ドイツには行けなかったけれど……
ドイツでの「翻訳」をテーマにしたシンポジウムに応募したアブスト.ここに上がっているということはボツ.この大元の文章をここまで修正してくれた mzkawa さんに感謝.いっしょにドイツで発表したかった…….
これを頭の中で反芻しつつ,.review のアブストも別のテーマで書いてみようと思っている今日この頃.
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藤幡正樹の作品における行為と出来事(仮)
日本を代表するメディアアーティストとして知られる藤幡正樹の作品は,多くの人がインタラクティブ、即ち人とメディアとの相互作用性/対話性に特徴があると思っている.しかし,藤幡は「インタラクティブ」という概念自体に疑問を投げかけている.最近の藤幡の作品は,インタラクティブなものではなく,ループするアニメーション作品であったりする.しかし,アニメーション作品であっても,そこにはインタラクションがあると,藤幡は考えている.本発表は,藤幡作品におけるインタラクションを,行為と出来事という観点から考察するものである.ここでは、ドナルド・デイヴィドソンに代表される分析哲学の言語観に依拠し, 人間とメディアとの間で生じる一種の「コミュニケーション」の問題としてインタラクションを捉える.そして,人間とメディアという非対称な関係において生じるコミュニケーション成立の可能性の要件――言語一般で言うところの「翻訳」の問題――について考えることになるであろう.
これを頭の中で反芻しつつ,.review のアブストも別のテーマで書いてみようと思っている今日この頃.
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藤幡正樹の作品における行為と出来事(仮)
日本を代表するメディアアーティストとして知られる藤幡正樹の作品は,多くの人がインタラクティブ、即ち人とメディアとの相互作用性/対話性に特徴があると思っている.しかし,藤幡は「インタラクティブ」という概念自体に疑問を投げかけている.最近の藤幡の作品は,インタラクティブなものではなく,ループするアニメーション作品であったりする.しかし,アニメーション作品であっても,そこにはインタラクションがあると,藤幡は考えている.本発表は,藤幡作品におけるインタラクションを,行為と出来事という観点から考察するものである.ここでは、ドナルド・デイヴィドソンに代表される分析哲学の言語観に依拠し, 人間とメディアとの間で生じる一種の「コミュニケーション」の問題としてインタラクションを捉える.そして,人間とメディアという非対称な関係において生じるコミュニケーション成立の可能性の要件――言語一般で言うところの「翻訳」の問題――について考えることになるであろう.