愛おしい指紋/カラフルな指紋
佐藤雅彦さんがディレクションした「これも自分と認めざるをえない」展の書籍『属性』を買って読んだ.展覧会は既に体験していて,そのときの体験も前に書いた→「はしもと」さんを見ながら書き始めた「これも自分と認めざるをえない」展のメモ
『属性』とともに,美術手帖も佐藤さんの特集しているので,少しずつこの展覧会について考えられたらいいなと思っている.今回は《指紋の池》.と言っても,これはもう佐藤さんの文章がいいと思う.
自分の指紋に対して「愛おしみ」「慈しみ」の感情を抱くこと.この作品を実際に体験すると,佐藤さんのこのテキストを読んでいるかどうかにかかわらず,きっとほとんどの人が,「愛おしみ」や「慈しみ」の感情を抱くと思う.テキストの作品の仕組みのところだけ読むと,センサーを使って人の行為に反応するだけの作品の思える.けれど,多くのメディアアートが示す無機質さとは異なる感情をこの作品は呼び起こす.それは,指紋が生まれ,旅立ち,再び戻ってくるときの動き,アニメーションの力によるものだと思う.
ディスプレイに映っている指紋の大きさであったり,そのちょっとした動き方が,とても細やかにデザインされている.このアニメーションの力と指紋認識センサーとが組み合わさることで,「新しい慈しみを表象させる装置」が生まれているのだと思う.アニメーションも古くからある装置であり,指紋認識センサーも最先端の技術ではない.でも,これらを組み合わせることで,「人類において初めてのこと」が起きてしまう.
『属性』とともに,美術手帖も佐藤さんの特集しているので,少しずつこの展覧会について考えられたらいいなと思っている.今回は《指紋の池》.と言っても,これはもう佐藤さんの文章がいいと思う.
この『指紋の池』という作品では,指紋認証のセンサーに指をつけると,自分の指紋が池に放流されて,まるで魚のように泳ぎだします.そして,一旦泳ぎだして他の人の指紋と群れ合うと,自分の指紋がどれか分からなくなります.これが普段の私たちの状態です.しかしもう一度センサーに触れると,その群れの中から一つの指紋が抜け出して,一目散に自分の方に近寄ってきます.その時,初めてあなたは自分の指紋に対してある愛おしさ,あるいは慈しみを感じるのです.自分の指紋にこのような感情を覚えるのは,これが人類において初めてのことです.この『指紋の池』は,自分が実際には同定できない自分の属性に対して,新しい慈しみを表象させる装置です.(p.10)
自分の指紋に対して「愛おしみ」「慈しみ」の感情を抱くこと.この作品を実際に体験すると,佐藤さんのこのテキストを読んでいるかどうかにかかわらず,きっとほとんどの人が,「愛おしみ」や「慈しみ」の感情を抱くと思う.テキストの作品の仕組みのところだけ読むと,センサーを使って人の行為に反応するだけの作品の思える.けれど,多くのメディアアートが示す無機質さとは異なる感情をこの作品は呼び起こす.それは,指紋が生まれ,旅立ち,再び戻ってくるときの動き,アニメーションの力によるものだと思う.
ディスプレイに映っている指紋の大きさであったり,そのちょっとした動き方が,とても細やかにデザインされている.このアニメーションの力と指紋認識センサーとが組み合わさることで,「新しい慈しみを表象させる装置」が生まれているのだと思う.アニメーションも古くからある装置であり,指紋認識センサーも最先端の技術ではない.でも,これらを組み合わせることで,「人類において初めてのこと」が起きてしまう.
「これも自分と認めざるをえない」展とは関係無いが,これもまた指紋を今までにない方向で意識させた表象ではないだろうか.
IPhoneにいつも残っている指紋のあと.それはほとんどは汚いものとして,拭き取られる.しかし,今回のiPodの広告では,拭き取られる指紋がカラフルになって登場している.自分の属性とはほとんど関係のない,誰のモノだか分からない指紋ではあるが,この広告で,私たちはこれらのカラフルな指紋を受け入れる.少なくとも,拭き取りはしない(実際,拭き取りたくても,拭き取ることはできないが……).
《指紋の海》での愛おしい指紋と,アップルのカラフルな指紋.タッチ型インターフェイスで,指紋をべたべたとディスプレイにくっつけることはセキュリティ上の問題があるとも指摘されている.そのセキュリティに関する指紋認識センサーを使って,「愛おしい」指紋を生み出すユークリッドの《指紋の海》.ディスプレイにべたべた付く指紋自体をカラフルにして,広告の主役にしてしまうアップル.どちらの表象も,私たちに今まで指紋に対して覚えることがなかった感情を与えてくれる.
しかし,こうやってセキュリティや監視社会という枠組ではなく,《指紋の海》やアップルの広告が示すようなかたちで,指紋に意識を向けることは何を意味するのであろうか.《指紋の海》の前提にあるのは「属性」という考え.アップルの指紋は,タッチ型インターフェイスが作り出したディスプレイに触れることで生じる「楽しさ」が前提にある.「属性」と「楽しさ」,これらは相容れないものかもしれない.「指紋」という表象でふたつの全く異なる事象を結びつけているだけなのかもしれない.
アップルの広告において,誰の指紋かわからないと言うことは,それは自分の指紋でもあることを示してもいる.だから,ここには「あなたの」という意味が生じるかもしれない.指紋という誰もが持っている属性だからこそ,それは私のものであると同時に,あなたのものにもなる.この指紋はあなたのもので,iPod nano の楽しさはあなたのものですよ,とアップルは言っているのかもしれない.そうすると,《指紋の海》で,指紋が戻ってきてうれしいのは,指紋が他の誰かのものになることを選択せずに,「私」を選んでくれたからなのかもしれない.
「私の属性が私を選択する」ということが,《指紋の海》で起こっている.それを私たちは「慈しみ」,「愛おしい」と感じている.しかし,見方を変えれば,私は私の属性からは逃れられないということでもある.セキュリティや監視社会の枠組みに捕らわれてしまった.せっかく,佐藤さんと桐山さんが「慈しみ」という感情を引き出す表象を作り出してくれているのに…….
セキュリティに捕らわれるということは,「私」に囚われることではないだろうか.《指紋の海》は,指紋という属性を扱いながら,「私は私である」ということを示すのではなく,「私の属性が私を選択する」ことを示している.行為の主体を「私」ではなく,「私の属性」にすることで,普段はセキュリティや監視社会の問題として扱われる指紋に対して,私たちは「慈しみ」や「愛おしさ」という感情を抱いてしまうのである.この「新しい慈しみを表象させる装置」は,これからますます厳しくなっていくであろう監視社会に,全く異なる意味づけを与える可能性をもっているかもしれない.