厚みをもつ平面的なモノである.

緑の「薄い」壁が組み合わされて世界が出来上がる.「薄い」といっても実際には薄くはない.しかし,感覚的に「薄い」と感じる壁がある.その「薄い」緑の壁を撮影して作り出されるのは,しっかりと「厚み」をもった世界である.映像という「平面」的なイメージの中で緑の「薄い」平面から「厚み」をもった立体の世界が生じる.[2010.11.14 書き直し]

クロマキーに関する映像を見ていると不思議な感じが残り続けるのだけれど,それが何なのかはまだはっきりとしない.少し書いてみても,まだはっきりとしていない.

この緑の風景は,コンピュータの中で起こっていることを,現実の世界に持ち込んだような風景なのかもしれない.

このブログの人気の投稿

【2023~2024 私のこの3点】を書きました.あと,期間を確認しないで期間外の3点を選んで書いてしまったテキストもあるよ

マジック・メモ:行為=痕跡=イメージの解体可能性

インスタグラムの設定にある「元の写真を保存」について

映像から離れていっている

出張報告書_20150212−0215 あるいは,アスキーアート写経について

「グリッチワークショップ」を見学して考えたこと

画面分割と認知に関するメモ

矢印の自立

アンドレアス・グルスキー展を見て,谷口暁彦さんの習作《live-camera stitching》を思い出しました

京都工芸繊維大学_技術革新とデザイン_インターフェイスの歴史